きょん姉さんは、ニコニコしながら老人の前に歩いて行った。 「ちょっとだけなら、いいですよ。」 姉さんは、嬉しさが込み上げてくるのを、必死で堪(こら)えていた。 老人は、深く頭を下げた。 「どうもありがとうございます。お礼などできませんが、いいですか?」 「いいです、いいです。」 「じゃあ、早速始めますか。そこへ座ってください。」 老人は、テーブルの長椅子を指差した。 姉さんは、 「ここですね。」と言ってから座った。 老人は、スケッチブックと色鉛筆を取ると、素早く描き始めた。 姉さんは、かしこまった顔で黙っていた。 「あっ、もうちょっとリラックスしてください。」 「はい。」 スケッチは、五分ほどで終わった。 「はい、終わりました。」 姉さんは、びっくりした。」 「もう終わったんですか?」 「ええ。」 「もうちょっと丁寧に描いたほうがいいんじゃないですか?」 「大丈夫です。」 老人は、スケッチブックを姉さんに渡した。 「どうですか?」 「わ〜〜、すてき〜、わたしじゃないみたい!」 「あなたのイメージです。」 「わたしって、こんなに清楚かしら?」 「そういうふうに見えますよ。」 「わ〜〜、嬉しいわぁ!」 「気に入ってもらえましたかな?」 「はい!」 「それ、差し上げますよ。」 「えっ、いいんですか?」 「はい、喜んでもらえる人がいれば、それでいいんです。」 「え〜〜、ほんとうにいいんですか?」 「はい。受け取ってください。」 「あのぅ、お名前は?」 「あっ、そうだ。サインしておきましょう。」 老人は、慣れた手つきで絵の下のほうに素早くサインした。姉さんには読めなかった。 「…何て書いてあるんですか?」 「萩原健一と書いてあります。」 「萩原健一!わ〜〜、ショーケンと同じ名前だぁ!」 「そうなんですよ。よく言われます。」 「ラッキ〜〜ぃ!」 「ショーケンが好きなんですか?」 「はい。ショーケンのファンなんです。」 「若いのに?」 「音楽には、歳は関係ありません。」 「音楽?彼は音楽家だっけ?俳優じゃないの?」 「俳優アンド歌手です。なによりも世界一のロック歌手です。日本のロック界のカリスマです。テンプターズのボーカルです。」 「テンプターズ?」 「ご存知ないんですか?」 「はい。」 「それは残念です。」 「そうだったんだあ、帰ったらインターネットで調べてみよう。」 「聞いたことあると思いますよ。」 「そうかも知れませんね。」 「エメラルドの伝説とか、有名ですから。」 「あぁ〜、エメラルドの伝説!知ってる知ってる!」 「わ〜〜、良かった。」 「み〜ずうみに〜〜ぃぃ♪ってやつでしょう?」 「そうです。そんな演歌調の曲じゃありませんけど。」 「あはははは、わたしの歌は、みんな演歌調なの。あはははは。」 「萩原さんは、ファンとか、そういうのはないんですか?」 「わたしはミーハーじゃないから、そういうのは。」 「そうなんですか。」 「若いころにはありましたよ。吉永小百合さんとか、女優とかに。」 「よしながさゆり…」 「あなたみたいに清楚で頭のいい人です。」 「え〜〜、わたし頭いいかしら?」 「頭のいい悪いは、ちょっと話せば分かります。」 「わたし、こう見えても、オテンバなんですよ。」 「そのように見えます。」 「ぃっやだぁ〜〜!」 「元気で、いいじゃないですか。近頃は、元気のない病人みたいな人が多いから。」 姉さんは、話題を変えた。 「先ほどは、何を眺めていらしたんですか?」 「山々です…」 「山々…」 「あの世が近くなってくると、この世の景色の何もかもが、悲しいほどに美しく見えてくるんですよ。」 「そうなんですか。」 「小さいころ、あの山の向こうには、いったい何があるんだろう。って思ったことはありませんか?」 「…あります、あります!」 「まだ、頭のなかに地図などが無くって、山の向こうは遠い遠い世界なんですよ。」 「そうですね。」 「あの頃は、幸せだったなあ…」 「人生って、知らないほうが幸せなのかも知れませんね。」 セピアな夕景のなかで、老人は静かに佇んでいた。姉さんの足元で、鮮やかで赤い彼岸花が、初秋の風と二人の話に相槌をうつように、ゆらゆらと揺れていた。
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