男の目には、もう涙は無かった。 「俺、弘法大師なんて知らないけど、ここに来て良かったよ。」 老人が尋ねた。 「お主、帰るところはあるのか?」 「…あるにはあるけど、迷惑かけるし。」 「迷惑?」 「リストラされて、実家に戻っているんだけど、毎日なんだか違うところに居るみたいで…」 「そんなことは、親子だから気にするはないじゃないか。」 「まあ、そうかも知れないけど、いい歳してこのままじゃあね…」 「焦るな、焦るな。君のせいじゃないよ。」 「帰っても、焼酎飲んで、テレビを見ながら寝るだけなんですよ。」 「就職活動はしてるんだろう?」 「まあね。この歳だと、ほとんど駄目だけど。」 「仕方ないよ。そういう時代なんだよ。」 「そうなのかなあ…」 「景気のいい時代もあれば、景気の悪い時代もある。その内に、また良くなるよ。」 「そうですかね…」 「どこから来たの?」 「神戸です。」 「神戸かぁ、遠いなあ。」 「橋本の友人のところに来たんですけど、旅行でいなくって。なんだか高野山には、ニート革命軍で有名な保土ヶ谷龍次を思い出して、彼らの人間村ってところを見てみたくなって。」 「ああ、そういうことだったのか。」 きょん姉さんが口を挟んだ。 「人間村だったら、すぐそこよ。」 姉さんは指を刺した。 「人間村って書いてある大きな看板があるわ。高台に、我々は大地に引きこもる。という旗が見えます。」 「知ってます。さっき見てきました。」 「中には入らなかったんですか?」 「はい。」 「少し、入りにくかったかな?」 「はい。場違いのような気がして。」 「つまり、自分の思想とは違う。」 「はい、その通りです。」 老人は、すぐ近くの木製のベンチに座っていた。 「保土ヶ谷君はね、他人の気持ちが分かる、とってもいい人だよ。」 姉さんは質問した。 「知ってらっしゃるんですか?」 「彼は、僕の大学の後輩なんです。」 「そうなんですか。」 「彼に教えてたんですよ。」 「その大学でですか?」 「ええ。ああ見えても、彼は相撲部だったんですよ。あまり強くはありませんでしたけどね。」 「え〜〜〜、ほんとうですか?」 「彼のこと、知ってるんですか?」 「いえ、別に。」 「今は、だいぶスマートになってますけど、あの頃は百キロ近くありましたよ。」 「え〜〜〜、ほんとうですか?」 「彼のこと、知ってるんですか?」 「いえ、別に。」 「夏に、熊の五郎と相撲を取って怪我をしたと言ってたなあ。」 「え〜〜〜、ほんとうですか?」 姉さんは、初耳のことだらけで、内心驚いていた。男はチューハイを飲みながら黙って聞いていた。 老人は話題を変えた。 「ところで、お二人さん。」 姉さんと男は、顔を向けて老人を見た。 「相撲取りは、座るとにき何と言うか知ってるかね?」 間をおいて男が答えた。 「よいしょじゃないですか?」 姉さんが答えた。 「どっこいしょ。じゃあないんですか?」 「二人とも、はずれ〜〜ぇ。答えはね、」 老人は立ち上がり、右足を上げ、しこを踏むと、再度ベンチに腰を下ろした。 「どすこいしょ!って座るんだよ。」 男が手を叩いて喜んだ。 「面白い!」 姉さんも笑った。 「面白いわ〜〜、それ。今度、福之助に言ってみよう。」 老人が首を傾げた。 「福之助って?」 「うちのロボットです。」 「あ〜〜〜、あのロボットね。お人好しの。」 「お人好しの。じゃなくって、ロボットですから…」 「あっ、そうか。じゃあ何て言うのかなあ?おロボット好しじゃないしねえ?」 「さ〜〜〜ぁ?」 三人は、それぞれにそれぞれの表情で、それぞれに負けじと大笑いをした。 人間村の高台では、<我々は大地に引きこもる>の旗が、風にも負けじとはためいていた。
|
|