「そうか、十年前はまだ磐田が強いのか」 紅子の世界で、秋親は空のボストンバッグを手に、前回一千万円を受け取る際に購入したサッカーくじを眺めながら銀行へと向かう。 サッカーくじは、対戦する両チームのどちらが勝つか、負けるか、引き分けるかを予想して購入する、秋親からしたら一番安定して当てやすいくじだ。 十年前は不動の王者と言われていたバルド磐田だが、秋親の時代になると徐々に衰退していく。秋親の世界では千葉ウェルシュドラゴンとアリアンロッド横浜の二強時代となっている。つまり、丁度この辺りからバルド磐田が衰退していくのだ。秋親も今回、磐田を負けにしてくじを買ったのだが、紅子がそれを見て大層驚いていたのが印象的だった。紅子は地元の静岡勢を応援していたからだ。十年後に降格争いをしていることは、知らせないほうが良さそうだった。 ふと静岡からわざわざこちらに出てきて一人暮らしをしているのか、とぼんやり考えながら、秋親は今回の一等の当選金、二千六百三十万円を現金で受け取ると銀行を後にした。 何度かこの作業を続けなければならない。三億円貯めるにはまだ少し時間がかかりそうだった。十年前の世界で『稼いだ』金額は自分の世界で全て貯金する。次回のサッカーくじは一等一億円が当選する回だとインターネットで調べてわかっている。最高額は二億円だが、金額÷人数で割り振られるため、十年前は二人の当選者がいた計算になる。秋親も当ててしまうわけだから一等が三人出てしまい、三等分をした六千万円強になってしまうのだが。十年前二人で一億円当てた人には申し訳ないが、ついでに来週のサッカーくじと、クジ∞を購入してから十年後の世界に戻ることにした。そう思うとかなり他人の歴史を変えているのだな、と秋親は振り返る。 この現象が起こったことを考えたが、ただ秋親にしてみればラッキーとしか言えない。紅子は罪悪感や倫理観に悩み、出来るだけ未来のことを知ることのないよう、世界を交代したときには自分の世界に浸り、十年後の世界から心を閉ざしているようだったが、それはもったいないことだと秋親は思っている。 この現象が起こったのが偶然だとしても、その偶然を前向きに捉え、見えない何かから弱点をどんどん突いていけば良いのだ。 ドッペルゲンガーなど恐れずに、自分の未来はどうなっているのかを見てくれば良い。 そうすれば自分の世界に戻った際に、未来で失敗しないよう予防線を張った行動が出来る。突然起こる事柄に体面して後悔するのではなく、前もって未来のことを知っていれば、後悔する以前にその問題に向けて備えておくことさえ出来る。悩むのは行動してからでも遅くはない。生きることは冒険なのだから。 過去を変えるよりも、未来を知ってしまう方が抵抗は大きいかもな、と自分の十年後の世界を想像してふと恐ろしくなった。 「俺、過去で良かったな……」 ぽつりと呟いた本音は、道を優雅に歩いていた黒猫に聞かれていた。猫はドラ声で秋親を見下したように鳴くと、フイと反対方を向いて歩いて行った。
「お前仕事してないの」 ある日、パソコン画面に向かって秋親がビールを飲みながら尋ねた。実技試験補習組の再試験採点の徹夜後だったが、達成感に対しての興奮のためか、眠気が襲ってこなかったのでパソコンを起動させた。向こうは常に起動させているようで、すぐに秋親と紅子の世界は繋がった。紅子はネイルの手入れを入念にしており、爪に息を吹きかけてからチラリとこちらを見て「べ、に、こ」と呟いた。 「しているわよ。興信所受付。アルバイト扱いだから定時で帰れるのだけれど、生活は厳しいわね。だから、あまり私に仕事を休ませないで頂戴」 世界を交代する際は、仕事を休んでいた。 「家族は?」 秋親はあまり人に興味のなさそうな外見をしていたため、紅子は自分のことを聞かれて少々驚いた。 「両親と、兄が一人。兄は結婚して、お嫁さんと家にいるから私は実家を出たの」 「外見に反して、意外と気を遣うタイプなんだな」 「ふふ、人に迷惑をかけたくないのよ。いじらしいでしょう?」 秋親はおどけるように肩を竦めた。 「彼氏はどんなやつなの?」 少し間を置いて秋親が尋ねた。紅子はそれも意外に思う。そういうことには全く興味を示さないと思っていたからだ。 