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作品名:相対心理パラドクス 作者:ソロタカ

最終回   3
 当時のことを思うと、不思議としか言いようがない。紅子は今でもあのような経験をしたことが信じられず、まるで夢を見ていたのではないかと思うほどであった。
 新涼にこの出来事を伝えようと思うことはなかった。言ってしまうと、秋親との繋がりを否定してしまうような気がしたからだ。
 紅子は病室から窓を眺めて、ぼんやりと夕暮れの空を眺めた。
新涼がたくさんの管を身体に付けられ、こうやって眠りに就いているのを見ると、紅子はこの選択が間違っていなかったのだろうかと、何度も自分に問い掛けた。
 秋親と連絡が途絶えた年から三年後、新涼と紅子は駆け落ちをした。
何度も新涼の両親に挨拶に伺い、結婚の許可を得ようと三年間頑張ったのだが、とうとう結婚の了解を得られず、八方塞がりになった二人は駆け落ちを決行したのだ。当時はお互い意固地になっていたところもあったのだとは思うが、それ以外方法を思い付かなかったのだ。
 もっと長い間説得を続ければ、あるいは結婚の許可が下りたかもしれない。けれど、現状を打破出来ずに、当時の新涼と紅子はお互い感情をぶつけ合うことが増えてきてしまった。二人でこんなくだらないことでけんかをしているのは、人生の無駄遣いだとやがて気付く。
 そうして結局二人は駆け落ちを決めた。駆け落ちをしたという負い目もあり、紅子は実家にさえ顔を出せない状況に陥った。だからお互いの実家の支援を受けず、二人で生きようと決めた。
新涼と二人で横浜を離れ、紅子の生まれ故郷である静岡でアパートを借りて住んでいた。
紅子はファーストフード店でアルバイトを始め、新涼は食品工場で働き始めた。作業をする際、やはり右手がないことがハンデとなり、人よりも作業が遅くなってしまい、上司から厳しく指導を受けることもあったようだが、新涼自身から愚痴を聞いたことは一度もなかった。不景気のためか、正社員ではなく新涼もアルバイト扱いだったので、やはり二人の生活は厳しかった。だが苦しくはなかった。新涼が一緒にいてくれたからだ。
十年後の友人がいつか言っていたように、宝くじで『稼いで』おけば良かったとは思わなかった。誇りを失わず、笑って一生を終えたかったからだ。
 そんな生活を続けていたが、パソコンの回線を遮断してから八年後の十二月二十四日の午前十時過ぎ、新涼の会社から突然電話が掛かってきて、彼が倒れたと伝えられた。
 秋親の書いた癖のある丸文字の不思議な手紙の通り、八年後の十二月二十四日、紅子は仕事を休んで電話の前で待っていたときのことだった。
 秋親が嘘を言うとは思えなかったし、彼は悪戯をして面白がるタイプではないと紅子は信じていた。恐らく、自然災害や事故の類があるのだろうと気を張って待ち構えていた。
だがその知らせは事故や自然災害の類ではなく、病気であった。
 急いで病院に駆けつけた紅子を待っていたのは、このように管を沢山通され、意識のない彼の色の失せた顔だった。
 幼い頃から身体が弱く、心臓を元々患っていたことは聞いていたが、それ以外にもここ数ヶ月の激務で無理をしたためであろうと医者は言った。何故秋親がこのことを知っていたのかは、未だにわからない。
 それから二年、新涼は入院を続けている。長い間同じ病院にはいられないと言われたので、何度か病院を転々として、とうとう横浜の病院へと渡ってきてしまった。
 こんなとき、彼の実家に頼れたらどれほど良いだろうと何度も何度も思ってしまう。自分たちで決めた選択なのに、紅子は自分の甘さと情けなさに腹が立った。
 今の自分を見て秋親はやはり「馬鹿だな」と嘲笑するだろうか。彼は淡々と宝くじでお金を稼いで、鮮やかに自分の世界に戻って行き、一生金で苦労することなく暮らせるのだ。
 あまり長くはないと医師から伝えられたのは、何度目かの検査後のときだった。紅子は別部屋に呼び出され、医師からそのことを聞いた。
「心臓移植をすれば話は違ってきますが、何分それについては金銭的にも厳しいでしょうし、ドナーの数がかなり少ない上、拒絶反応を起こすことも少なくありません」
 気遣っているような医師の言葉に、紅子は頷いてみせた。心臓移植をするお金など、紅子は持ち合わせているわけがない。
 ふと抱いてしまったのは、息子の命が危ないことを知れば、両親が何とかしてくれるのではないかという淡い希望だった。


