そして、試合への万全な準備が整い調印式を迎えた。 「グローブは当日までOPBFで保管されます。それではこれより報道関係者との質疑おうどうに入らせていただきます。質疑応答に入らせていただきます。はじめに代表質問。大東京テレビ様からお願いします」 調印式、グローブのチェック、封印が終わり記者会見に移行した。 「では大東京テレビのほうからまずはじめに代表で質問させていただきます。まず、チャンピオンのシーパー選手にお話をお伺いしたいんですけど、五度目の防衛戦が明日にせまってきましたが今の心境をおねがいします」 報道陣はOPBFの調印式ということで少数であった。 「富士野選手に左右のフックの連打をヒットさせて一ラウンドで試合を終わりにし世界挑戦のことを考えたい」 シーパーのコメントは日本人通訳によって抑えられた表現で報道陣に伝えられた。 このあともシーパーは彼は卑下するコメントを連発した。 これを受けた彼は挑発にのらず。主に「頑張ります」としかコメントしなかった。
そして当日。彼の初ファイナル。初タイトルマッチが若干の空席がある後楽園ホールではじまろうとしていた。 「カン、カン、カン。ただいまよりOPBF東洋太平洋フェザー級タイトルマッチを行います。まずは両選手リングに入場です。はじめに青コーナーより挑戦者、富士野雄心選手入場です」 ♪〜ヘイ、ボーイどうせならなんかのチャンピオンを目指せよ。ヘイ、ボーイ何でもいいからなんかのチャンピオンを目指せよ。(中略)ヘイ、ボーオイ一瞬の人生を。ヘイ、ボーオイ張り切って行こうぜ 彼はタイルマッチの挑戦者にピッタリな曲で入場した。 そして。 「カン、カン」 はじまりのゴングが高く鳴り響いた。 「さあ。はじまりました。いきなりチャンピオンの右そして左」 「あのフックはガードの上からでも気をつけないとだめだよね。ガードの上からでも効くし怯んだところ狙ってるよ」 この日もあのコンビだった。 「富士野もすぐさま左で応戦」 このような感じで一ランド終盤を迎えた。 「おー。チャンピオン。リングの中央でラッシュ。富士野防戦いっぽうだ。手を出せ富士野」 (回想) 試合前の控え室。 「ゆう」 「はい」 「相手バカだから最初からくるぞ。ガード固めて受けてやれ。でも下がるな」 「はい」 「それで、ラッシュの打ち終わり体流れるから。流れたら一気に行け。今日は焼肉だからあんなやつ早いラウンドでがいにしていい肉死ぬほど食べような」 (回想おわり) 「富士野。さっきからうけてばっかりだよね」 「あっ。右ぃー。富士野打ち終わりを右ストレート。富士野ラッシュ。反撃のラッシュ。右から左ぃ。富士野はシーパーのお株を奪う重そうなフックでシーパーの顎を破壊しようとしてます。そしてここでレフェリーが間に入り試合が止まった。勝ったぞ。富士野」 いつもは淡々とした口調で実況する清志は感情を表に出した。 「ゴングに救われたんじゃない?」 「内藤さん。何言ってんですか。もう試合終わりましたよ」 鮮やかな逆転劇に歓声はやまなかった。 「では。スローです」 「打ち終わり狙ってたのか。すごいな」 「そうですね。このVTRを見ると先ほど内藤さんはシーパーのパンチが効いていたとおっしゃっていましたが私の目には富士野が相撲の稽古で更に発達させた首から肩にかけての僧帽筋で首がプロテクトされてたのでまったく効いていないようにうつりましたが」 「ごめんね。確かに効いていなかったね。テレビだからちょっと脚色しちゃったんだよね」 そんな二人をよそにして。 「それでは、OPBFフェザー級新チャンプ。ベルトを巻いたばかりの富士野雄心選手です。おめでとうございます。今どのようなお気持ちですか?」 「気持ち? あんまりうれしくないです。巻きたいのはこのベルトじゃないから」 ポーカーフェイスでのビックマウスに会場がどよめいた。しかしこれはビックマウスではない彼の本心だ。