「どんなやつ……そうね、弱い人よ」 彼のことを思い出しているのか、紅子は柔らかい表情になって目を細めた。恋をする女性は綺麗になると良くいわれているが、それは本当のようだと秋親は思った。 「弱い男はやめておけ。苦労するだけだ。もっと強い男が現れるかもしれない」 「あら、心配してくれているの? ありがとう、でも優しい人なのよ」 ふうん、と秋親は興味なさそうに頷いた。 「彼の家、一家で代々私立校を経営しているの。つまりは御曹司。でも、以前私をご家族に紹介してくれたのだけれど、あまり反応が良くなくてね。現在、彼のご両親からお付き合いを反対されているのよ」 「ヘビーな話だな」 「やはりどこの馬の骨かわからない女との繋がりは許せないということでしょう。格式あるどこかのお嬢様とお見合いをして結婚するのが理想だと、ご両親に直に言われたから」 秋親の頬は僅かに赤く染まっていた。酔いが回り始めたのだろうか。秋親はしんみりした口調で宙を見ながら呟いた。 「結婚するのは本人同士なんだから、親が息子の結婚相手を決めるなどおかしな話だよな。強引にお見合い結婚をして、他に心に思う人がいながら、お互い夫婦生活を営むことこそ本人のためにはならないと、何故親は気付かないのだろうな」 ビールを飲んで酔っているため、多少饒舌になっているようだ。思わず本音が出てしまった感じに見受けられる。それならばとこちらも質問をしてみることにする。紅子はマイクに見立てて右手を突き出した。 「あなたのご家族は?」 秋親はビールを飲みながら「俺は芸能人か」と苦笑をすると、咳払いをして口を開いた。 「俺も大体同じ。両親と兄が二人。上の兄は結婚していて、お嫁さんと一緒に同居しているから、俺は家を出てここに住んでいる。下の兄も奥さんをもらって家を出た」 同じような境遇に、紅子は驚いて目を丸くしてから、おかしくなって大きく笑った。 「外見に反して、意外と気を遣うタイプなのね」 「いじらしいだろ」 肩を竦めながら言った秋親と視線が合うと、二人はクスクスと笑い合った。秋親が世界を交代してくれと言ってきたとき以外でも、最近は何もなくともこうやってお互いの回線を繋ぎ、時を越えて会話をすることが多くなった。 やはりお互い一人暮らしだったので、話し相手が出来たことは嬉しいことだった。 「彼とデートしたり、泊まったりすることはないのか?」 「泊まりにくることはないわね。ご両親に良い顔をされないから、お邪魔することもないわ。デートは仕事が終わってから夕飯を一緒に食べたり、休日に映画を観たり、ドライブに行ったり。まあ、普通のお付き合いよ」 わりと落ちついた付き合いのようだ。地に足を付けている良き理解者同士なのだろう。 「彼の家が厳しいから、あまり会えないというのが現状なのだけれど」 ポツリと呟いた言葉は寂しそうに響き、それを悟られないように慌てて紅子は話題を変えた。 「それよりあなたは彼女いないの?」 「いないよ。俺には向いていないようなんだ。こんな性格だから、付き合った子は必ず泣かせてしまうし、上手く気持ちを伝えることが出来ない。じっくりと考えて書ける手紙ならともかく、口下手なものでね。泣かせるくらいなら付き合わない方が女性のためだ」 酔ってネガティブになっているようだ。 「あなたは賢そうで馬鹿なのね」 「な……」 秋親はビールから口を離すと、驚いて紅子を見た。紅子は爪を弄り終わったのか、満足そうに両手を開いて、手の角度を変えて観賞を楽しんでいた。 「付き合っている上で泣かない女なんていないわ。女が大切な人の前で泣くときは、その人に精神を預けたいときに決まっているのよ。そのメッセージに気付かず、ただ戸惑って力不足だと嘆くようでは、女心の勉強不足ね」 「知ったような口を利くんだな」 「もちろん。私は女ですもの」 確かに女性の心は女性が一番詳しいだろう。秋親にとって女性心理とは未知なるもので、先日の相対性原理ではないが、どんな物理学の公式よりも難しいと思っている。何度か女性と付き合った経験はあるが、泣かれるのが苦手ですぐに自分から身を引いてしまっていたのだから、公式を勉強せずにさぼっていたようなものだ。 秋親は空になったビールの缶を振り、席を立った。