 勝手に出て行ったのだから、もう我々の息子ではない。血縁ではない他人に、金銭を援助するつもりはない。留学を終えた弟に理事の座を継がせることになったので、もう新涼は存在自体に価値がなくなった。二度と連絡をしないで欲しい。
 新涼の両親からの回答は、こういうものだった。冷たいご両親だと思ったが、勝手に出て行った自分たちにも非があることは否めない。
 紅子は彼の実家からトボトボと歩き、病院へと向かった。冷たい風が彼女の頬に当たる。
「紅子」
 新涼はベッドに腰掛け、こちらを見て微笑んだ。今日は起きているようだ。痩せこけた頬は以前とは変わり果てていたが、彼の優しい心は変わっておらず、紅子は変わらぬ気持ちを持ち続けていた。
「今日は起きて大丈夫なの?」
「随分、体調が良いんだよ。それよりいつも看護をすまないね。とても感謝しているよ」
 紅子は微笑んだ。
「それより、先生はまだいらしていないのかしら。いつもこの時間は、検査しにくるわよね」
「そういえば、そうだね」
 気付けば病院内はどこか騒然とした雰囲気が漂っていた。 
紅子は廊下に顔を出してみる。看護師たちが走り回っており、それを入院患者たちが不思議そうに眺めていた。急患だろうかと思い、前の部屋に入院している男性に話しかけてみた。
「何かあったんですか?」
 男性は神妙そうに頷いて、紅子に教えてくれた。
「何だか、足を滑らせて二階から落ちてしまった人がいるそうだよ。誰かの見舞いにきた人らしいけれど」
「えっ」
 二人は同時に声を上げた。先生たちはそちらの対応に追われているのだろう。
 新涼に近寄って、紅子は思わず彼の手を取った。
「奥さん、ちょっときて下さい」
 ふと、看護師の一人が病室に顔を覗かせて、慌てた様子で紅子を呼びにきた。二人は顔を見合わせると、紅子は立ち上がった。
「何でしょうか」
「実は、あなたの旦那様に面会にいらっしゃったという方が、窓から落ちてしまったの。旦那さまには内緒で、少しいらして」
「え?」
 訝しげに眉を潜めた紅子は、看護師に連れられて小さな個室へと案内された。


 部屋には数人の医師が神妙な面持ちで紅子を見ていた。紅子は思わず背筋を伸ばして部屋へと入る。
 機材音がしんとした部屋に響き渡っており、部屋の奥には誰かが横になっていた。
「あの、何故私が呼ばれたのでしょうか」
 訳がわからず、紅子は首を傾げた。医師の一人が声を出す。
「先ほど、旦那様の病室を訪ねにきた男性です。彼は看護師が病室を調べている間、開いている窓に寄りかかっていたのですが、誤って落下してしまったそうです。男性は頭から落ちてしまい、意識不明の重態です。臨床的に言うと……脳死です」
 医師たちは紅子を横たわっている人を見るよう促した。紅子は顔を覗き込む。
 ハッと息を呑んだのは、十年前にパソコンの画面越しにいつも見ていた懐かしい顔だったことに気付いたからだ。秋親が目を閉じたまま人工呼吸器を付けられている。
 彼は痛々しいくらい沢山の包帯に巻かれていた。顔に生々しい傷が付いている。紅子は放心しながら秋親に近寄った。
 彼の頬を撫でたが、全く反応はなかった。かろうじて体温を感じるだけである。紅子の周囲には酸素がなくなってしまったようだ。彼女は呼吸を荒くして何とか酸素を吸い込もうと模索する。
「秋親、さん?」
 初めて口に出した彼の名がこのような場面だとは、と紅子は呆然と秋親を見下ろした。何故彼が自殺など図ったのだろうか。
 十年前と変わらぬ顔だ。当然だ、彼はまだ二十八歳のままなのだから。紅子は逆に年を取り、三十五歳になってしまったというのに。
「どうして、どうして」
 医師は何かを紅子に渡した。彼が握り締めていたという、シンプルな封筒に包まれた手紙のようだった。
「お見舞いの花と、これをあなたに渡しにきたそうです。それから彼はこれを大切そうに抱えていました」
 医師が気遣うように紅子を見てから、秋親のベッドの側に立て掛けてあった大きな額を手に持った。
「この肖像画の人物は、あなたですね」
 丁寧に額に入れられてあった肖像画の紅子は、自分でも目を見張るほど優しい表情で微笑んでいた。秋親が描いたのだろうか。
 若い頃の紅子の肖像画だ。当時髪を伸ばし、緩くパーマをかけていたことを思い出す。肩の下までしか描かれていなかったが、恐らく肩から掛けた紫色の紐らしきものは、あのときの下着だろうとすぐにわかった。
 絵の中から溢れ出る温かい雰囲気に、紅子は思わず口を押さえて涙ぐむ。私はこんなに美人ではないわよ、と心の中で秋親に訴えた。
 封筒には見覚えのある丸文字で『紅子様へ』と書かれてあった。
紅子は震える手で封筒を破る。中には手紙が数枚と、以前紅子がゴミ箱に捨ててしまったドナーカード、何冊かの通帳が丁寧に包まれて入っていた。通帳の中身は、合わせて三億円以上あるようだ。紅子はそれらに思い当たる節があって息を呑んだ。


