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作品名:高野山 人間村 作者:毬藻

第70回   一期一会の風
一の橋から出ると、入口近くで、女がセールスをしていた。若い女性だった。
「駒コーラの保湿クリームは如何ですか?」
「いらないよ。」
「どなたにも合う、保湿クリームです。」
「いらないよ。」
「皺を放っておくと、皺が増えますよ。」
「うるさいなあ〜。」
「男性用もありますよ。」
女は微笑んだ。女の笑顔は可愛かったが、営業スマイルだった。
「医者が、人間は石鹸で洗うだけで、自然に保湿されるって言ってたよ。」
「それは若いときだけです。」
「そうなの?」
「年齢を重ねる毎に、皮膚は衰え保湿力が損なわれてくるのです。」
熊さんは、女性が可愛いので、ついつい聴いていた、そして喋っていた。服に名札がついていて、小野節子と記してあった。
「こんな時間に、何やってるの?十時過ぎてるよ。」
「知ってます。セールスをやってるんです。」
「どうして、昼間に売らないの?人が沢山いるでしょう?」
「昼間は人が多すぎて、売れないんです。」
「そうなの?」
「はい。男性用もあります。いかがですか?」
女は、男性用のクリームを、手さげ袋から取り出した。
「駒コーラが、化粧品作ってるの?」
「はい。」
「ふ〜〜ん、あんた、どこから来たの?」
「奈良から来ました。」
「奈良から?」
「各地の観光スポットを回っているんです。一週間で次の場所に移動しています。」
「大変だねえ。」
「高野山は、今日が最終日なんです。」
「保湿クリームねえ…、いくらなの?」
「千円です。」
「…千円ねえ。」
「これを売ると、今日のノリマは達成できるんです。お願いします。」
熊さんは、お金が余り無かった。女の言葉は、いつものセールスのセリフだと思った。
「やっぱり要らない!」
熊さんは、「がんばってね!」と言って、人間村に向かって歩き出した。背後から女の声が聞こえた。
「駒コーラの保湿クリームは如何ですか〜?」
気になって振り向くと、彼女は懸命にセールスしていた。熊さんは、二十五歳で交通事故で亡くなった娘のことを思い出した。熊さんは、小走りで、彼女に戻って行った。
「それ買うよ。女性用のクリーム、いくら?」
彼女は、ほんとうの笑顔を見せた。
「千円です。ありがとうございます!」
女の瞳は、涙で潤んでいた。熊さんは、「頑張るんだよ!」と言って、手を振り、人間村に向かって歩き出した。女は、熊さんに手を振っていた。一期一会(いちごいちえ)の風が吹いていた。


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