一人用の冷蔵庫から二本の缶ビールを取り、再びパソコンの前に座る。 「飲む?」 「あら、ありがとう」 秋親はビールの缶を画面へと突っ込んだ。向こう側の紅子へと渡ると、紅子は缶を受け取って乾杯をするように秋親へと向けた。 「あなたに素敵な理解者が現れるよう祈って、乾杯」 「ありがとう。感謝を込めて、乾杯」 二人は画面に缶ビールを当てる。紅子は気持ち良く喉を鳴らして上を向きながら飲んだ。 「飲みっぷり、いいな」 「嫌いじゃないのよ。ただ自制しているだけでね。ところであなたは一体いくつなの? 私よりも年上に見えるけれど」 紅子は秋親を観察した。銀縁眼鏡を掛けているからか、普段の淡々とした話し方の影響か、随分大人っぽく見えた。三十代前半くらいだろうか。それを伝えると、驚いたように目を丸くされてしまった。 「そんなに老けて見える? これでも二十八歳なんだけれど」 まさか二十代だとは思わず、紅子は肩を竦めて「失礼しました」と呟いた。 「お前だって俺とそれほど変わらないだろう? 当ててみせようか。人の年齢というのは、首に出来る皺と肌の張りで大体わかる」 先ほど喉を秋親に豪快に見せてビールを飲んでいたのを思い出し、紅子は思わず手で首を押さえた。隠したつもりだったのだが、秋親に苦笑されてしまった。 秋親は眼鏡を掛け直しながら紅子を細目で見る。何だかくすぐったい気持ちがして、紅子は視線を反らした。 「あまり観察していないで、早く当ててよ」 「うーん……」 秋親は顎を擦りながら考えるように唸った。 「二十五歳」 「すごい。正解だわ」 ピタリと年齢を当てた秋親に、紅子は思わず拍手をしていた。 「ということは、統合した世界では私はあなたより七歳も年上なのね。私の世界であなたは、まだ十八歳……高校生かしら」 少し残念そうに紅子が言った。何故残念そうにするのか秋親はわからなかった。 「腹減ったな。何か材料でもあったかな。一人暮らしが長いから、こういうことばかり上手くなって困る」 秋親は煙草に火を点けて立ち上がりながら呟き、台所へ行くためにパソコン画面から消えた。
更科 紅子は興信所受付のアルバイトをしている。昨日は自制していた酒を少し飲んでしまい、頭が少し痛かった。その上秋親が即席で作ったパスタとイタリアンサラダを頂いて、自分の家事力に自信をなくした日だった。 朝は十時から出勤で、勤務時間を終えるのは五時、うち休憩時間が一時間だ。勤務終了後、最近しばらく会っていなかった彼から珍しく電話があり、食事に誘われた。二つ返事で誘いに乗らなかったのは、最近出来た秘密の友人と語る時間を惜しんだためで、決して彼の誘いが煩わしかったからではない。 紅子は化粧を直して待ち合わせ場所に向かった。そろそろ秋本番となる夕暮れ、日が落ちるのが早くなったと感じる。 「お待たせ、新涼」 しんりょう、という珍しい名前を持った彼は、彼の父親が八月に生まれた息子に夏の季語を付けたためで、彼の家系は代々生まれ月に因んだ名前を付けるそうだ。 待ち合わせ場所に立っていた新涼の顔は青ざめているように見えた。紅子を発見すると、力なく微笑んで軽く手を上げた。 「久しぶり、紅子」 柔らかい声と屈託のない笑顔は健在で、彼のふわふわした癖っ毛の黒髪が紅子のお気に入りだ。背は紅子より高かったが、男性にしては低い方だ。 「どうしたの、元気がないわ」 「少し落ち着いて話がしたい。フォルテシモを予約してあるから、行こうか」 小洒落たフランス料理店の名を出して、新涼は紅子の前に立って歩き出した。 一家で私立校を経営しているため、新涼は管理職を与えられている。生徒を直接教える立場にないようだが、事務や経理を担当しているそうだ。 二つ年下の新涼は、紅子よりも大人びて見える。落ち着いた雰囲気と柔らかい物腰、疲れた顔がそうさせるのだろう。 店内は新涼と紅子だけの貸し切り状態だった。まだ時間が早いということもあったが、店内で演奏されるピアニストの素敵な演奏も独り占め出来るのが嬉しい。 「いつものコース料理をお願いします」 「畏まりました」 ボーイが恭しく頭を下げ、新涼はメニューを彼に返した。新涼は鞄から薬を取り出し、お冷で飲み込む。ようやく落ち着いたところで新涼は話を切り出した。 