漫画家の涌井いづみは、美人なのに意外とボインだった。 龍次は、やたらとはしゃいでいた。 「いい天気になったなあ〜!」 「そうですねえ。」 愛美(めぐみ)は、龍次の隣にいた。 「禿げてきましたねえ〜。」 龍次は、眉を吊り上げた。 「なんだって!」 「天気のことよ。【げ】と【れ】の間違い。ごめんなさい!」 龍次は、怒っていた。 「変な言い方、しないでよ!」 龍次は、涌井いづみのボインを見て見ないふりをして歩いていた。 「いや〜〜、僕の設計したボイン住宅を見せてあげたいなあ〜。」 涌井いづみが、龍次の顔を見た。 「ボイン住宅?」 「あっ、失礼!球形住宅です。あっはっはっは、間違えちゃった!」 愛美が、龍次を睨んだ。 「そんなことばっかり思ってるから、口に出ちゃうのよ。」 「なんだってぇ!」 一平は、スミレちゃんを後ろに乗せて、自転車を押しながら黙って歩いていた。 龍次は、ニコニコしながら、ときどき横目で、涌井いづみのボインを見て歩いていた。 「いや〜〜、今日は実に、いろんな哲学的なことを学んだなあ〜。」 「そうですか。」 「僕も若い頃には、ニーチェかサルトルとかって、さんざん苦しんで悩みましたよ。今思うと、あの頃の青い頃が、やけに懐かしいなあぁ〜。」 「どのような?」 「えっ?…、どのようなって、哲学ですよ〜、我思う故に我あり。とかね!」 「それは、デカルトですよ。」 「そうそうそう!デカルトには、魂がびんびんとしびれたなあ〜!」 「魂が?びんびんと?」 愛美が、口を滑らした。 「へ〜〜、その顔で。デカルト!デカパイじゃないの?」 龍次は、愛美を睨んだ。 「なんっだって!?」 「エロ本見て、ボインで悩んでたんじゃないの?」 「なんだってぇ!?」 涌井いづみが、龍次の顔を見た。 「どのようなことで、悩んでたんですか?」 「人生とか、人間とか、世界平和とかですかねえ〜。」 「蟻ん子とか?」 「違いますよ!」 「そんな、小さなことじゃありませんよ。もっと大きな哲学的で根源的なことですよ。」 「だから、どのような?」 愛美が、口を滑らした。 「やっぱり、ボインで悩んでたんじゃないの?」 「なんだってぇ!?」 「彼女に、ふられた〜。とかさ。」 「なんだってぇ!?」 お地蔵さんが、道の脇に座っていた。 「あっ、お地蔵さんだ。僕は、とっても信心深いから、お参りして行こうっと!」 そう言うと、龍次は、お地蔵さんの前で膝をつき、手を合わせた。 「南無阿弥陀仏、それから、色即是空(しきそくぜくう)…」 愛美が、口に手をあてて笑った。 「色即是空(しきそくぜくう)だって、変なの!」 「なんだってぇ!僕は、仏教にも詳しいんだ!」 涌井いづみが、その答えに興味を示した。 「えっ、そうなんですか?」 「ええ、まあ。」 「どのような仏教に詳しいでしょうか?」 龍次の顔を見た。 「そうですねえ…、三蔵法師(さんぞうほうし)とか…」 「三蔵法師(さんぞうほうし)と言うと、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)のことですね。」 「ああ、そうそうそうそう!」 「どのようなことを?」 「どのようなって…、一言ではねえ〜、仏教は深遠だからねえ〜。」 「じゃあ、二言でもいいですよ。」 「そうですねえ…」 「じゃあ、なんという書物を?」 「若い頃だったからなあ…、仏教の本は、よく読みましたよ。苦悩の青春が救われたなあ〜。」 「日本に最初に伝わった仏教、玄奘三蔵に師事した遣唐使の道昭(どうしょう)の法相宗(ほっそうしゅう)に関する本ですか?」 「その類いだったかなあ…、それの、簡単なやつだったかなぁ。」 愛美が、口を挟んだ。 「それって、孫悟空の西遊記じゃないの?」 「…そうだったかな?」 「ま〜た、とぼけちゃって、この〜。」 龍次は、座り直して、お地蔵さんに手を合わせた。 「南無阿弥陀仏・色即是空…」 「まあた、色即是空(しきそくぜくう)だって、ばっかじゃないの!?」 「なんだってぇ!」 「意味、分かってんの?」 「色気、即ち、空なり!」 「ぶ〜〜〜!」 涌井いずみが、解説を始めた。 「色即是空(しきそくぜくう)の色とは、移り行く物事の現象のことです。空とは宇宙であり、空から生じたものが、色(しき)です。」 龍次は、びっくりした。 「え〜〜〜、ほんとおぅ!?」 お地蔵さんの前を、龍次たちが去った後、スミレちゃんが、自転車から飛び降りた。 「交通事故に遭わないように、お参りして行きましょう。」 そう言うと、スミレちゃんは、膝をつき目を閉じ手を合わせた。 「おん、かかか、びさんまえい、そわか。」 一平も、他の者も、その言葉を聞いていた。 涌井いづみは、険しい顔で振り向いた。目が鋭く光っていた。 「それは、地蔵菩薩の呪文!スミレちゃん、どうしてそれを知ってるの?あなたいったい何者!?」 スミレちゃんは、不気味に微笑んでいた。上空をカラスが、カカカと泣きながら飛び去って行った。
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