半年前自分の情けなさを苦に自殺未遂を起こした青年はフェザー級の頂点だけしか興味はなかった。 「世界だけしか興味のない富士野選手でした。ありがとうございました」 インタビューが終わり、多くの拍手が送られた花道を通り彼は控え室に引き揚げていった。 「日比野さん。少し横になっていいですか」 控え室に入った彼は肉体的の疲労は無かったが張り詰めていた精神が一気に緩んだせいで力が抜け横たわりたい気分だった。 「あいつ試合前に俺の豪腕でお前を倒すっていってたけど。パンチは足でうつものなのに。ほんとばかですね」 「お前一丁前な口聞きやがって。最近やっとできるようになったくせに。あれ。パンチもらったんだな」 腰おろし。すり足。四股と地面をつかむ動作の反復は彼の重いパンチを生み出した。 「これですか。あいつ頭ぶつけたんですよ」 「でもこれぐらいなら佳代ちゃんになめってもらえば治るよ」 「まだ、キスもさせてませんよ。あいつすぐ調子に乗るから」 あがり座敷によこたわる彼のまぶたの上が少し切れていた。
チャンピオンになってから一週間。彼は雑誌の取材を受けていた。 通常、OPBFのチャンピオンになったからといって雑誌取材のオファーはボクシング雑誌ぐらいだが、相撲の稽古を積み重ねたことで格段に強くになった彼はマスコミ関係者の目には魅力的にうつり、週刊誌、テレビのスポーツ番組、そして、相撲雑誌までが食いついた。 そして、その日の夜。 「ピンポーン」 彼がインターホンを鳴らした。 「はーい」 その声は玄関に駆けつけ玄関のドアを開けた。 「よう」 「チャンピオンどうしたの?」 「お前が来ないから来たんだよ。お前。俺が厳しい減量やってる時に男つくったんだろ?」 「おととい行ったよ。雄心がいなかったから帰ってきた。雄心こそテレビにでて有名になったから他の女の人のところに行ってたんじゃないの?」 「おとといは清志さんに拉致されたんだよ」 「ほんと?」 「ほんとだよ」 彼女は彼に抱きついた。 「やめろよ」 「やだ。セックスしてくれないと今日は帰さない」 「わがまま言うな。わかれるぞ」 「いいよ別に。男なんていくらでもいるし」 「なんでそんなこというんだよ」 「冗談だよ。なに。涙目になってんの。ばか。ゆうは私と日比野さんがいないとだめ男なんだから。だからわかれるなんていわないでよね。ほら、ベット行くぞ」 亭主関白きどりの彼だったがしっかりと彼女の掌で転がっていた。 「はい」 彼女に引っ張られ寝室に向かった。 そして。 「へたくそ。腰が全然動いていないよ。一〇人とやったていうのはうそでしょ」 「ごめん。お店の人としかしたことがない」 「もう。最低。わかれようかな?」 「それだけは」 「だったら腰うごかして。ほら」 彼は素人童貞であることを自分でばらした。ちなみに彼がたまに行く新宿の店では穴に入れれるのは指だけだ。 「もう。ぜんぜん気持ちよくなかった。口で出すのなんてはじめてだよ」 「ごめん。練習します」 彼は夜の監督に怒られた。 それから二週間後、初防衛戦が二ヵ月後の五月に決まった。 次の相手はOPBF同級三位のルジャパー・マニス・パルエバである。パルエバは執拗なクリンチなどで相手を撹乱し浮き足立ったところを仕留めるというトリッキーなボクシングをする選手である。 曲者対策などをする素振りを見せない富士野陣営の参謀は今朝も彼に罵声を浴びせていた。 「おい。なんだそれ。腰入ってないてし。脇があいてる。そんなのてっぽうじゃない」 「すいません」 彼は先日からはじめたてっぽう柱のトレーニングに苦戦していた。 「おい。見てろよ。そして聞けよ。お前のパチャーン、パチャーンていう音じゃないから」 日比野がてっぽう柱の前に立った。 「ドスーン。ドスーン」 重低音が道場に鳴り響いた。 「どうだ?」 「すごいです」 「そうだろ。