「昨日、両親に紅子と結婚したい旨を伝えたんだ」 紅子は思わず背筋を伸ばした。反対されていることは知っていたが、突然この話題を振られるとは思わなかったからだ。 新涼は思わしくなさそうに眉を潜めて首を振った。 「やはり賛成はもらえなかったよ」 「そう……」 反対されている理由は何となくわかる。紅子が格式高い生まれではないからだ。父親は会社員、母親はパートという、ごくありふれた家庭の娘だからだろう。 「そこで考えたんだけれど、お金が貯まるまでこの生活を続け、貯まったら駆け落ちしないか」 紅子は目を丸くして詰め寄る新涼の目を覗き込んだ。代々続く家を捨てて恋人を選ぶなど、ドラマの中や小説の話くらいだと思っていたからだ。 「家を捨て、私を選ぶの?」 新涼は静かに頷いた。穏やかな表情と力強い目が相反して見えた。 「生活出来るくらいのお金が貯まったら、小さくても立派な家を建てて暮らそう。いつか子供が出来て、この経験を笑いながら語れるようになるくらい、二人で強く誇らしく生きていこう。人生を一緒に歩いていこう」 プロポーズされているのだ、と気付いたのは少し経ってからだった。紅子は気を落ち着かせるためにお冷を飲み込んだ。お客が他に見当たらなかったのは、新涼のことだから今日はフォルテシモを貸し切りにしているのかもしれないと考えた。 「これが精一杯だったけれど、僕の気持ちが詰まっています。受け取って下さい」 懐から不器用な手付きで出したのは、ダイヤモンドの小さな指輪だった。エンゲージリングだ。あまり高額でない代物なのは紅子にもわかったが、逆に今後に向けての覚悟の表れだと解釈した。 「ありがとう、嬉しいです」 真剣な表情で彼を見据えて紅子は指輪を受け取った。新涼は左手だけを器用に使って、紅子の左薬指に指輪をはめた。彼は幼い頃右手を切断する事故に遭ったらしく、右手首から下がなかった。それに伴い、元々右利きだったものを左利きに直したそうだ。今では左手で何でも出来ると穏やかに笑って自慢しているのを紅子はいつも聞かされる。 「家のことは気にしなくていい。継ぐにしても兄弟の誰かが引き継いでいけば良いことなんだ。一番落ちこぼれの僕が家を出たところで、ダメージはないよ。僕はそんなものよりも、紅子と一緒にいる時間の方が大切だと思っている」 紅子を安心させるように微笑むと、それ以上家の話を新涼が切り出すことはなかった。 食事中、紅子は今後の新涼の立場についてずっと考えていた。自分のために彼を窮地に立たせて良いものなのか。身を引けば、彼は将来安泰に金銭も地位も手に入れ、穏やかに暮らせるのではないか。自分のような格下の家の女に嫁がれたのでは、確かにご両親は嫌かもしれない。取り立てて抜きん出た特技などなかったし、器量も良くはない。それならば、格式あるお嬢様とお見合いをすれば、新涼にとって幸せなのではないか。 色々なことを考えて食事に集中出来なかった。もちろん料理の味は覚えていない。 新涼は商業科で簿記を教えている兄や、絵の勉強をしにイタリアに留学している弟のことを嬉しそうに話したり、小さい頃は画家になりたかったという夢、手を切断してしまったため夢を断念したこと、最近観た映画のことなどを穏やかに語った。話す内容も自分の生活とレベルが違うことをいつも思い知らされる。紅子はぼんやりと上の空で聞いていた。
「へえ、おめでとう」 帰ってからパソコンを起動し、矢継ぎ早にプロポーズの件を報告すると、秋親はテレビを見ながら気の抜けた拍手を贈った。 「ねえ、どう思う? あなたの意見を率直に聞かせて欲しいの。家を捨てて私と一緒になると言ったのよ」 紅子に配慮してか、十年後のテレビの電源を切った秋親は、煙草に火を灯し一服しながら煙をはいた。 「そうだな……」 「忌憚なき意見をお願い」 紅子の言葉に、秋親は決意したように頷いた。 「お前の彼氏は馬鹿だと思う。金持ちなのに、家を捨てて女と一緒になるなんて、今後家の援助をもらえないということじゃないか。俺に言わせれば愚の骨頂だな。もったいない」 「……あなたはそうでしょうね」 利己的な性格の秋親と、人の気持ちを配慮出来る新涼を比べたのが悪かった。 「でも、あの人はとても優しい人なの。