ダンボールは、若者の前で立ち止まった。 侍の亡霊は、槍を左手に持ちかえた。 「ただの人間じゃ。」その言葉は、ダンボールの中の人間には聞こえなかった。 「ああ、びっくりした。」 ダンボールの覗き窓から、目玉が動いていた。中から、こもった声が出てきた。 「妖怪温泉に行くのかい?」 若者は用心深く答えた。 「ええ。」 「あそこは、本物の妖怪が出るぞ。」 「えっ、ほんとですか?」 「怖くて帰ってきた。行かないほうがいいぞ。」 雨がポツポツと降ってきた。 「雨だ。」 若者は、トイレに逃げ込んだ。ダンボールも逃げ込んだ。 侍の亡霊は、そのまま動かなかった。松の景色に佇み雨雲を見ていた。 少し離れたところの松の木の下にテントが張ってあった。 「あんなところに、テントが。」 「あれは、俺ん家。」 「テントで暮らしてるんですか?」 「ああ。」 「寒くないですか?」 「慣れちゃったよ。」 おじさんは、空を見上げた。 「人生は、あっと言う間に終わってしまう。安心して死ねる場所があれば、それでいいんだよ。」 「どうして、ダンボールに入っているんですか?」 「この中に入って覗いていると、不思議な詩が浮かんでくるんだよ。」 「詩を書いてるんですか。」 「まあな。」
雨は、駄々をこねる子供のように強くなってきた。 雨粒が歩道のアスファルトに、次々と特攻隊のように体当たりをして、砕け散っていた。 流されまいと必死で小石にしがみついていた蟻が、特攻隊の直撃を受け、吹っ飛んだ。
きっと雨は蟻を殺すために降るんだ いや違う それは一方的見解だ
「なんだか降ってきましたねえ。」 「傘ないの?」 「ええ。」 「なんだったら、ダンボールあげようか。新しいのあるよ。」 「ダンボール?」 「なかなかいいよ、これ。あったかいし。」 「そうですねえ。」 「ちょっと待ってな。」 ダンボールのおじさんは、ダンボールから出ると、テントまで走って行き、組み立て前のダンボールを持って戻ってきた。 猫がテントの中から出てきて、ニャ〜と鳴いた。雨に戸惑って、またテントの中に入った。 「はいよ。」 「いいんですか、これ。」 「ああ、いいよ。」 雨は癇癪(かんしゃく)を起こした子供のように、ひどくなってきた。 「俺が組み立ててやるよ。」 おじさんは、慣れた手つきで組み立てると、ナイフを出した。 若者は、びっくりして二歩後退(あとずさ)った。 「目は、このあたりかな。」 「そうですね。」 おじさんは、覗き窓のための四角い穴をナイフで切り取った。 「はい、できあがり。かぶってみな。」 若者はかぶった。 「どう。」 「いいです。ちゃんと見えてます。」 雨は止みそうになかった。 「紙厚五ミリの防水タイプだから、だいじょうぶだよ。」 「どうもありがとうございます。これ、五百円で買います。」 「いいよ。そんなの。」 「いや、いいんです。取ってください。」 「こんなので、五百円もいただいちゃあなあ。」 「いいんですよ。」 「じゃあ、遠慮せずにもらっとくね。」 「妖怪温泉まで、どのくらいの距離ですか?」 「そうだなあ、七百メートルくらいかなあ。」 若者は、妖怪温泉に向かって歩き出した。そして、隣で歩いている侍の亡霊に話しかけた。 「雨、だいじょうぶですか。」 「亡霊は濡れないから、だいじょうぶじゃ。」 ダンボールを叩きつける雨の音以外は聞こえてはいなかったが、亡霊の声はちゃんと聞こえていた。 「おかしいなあ。どうして聞こえるんだろう?」 「魂と魂で話しているからじゃ。」 若者が後ろを振り向くと、ダンボールのおじさんは手を振っていた。おじさんには、亡霊は見えてなかった。おじさんの後ろで、特攻隊の亡霊が敬礼をしていた。 「てっきり、ラッパかと思ったよ。」 「ラッパって、なんですか?ラッパーなら知ってますけど。」 「ラッパー…、なんだそりゃあ?」
|
|