こんな音出したいと思うならやれ」 「はい」 彼はその音に憧れてっぽうを始めたが彼のてっぽうから発生する音は気の抜けた音だった。 「おい。お前なに見てたの? 腰全然ぶつけてないじゃん。それと脇あきっぱなしだからこれ入れろ」 日比野は竹ぼうきの束になっている枝部分から一本折り、更にそれを半分に折ったものを彼の両脇に挟めた。 「これなんすか?」 「やれ」 その状態でてっぽうをした彼だったが、脇に挟んだ枝をすぐに落とした。 「なにやってんだよ。落とすな」 「こんなのできませんよ」 「お前。次ぎ落としたら。セックス下手な事いいふらすぞ」 日比野は彼の耳元でささやいた。 「そう。そうだよ。やればできるじゃない。腰もちゃんとぶつけて。もっとぶつけて。もっと。足は浮かさない。親指に力いれて」 日比野は彼が追い込まれれば追い込まれるほど力を出すタイプだと熟知していた。
そして。てっぽうの音がやっといい音になったのは試合当日だった。 「うん。いいよ。脇もしまってるし腰も足の親指にも力はいってる。あとはもっと下から上に突き上げろ」 「日比野さん。俺ら浮いてません? いくらてっぽうがあってもてっぽうやるボクサーなんていませんよ」 この試合の会場は福岡国際センターだった。 「大丈夫だよ充分浮いてるから。それしてもここいいよな。小さな国技館って感じがするから」 「はじめてだけど。控え室広いから後楽園より好きです」 「富士野行くぞ」 彼の初防衛戦はファイナルが地元ボクサーの世界挑戦ということでセミファイナルになってしまったがこの会場に来てる観客の彼の認知度はテレビ、雑誌に出たおかげでそのボクサーと同等ぐらいであった。
「カン、カン」 今回はテレビ中継はファイナルだけ大九州テレビで九州地方だけに放送されることになっていた。なので彼の試合は放送されない。この事を一番悔やんでいる男がマスメディア席に座っていた。 「清志さん。残念ですね。せっかく頼み込んで実況やれることになったのに富士野の試合を実況できないだなんて」 清志は本来ならここに来る事ができないが自らこの系列局の社長のもとに出向き頭を下げ、ノーギャラという条件で実況の権利を勝ち取った。しかし、放送時間の都合上、彼の試合の中継かできなかった。それを知ったのは現地に乗り込んでからだったので清志は悲しみで胸が一杯になった。 「試合はじまったんだから話しかけんなよ。つうかお前。ノーギャラで交通費も自腹なんだからついてこなくてよかったのに」 「俺らコンビじゃないすか」 「俺はお前をまだ許してないからな。雄心のチャンピオンになったときのインタビューで盛り上がりの欠けるインタビューをしたことをな」 「あれは富士野があんなふうに言うからですよ」 「そこから盛り上げるのがプロなんだぞ。高い給料もらってんだから情熱燃やしてやれよな」 「バキッ」 「カン。カン。カン」 三回のゴングはかなり間隔があいて鳴った。 「終わった?」 「そうみいたですね。お前見てた」 「見てないですよ」 「すいません。富士野どうやって勝ったんですか?」 その音で清志がリングに目を向けるとパルエバがリング中央に横たわり、レフェリーは手を交差し、彼は右拳を青コーナーに突き出していた。なので清志は右隣に座っていた記者に試合内容を尋ねた。 「パルエバがいきなりクリンチしてきて、富士野はその状態から左のリバー打ち三連発でパルエバ沈めたよ。すごい腰の回転だった。あれはすごいよ」 「ボディー三発で!」 「はい。きっとあれはあばら折れましょ。二発目鈍い音したからあばらいっただろね」 「それにしても二発であばら折るなんて世界でもいませんよそんなやつ。いつでも狙えますね」 「でも、クリスティアーノも並のチャンピオンじゃないから。どうなるんだろね。かんがえるだけでトリハダものだよね」 彼の衝撃的なKOシーンを見逃した清志はこの後もその記者とボクシング談議に華を咲かせた。
