母と子は、高野山に向かう不動谷川沿いの道を歩いていた。 「母ちゃん、疲れたよ〜、休もうよ〜。」 五歳くらいの男の子だった。 「そうだねえ、休もうか。」 「お腹も空いたよう。」 母は、大きな石を指差した。 「ここに座りな、正男。」正男は「うん!」と言って座った。 母は、リュックからアルミホイルに包まれた、おにぎりを一つと水筒を取り出した。 「はいよ。」 「母ちゃんは食べないの?」 「わたしは後でいいよ。」 「じゃあ、僕も後でいい。」 「しょうがないねえ、じゃあ、わたしも食べるよ。」 母は、もう一つおにぎりを取り出した。二人は、顔を見合い微笑み合いながら、仲良く食べ始めた。 「母ちゃん、お腹が空いてると、おいしいねえ〜!」 「お腹が空いてると、何でもおいしいんだよ。」 「そうだね〜。」 「おにぎり、あといくつあるの?」 「あと二つだよ。」 母は涙ぐんでいた。 「早く、父ちゃんに逢いたいなあ〜。」 「高野山に行けば逢えるよ。」 「高野山は遠いね。」 「もうすぐだよ。」 上の方から、変な服装の一団がやってきた。 黄色い手持ち太鼓を叩きながら、『南無三光明邪悪殺滅(なむさんこうみょうじゃあくさつめつ)!』と唱えながら、高野山を下っていた。 農家の身なりをした老人が通りかかった。 「ほ〜〜、妙なお経だなあ?」 一番先頭の『南無三光明邪悪殺滅!』の幟旗(のぼりはた)を持っていた者が、老人の問いに親切に答えた。 「内なる邪悪なるものを、正しく明るい光で、呪い殺して滅する。という意味でございます。」 「内なる邪悪とは?」 「心を悩ます全てのものでございます。」 「心を悩ます全てのもの…、わしはな、夜眠れなくって困っておるんじゃ。」 「どうしてですか?」 「不愉快な奴が出てきてな、眠れなくなるときがあるんだよ。」 「それは、誰にでもあることです。」 「それを唱えると、少しは楽になって眠れるかなあ?」 「必ず眠れます!」 「自分の不愉快な心も殺せるかのう?」 「殺せます。」 「自分が死ぬってことはないのかね?」 「死ぬのは、邪悪なる心だけです。」 「それはいいなあ〜!じゃあやってみるか。」 「ありがとうございます!」 「こちらこそ、ありがとうだよ。」 老人は、幟旗(のぼりはた)を指差した。 「これを唱えればいいんじゃな。」 幟旗(のぼりはた)を持ってる男が、一枚の御札(おふだ)を差し出した。 「わが教団の御札(おふだ)でございます。」 「おお、御札(おふだ)か、有難い!」 「心を、お大事に!」 「ほ〜、いい言葉じゃのう。君たちは、何という宗教かね?」 「ドラゴンリバーシ教団でございます。」 「どらごんりばーし教団?」 「よろしくおねがいいたします。」 「どらごんりばーし教団、覚えておきますよ。」 老人は深く頭を下げてから、脇道に去っていった。彼らも、母と子の前を黙って去って行った。 「麦茶ちょうだい。」 母親は、水筒の蓋についでやった。 「はい。」 「麦茶おいしいねえ。」 「おいしいだろう。」 「父ちゃんの名前、何て言うんだっけ?」 「龍次、保土ヶ谷龍次だよ。」 「ほどがや、りゅうじ。早く逢いたいなあ〜」 「偉い人なんだよ。」 「早く逢いたいなあ〜。」 「もうすぐだよ。」 「食べたら眠たくなっちゃった。」 「駄目だよ、こんなところで寝たら、もう少しだから我慢するんだよ。」 「うん!」 一人の修験者が下からやってきて、母と子の前で立ち止まった。 「高野山に行くのかね?」 「はい。」 「この子も歩いて行くのかね?」 「はい。」 「そりゃあ、ちょっと無理じゃないのかな?」 「そんなに険しいんですか?」 「険しくはないが、子供には遠いよ、」 「そうなんですか。」 「わしがおぶっていってやろう。」 「えっ?」 「子供は軽いから、どおってことはないよ。」 「いいんですか?」 「これも修行、何かの縁でしょう。」 「ほんとうに甘えてもいいんですか?」 「いいんですよ。いい修行です。これも何かに導かれているのでしょう。」 「どうも、ありがとうございます!」 修験者は、正男の前に腰を落とした。 「ぼうや、おぶってやるから乗りなさい。」 「いいの?」 「ああ、いいよ」 「ありがとう、おじさん!」 正男は、修験者が腰にぶらさげているものを指差した。 「おじさん、これなあに?」 「これはな、法螺貝(ほらがい)というものじゃ。」 「ほらがいって、なあに?」 「大きな音がするラッパだ、聴きたいか?」 「うん、聞きたい!」 修験者は立ち上がった。そして、法螺貝(ほらがい)を吹いた。その音は、山々にこだました。カラスが驚いて逃げて行った。 正男はびっくりした。口を開け目を丸くしていた。 「わ〜〜〜、すごいなあ〜!」 「これを吹くとな、鬼が逃げていくんだぞ。」 「すごいな〜ぁ!」 修験者は、正男の頭を撫でた。 「さあ、行こう!」 「おじさんは、忍者?」 「忍者じゃないよ。修験者って言うんだ。」 「しゅげんじゃ?」 「…山の忍者かな。」 「やっぱり忍者なんだ〜!」 母親が、修験者に気遣って尋ねた。 「修験者様も、高野山にまいられるのですか?」 「わしは通り過ぎるだけじゃよ。」 「通り過ぎるだけ?」 「高野山の奥の山に行くんですよ。」 「この時間から、奥の山にですか?」 「滝に打たれにな。」 「滝に打たれにですか?」 「修行ですよ。」 母親は神妙な顔になった。 「ご苦労様でございます。」 「実は、冷たいばっかりじゃないんですよ。その後が天国なんです。」 「その後が天国?」 「その川には、天然の温泉がありましてな、そこに入って澄み渡った夜空の星をながねるのが最高の 気分なんですよ。」 「お一人でですか?」 「仲間もやってきます。あちこちから。」 「なんだか楽しそうですねえ。」 「とっても楽しいですよ。自然のなかで食べる川の魚は、焼くとおいしいし。」 「寝るところはあるんですか?」 「小屋があります。」 「熊などは出ないんですか?」 「熊などの動物は、火を恐れるので、焚き火をしていれば近寄ってきません。」 正男は、黙って山の忍者を不思議そうに見ていた。 母も子も軽装だった。普段着だった。 「ところで、高野山には、何しに行かれるのかな?」 「人間村に知り合いがいるもので。」 「人間村っていうと、保土ヶ谷龍次氏の?」 「はい!知っているんですか?」 「実際に逢った事はないが、有名だから知っていますよ。」
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