私のせいで家を捨てるのならば、それを阻止するのも恋人である私の役割ではないかしら。二人でご両親に真っ向からお願いをして、結婚の許しを請うのが筋というものだわ。それに駆け落ちなんて、悪いことしていないのに逃げているようであまり気が進まないのよ」 変なジレンマを抱えているようだ。秋親は煙草を吹かしながら「うーん」と唸った。自分なりに良い答えを考えてくれているようで、紅子は少し嬉しくなった。 「それを彼……新涼さんには伝えてみたのか?」 「まさか。彼にそんなこと言えないわ」 弱味を見せたくないのだろうか、と秋親は煙草の煙をはき出しながら紅子を一瞥した。女心はわからないので、秋親にも良いアドバイスが出来るとは到底思えなかった。それを承知の上で秋親は口を開いた。 「個人の倫理観を重視するようであれば、俺は何も口を挟めることはないよ。将来苦労するとわかっている上で、新涼さんについていこうとしているお前を俺は馬鹿だと思っているし、彼にしても、家の莫大な金を捨てて女と二人で一からやっていこうという覚悟も、馬鹿げていると思うし」 「ひどい。あなたに新涼の何がわかるのよ」 紅子が反論したが秋親は気にも留めず、涼しい顔で言葉を紡いだ。 「お前よりはわかるさ。男同士だからな」 紅子はハッと息を呑んだ。秋親が紅子を射抜くような鋭い目で見据えていたからだ。秋親は冷静に再び口を開く。 「今までの意見は、俺だったらそうするということだから、真に受けるなよ。新涼さんの覚悟は、なかなか真似出来ないと思う。お前は幸せな人だと思うよ」 幸せな人と例えてみたが、紅子を見るといまいちわかっていないような顔をしていた。これがまだ十代同士の話ならば、自分たちの感情に任せて行動したことだと未来では笑い話にもなるだろうが、現時点ですでに地位を確立させている男性にとって、それらを全て捨てて交際を反対されている女性を選ぶことが、どれほど勇気のいることか、恐らく紅子はわかっていないのだ。家柄を捨てるということは、親族たちに一生、いや末代までそのことを語り継がれてしまうということなのに。 「合理的に割り切れないのが感情というものだからな。お前が彼の精神を尊重しているのは見ていてわかるし、彼もお前のことを第一に考えて、家を捨てるだけの強い気持ちを持っていることはわかる。俺は、お互いに気持ちを尊重し合える人に巡り会えたことがないし、そういう恋愛をしたことがないから見ていて羨ましいと思うよ。駆け落ちすることに迷いがないのなら、してみても良いんじゃないか?」 気付いていないと思うけれど、あなたも意外と優しいのよ、と秋親に言ってあげようと思ったが、浮いた台詞になってしまいそうで紅子は口を閉じた。 その代わり、今後の生活の不安について口に出すことにした。 「もし、もしも私が身を引いたらどう思う?」 「新涼さんはこの先一生苦労なく生きていけるとは思う」 何の躊躇いもなく紅子に言った秋親に、紅子は少し感謝していた。気を遣われても嬉しくはない。 「だが、決して幸せな人生ではないだろうとも思うよ」 紅子は思わず顔を上げて秋親を見た。画面上の秋親は、それを見て苦笑をしていた。 「何て顔をしているんだよ」 「だって、あなたから『幸せな人生』なんて言葉が出てくるなんて思わないもの」 「もう少し自信持てば。新涼さんは、『誰かと幸せに生きるより、お前と不幸な方がいい』と、笑うんじゃないか」 「どこかで聞いたような台詞ね」 普段の無表情ぶりと比べ、こうやって話しているとき、秋親はとても優しい表情をするところが、紅子は気に入っていた。だが、不正に宝くじを当選させている点は大嫌いだったが。 「駆け落ちするにしても、お金が貯まるのがいつになるか見通しが付かないわ。いつ一緒になれるのかしら」 それを聞いた秋親はニヤニヤ笑いながら彼女に煙草を向けた。 「俺が『稼いで』やろうか」 紅子は首を大きく横に振って即答した。 「不正は嫌。私はあなたと違って、人に誇れる生き方をしたいの。最期は『自慢の人生だった』と、看取る子供や孫に大声で叫び、胸を張って果てたいのよ」 「真っ直ぐだな。眩しいくらいだ」 からかっているのだろうかとムッとしながら顔を上げてみたが、秋親の表情はとても穏やかで、温かい視線を紅子に向けて目を細めていたので、恥ずかしくなって彼から視線を反らした。 