そして。福岡から帰ってきた翌日の朝。 「ゆう。下がってから投げたり叩いても食うわけないだろ。下から上にぶつかって押す。あとは煮るなり焼くなりしろ」 彼は申しあいをしていた。相手は狩野だった。彼のパートナーだった坂本との稽古は彼が大分ぶがよくなって来たので日比野はこの日相手を狩野に変更した。 狩野は坂本ほどのぶちかましの強さはないが彼の体重の無さをつき彼をよく見て押していくので彼は相撲にならなかった。このように狩野は力任せに相撲をとるのではなく相手の嫌がる相撲をとり、勝ち星をあげる相撲取りだ。 その後もその理想の相撲に近づけない彼に日比野が助け船をだした。 「ゆう。ちょっとこい」 「はい」 彼は座敷にこしかける日比野のもとに向かった。 「お前。ほんとに頭使わないよな。ああいうどっしりした相手は何が嫌がる?」 「わかりません」 「自信持って言うな。じゃあ狩野が足一本でお前と相撲とったらどうなる?」 「それは勝ちますよ」 「なんで?」 「足一本で相撲なんて取ったらバランスとれないじゃないですか」 「狩野がバランス取れなくなったらお前勝てるんだな?」 「それは勝てますよ」 「じゃあその状況を自分で作れ」 「作れって。じゃあ土俵をスケートリンクみたいにツルツルにしていいんですか?」 「まあたしかにそうすればバランス取れなくなるからいい案だけど。そんなことできないよな?」 「じゃあ、どうすれば?」 「お前がスケートリンクになればいいんだよ」 「なれませんよ」 「なれるんだなそれが。狩野ちょっと土俵借りるぞ」 日比野と彼が土俵に向かうと狩野は俵内から出た。 「よし。こい」 仕切り線の前に立つ日比野に彼がぶつかっていった。 「どうした?」 ぶつかっていった彼が日比野にぶつかった途端、前につんのめって倒れた。 「ほらもう一回」 このあと彼は一〇回ほど同じ状態で倒れた。それはまさにスケート初心者がスケートリンクで転ぶ様だった。決まって彼が倒れた際に日比野は彼の左側にいた。 「どうだ。スケートリンクだろ」 「そうですけど。どうやってやったんですか」 「自分の体に聞いてみろ。狩野頼むわ」 日比野は座敷の方に戻り代わり狩野が俵内に入ってきた。 彼は狩野と向かい合い仕切りの動作をしながら自分の体と会話した。 「なあ。今どうやって倒れた?」 「知らん。お前が勝手に倒れたんだろ」 「日比野さん。浅い上手まわし持ってたよな」 「持ってたかもな」 「上手投げか?」 「それにしては日比野の親分は上手に力を入れてないぞ。まわし持って少し前に出て左に体を開いただけだぞ」 「俺が勝手に倒れたってこと?」 「そうだな」 「じゃあ。俺の前出る力を操って倒したって事」 「そういことになるな」 「ありがとう。なんとんくわかった」 「どうでもいいけど。親分怒ってるぞ」 彼には重度の妄想壁がある。 「ゆう。早く手をつかんか」 「すいません」 そして、急いで手をついて立った。 「おう。いいじゃねえか」 狩野は前につんのめっていた。 その次の取り組みも狩野を同じ状態にした。 「おう。まぐれじゃない。お前少し相撲わかってきたな。そういうことなんだよ」 狩野より背の低い彼は立会い当たって懐にはいり、左手で浅い左前回しを引き前に出て、それを止めようと狩野の体に力が入った瞬間、左に体を開いた。それでつっかえをなくした狩野は前に倒れるしかない。 相撲はがっぷりよつでの攻防、つっぱりや張り手の応酬というイメージに思われがちだが強い力士ほど相手のバランスを崩すのが上手く、相手のバランスの崩れを体で察知する能力がずば抜けている。それは素人目では決してわからない。 敗戦後の日本にGHQで滞在したあるアメリカ人が本場所を見た際にこんな事を言った。 「相撲はバランスの妙技だ」 まさにこの言葉に尽きる。