 親愛なる十年後の紅子様

 私の不慮の事故は、大層驚かせてしまったことと存じます。その点について、深くお詫びを申し上げます。

 さて、上手くいっていることを願って、紅子さんにお願いがあります。
私の心臓を新涼へ移植して頂きたいのです。

 私は五歳の頃、大きな罪を犯しました。自家の経営する蔵屋敷学園高校に遊びに行った際、エレベーター付近で遊んでおり、悪戯をして指を挟まれそうになったのです。近くにいた下の兄が慌てて私の手を払い、身代わりとなって、彼に右手首を切断させるという大怪我を負わせてしまいました。
 兄の肉片を削り、画家になるという彼の夢まで奪ってしまった罪深い私は、いつか彼のために罪滅ぼしをしなければならないと幼心に誓いました。

 十八歳から二十二歳まで、イタリアの大学へ行きました。その頃日本で、兄が蔵屋敷家を勘当されてしまう事件があったこともろくに知らず、私はのうのうと絵の勉強を続けていたのです。
 仲の良かった私たちは、国際電話を通じて良く紅子さんの話をしました。顔を見せたいからと、引き伸ばしたあなたの大きな写真をパネルに入れて、国際郵便で送ってきたときは笑ってしまいました。メールを使えば良いのにと笑った記憶があるのですが、兄は昔から機械に疎く、照れ笑いを返されたことがありました。
 写真の中の紅子さんは、とても幸せそうに笑っており、私も会ったことのないあなたのことを良く知っているようなつもりになったものです。
 兄は交際を反対され、駆け落ちを考えている時期だったにも関わらず、電話でさえも自分の置かれているつらい境遇は決して語りませんでした。ただ紅子さんと幸せに暮らしている。勘当寸前の状況だったのに、それだけを報告していたのです。弟に心配をかけたくないと思っていたのでしょう。紅子さん、あなたはいつか新涼を『弱い人』と例えていましたが、私は兄ほど強い人間を他に知りません。

 帰国して、新涼の行方を聞いても口を閉ざしていた両親には私も閉口しております。紅子さんには多大なご心労をかけてしまい、両親に代わってお詫びを申し上げます。
その頃、兄は紅子さんと駆け落ちした時期だと思います。帰国後、行方を捜していた私に、兄はこっそりと会いにきてくれました。

 それから、兄と私は時間が合えば食事をし、現状を語り合ったりしました。紅子さんを紹介したいと言ってきたことが何度かあります。しかし、私はそれを断り続けました。写真の中の紅子さんではなく実物に会ってしまえば、兄と紅子さんの幸せを素直に願えなくなってしまうかもしれないと一瞬でも考えてしまった、私の歪んだ感情をどうにか理性が制止していたからです。
 書いている私にも未だに良くわからない感情です。好きに解釈して下さい。

 兄が仕事場で倒れたあの十二月二十四日のことを、私は忘れることが出来ません。家族として情けないことに、兄が倒れたことを後になって知ったからです。
 当時何故知らなかったかと言うと、学校で教師陣と忘年会をしていたからです。病院から電話がかかってきていたことも気付かずに、私や両親たちは飲み明かしていました。私たちは新涼にとって最低の家族です。紅子さんだけが付き添ってくれたことが、兄にとって唯一の希望だったことでしょう。あなたにはどれほど感謝をすれば足りるのか、皆目見当もつきません。ありふれた言葉で申し訳ないけれど、本当に、本当にありがとう。