「鏡合わせになった十年前の世界で俺の目の前にいる女は、俺とは正反対の考えをお持ちのようだ。俺がお前の立場なら、手っ取り早く一生困らない分の金を稼いで、二人で静かに暮らす。死んだ後のことなど、本人はわからないのだから、生きているときに楽しければそれでいい」 「あなたの意見は一生理解出来なさそう」 困惑したように眉を潜めた紅子を見て、秋親はフッと口元を緩めて笑った。 「極悪人の俺は、十年前の世界であぶく銭をコツコツ稼いで、颯爽と十年後にトンズラしますよ。明日、交代頼むな」 「もう……」 ヒラヒラと手を振って画面の外に消えていった秋親の後姿を睨み付けて、紅子はようやく落ち着いてパソコン用の椅子に腰掛けた。しばらくして秋親が再び画面の前に現れる。手に何かを持っている。花のようだ。花瓶に入れた沢山の花束を紅子に差し出す。藤の花をベースにした、秋の香りの花束だ。パソコンの向こうに溢れ出した花の色に、紅子は思わず目を見張る。 「プロポーズ記念に、俺からのお祝い。花瓶ごとやろう。おめでとう」 普段花など買って部屋に飾っているのだろうか、と紅子は意外に思ったが、秋親の気持ちが嬉しくて笑顔でそれを受け取った。花瓶を少し斜めにしないと画面に入らなかった。 「素敵、ありがとう」 紅子は花に近付いて香りを確かめた。 「……どうか、幸せに」 花束の向こうで消え入りそうなほど小さく呟いた秋親の声は、満面の笑顔の紅子には届かなかった。
それから何週かが過ぎて、そろそろ秋も終わろうという季節になった。その頃になると、秋親が過去に戻って『稼いだ』金額は三億に届いていた。 秋親は数枚の預金通帳を眺めて、きちんと三億円あることを確認し、満足そうに頷いた。 本日、学校は開校記念日のため休校となっている。紅子は在宅だろうか、と時計を見てから朝十時を過ぎた頃、パソコンを起動させる。 「おい、いるか」 紅子は普段から、パソコンの電源をつけているようだ。外出をするときも常についているのは、もしかしたら秋親と繋がりを持つようになってからだろうかとふと考えた。 「おい、紅子、さん」 画面の向こうからは、何の反応もない。部屋の空気が動いていないので、恐らく部屋にはいないのだろう。 「いないのか」 仕事かもしれない。秋親は小さくため息をつくと、彼女に手紙を書くことにした。 三億円も貯まったことだし、これ以上繋がっていたところでお互いのためにはならない。パソコンで手っ取り早く書いてしまおうとも考えたが、最後だと思うので手書きで伝えることにした。
親愛なる紅子様
今まで私のわがままに付き合わせ、世界を交代して頂いてありがとうございました。 私にとって十年前の世界は夢で溢れており、いっそ紅子さんの世界に住んでしまおうかと考えたことも少なくありませんでした。 十年前の自分を見つけて、助言したいことが山ほどありましたが、それは叶いませんでした。ドッペルゲンガーが怖かったからではありません。十年前、私は日本におらず、会いたくても会えなかったからです。
三億円貯まったので、世界の理に則り、私は自分の世界に戻ります。それに伴い、二度と私のように時空を悪用する者が現れないよう、回線を完全に遮断したいと思います。
紅子さんが帰ってきて、パソコンをつけたとしても、もう十年後の世界は閉ざされていると思います。本当は、最後にあなたの顔を見て、あなたの声を聞いてから別れたかったのですが、弱い私はそれだけで決心が鈍ってしまいそうだったので、敢えて紅子さんに会わないようにします。わがままばかり言って申し訳ありません。
それから、わがままついでにもう一つだけ、未来のことを紅子さんに伝えてしまうことをお許し下さい。 あなたの気持ちを汲み取って、詳しいことを伝えるのは極力避けます。 今から八年後の十二月二十四日、クリスマスイブの日は、必ず仕事を休んで下さい。そして外出せずに、すぐに出掛けられる準備をして、電話の前に待機していて下さい。 紅子さんのご健康とご多幸を未来からお祈りしております。 十年後の秋親より
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