 その後、一人暮らしを始めた私ですが、パソコンを媒体に十年前の紅子さんと繋がったときは驚きました。兄の彼女が、若い頃の姿のまま私の目の前に現れたのですから。紅子さんにとっては十年前の出来事ですね。私にはほんの数週間前の出来事です。
私は未だにあの現象を神の悪戯だと思っていますが、きっと紅子さんはタイムワープだと言い張るのでしょう。紅子さんは覚えているでしょうか。あなたと私の考えはまるで鏡像シンメトリーのようにいつも正反対でした。

 紅子さんは十年後の世界の私と話すことだけで罪の意識に苛まれているようでしたが、私は逆にこれは神が与えてくれた最初で最後のチャンスだと捉えていました。兄の手術費を稼げるという打算的な考えからでした。紅子さん、あなたはいつか私のことを『ひどい男』と称していましたが、笑ってしまうほどに自分でもそう思うのです。皮肉なことに、これだけはあなたの意見に賛同します。

我々の親は世間的に見れば正しい人たちなのでしょうが、厚情や温情といった、人に備わっているであろう感情がどこか欠けているのも事実で、新涼の命と数億を天秤にかけたところで結果は見えていたのです。しかし、彼らにも命の尊さはわかるのではないかと考え、私は必死に新涼の病状を伝え、土下座をしながら金の無心をするという、この上なく情けない行動を取りました。
 さらに情けなかったのは、私の訴えすら両親が冷徹に退けたことです。そんな世俗を憂いたところで仕方はなく、ですが私はどこにこのやるせなさをぶつければ良いのかわからず、酒と煙草に溺れる日々が続きました。
 ならば私が借金してでも兄を救えればと計画を練っていたときの、パソコンを媒体としたあなたとの邂逅でした。
 紅子さんは大げさだと笑うかもしれませんが、あのときの私は過去のあなたを見た瞬間、まるで女神が私を救いにきてくれたのかと本気で思ったものです。
 そして、人間として愚か極まりない、不正に宝くじを当てるという悪事を働いた次第です。兄の手術費を稼ぐためとはいえ、あなたの言うとおり大罪でしょう。

封筒の中の通帳は、新涼と紅子さんの今後のために、是非有効利用して下さい。僅かですが、私が美術科教師として働いて貯めた少額も入っています。元気になったら、二人で海外旅行でもして下さい。フィレンツェは良い町でした。同じ景色をあなた方と共有したいです。
 
 私がドナーで新涼がレシピエントならば、恐らく拒絶反応が出る確率は普通のケースよりも低いでしょう。顔は似ていないとはいえ、血を分けた兄弟なのですから。

 さて、私の処遇ですが、過去を知った上で宝くじを当選させるという悪事を働き、未来で笑いながら生きていくことは、決して許されないことでしょう。罪を犯したら罰を受けることは、浅学非才ながら感覚でわかっているつもりです。
 新涼のために自分の心臓を差し出すことが、果たして罰かどうかは甚だ疑問ですが、命を捧げるという点で死刑判決を受けたとみなされればと自己完結しています。
 本当は、せめて十年後のあなたを一目見て、あなたの声を聞いてからとも考えたのですが、弱い私はそれだけでようやく培った覚悟が折れてしまいそうで、またそれが叶わぬことも私の罰と自戒致します。
 
 これは私の想像ですが、恐らく紅子さんは『命を粗末にするものではない』と私を叱るのではないでしょうか。しかしどうか、私の死を魂の消滅と考えないで頂きたいのです。命の灯火は、新涼の鼓動となって燃え上がることが出来るからです。あなたのように上を向いて胸を張ることは出来ませんが、私なりに幸せな人生だったと果てることが出来そうです。

兄の肉片を奪ったせめてもの償いに、私自身の内臓を彼に返還するという考えは、独善的で身勝手な解釈でしょうか。
 さらに、十年前の世界を神の視点で見下ろした私の罪は、果たしてこのちっぽけな命で償うことが出来るでしょうか。死んでからゆっくりと考えてみたいと思います。

 最後になりましたが、新涼と紅子さんのご健康とご多幸を天からお祈りしております。

蔵屋敷 秋親より


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