その三日後、彼は本業のボクシングにその出し投げを応用していた。 「今日のスパーよかったよ。とくにあのカウンターが」 トレーナーが彼のこの日のスパーを絶賛した。 この日のスパーで彼は相手の間合いにわざと入り。相手がパンチを出してきた瞬間スウェーしながバックステップを入れて左ジャブを放つ動きを何度も見せた。 並みのボクサーがこれをやるとバックステップをいれることで重心が後ろにいってしまい相手にはダメージがないパンチになっしまう。しかし、彼は四股で養ったバランス移動感覚で重心を前に少し残してパンチを打つことができるので相手の前に出る力と彼の重いパンチが合わさって相手に大きなダメージを与えることができる。 「ありがとうございます」 「明日のチャンピオンとのスパーにもつかってみたら」 「そうですね。いくら使っても見破れるわけがないから明日これでチャンプをボコボコにします」 翌日はWBAスーパーフェザー級チャンピオンとのスパーリングだった。 翌日の夕方。 「ピー」 桜城とのスパーが始まった。 「まず左から当てていこう」 彼はトレーナーの指示に従わず、いきなりあれを狙い桜城の間合いに入った。そして、桜城の左が飛んできた。 「富士野はなれろ」 彼のパンチが桜城のアゴに食い込み桜城が前に膝から崩れ落ちた。 それは一瞬の出来事であった。 このあと、彼はこればっかり出すと桜城の体がもたないと思い。残りの五ラウンドのスパーリングで毎回一回ずつ出し。五回とも桜城をダウンさせた。 「ありがとうございました」 「お前。強くなったな」 「まだまだです」 「がんばれよ」 「はい」 彼はリングからおりた。 「堂田はずして」 「うん」 彼はリングのそばにいた堂田にグローブを外してもらうのを頼んだ。 「どうだった?」 「あれいいよ。すごい。切れ味抜群だな」 防衛戦で負けた堂田であるが彼は堂田に敬語を使わせなかった。 「ところでお前。さっきなんでビデオ撮ってたの?」 「いやあ。富士野の動きを研究してもう一回チャンプに返り咲こうと思っただけだよ」 「そうか。がんばれよ。お前は唯一の同期だから一緒に世界取れたらいいな」 「うん」 彼はこのスパーで世界はいつでも取れると実感した。
それから一週間。 彼は午前の仕事終え、昼食をとりに食堂へ向かった。 「富士野さん」 彼はその声にうしろを振り向いた。 「おう。佳代ちゃん。今から休憩なら昼一緒に食べない?」 「無理。仕事だから」 息を切らした彼女がいた。 「そうか。残念だな。そのあと前庭でいちゃつきたかったのに」 「そんなことより応接室にお客さん来てる」 「誰?」 「大東京テレビの人。私の推測なんだけどあのチャンピオン事故起こしたでしょ。だから次の世界戦ゆうくんに変わるんじゃない」 「相手軽症なんだからそんな事にならないよ」 「いいから早くいってきな」 「うん。今日もポニーテールがそそるね。佳代ちゃん」 「ばか」 彼はそこに向かった。 「コン、コン」 「入って」 鏡の声がした。 「失礼します」 彼はそこのドアを開け入室した。 「富士野君。早くここに座りなさい」 テーブルを挟んだ二脚のソファーに入り口から遠いい上座には鏡、下座には大東京テレビの社員二人が座っていた。 「はい」 彼は鏡の隣に座った。 「主役が揃ったところではじめます。はじめまして、私はこういうものです」 彼の正面に座った社員が名刺を彼に差し出した。そこには〈大東京テレビ スポーツ局 局長 落合清二〉と書かれていた。 「ありがとうございます。清志さんのはいらないから」 彼は落合から名刺を受け取った。 「富士野君。そんなこといわないでよ俺のももらってよ」 「清志さん。酒飲むとすぐからむから」 「だめだよ。局長いるんだからそんなこといっちゃ」 彼は清志から差し出された名刺を受け取った。 「早速なんだけど富士野君。国技館で世界戦やらない?」 落合が本題に入った。 「いつですか?」 「それが一ヶ月半後の七月八日なんだけど。無理かな?」 「桜城さんの世界戦じゃないですか。ダブル世界戦になったんですか?」 「違うよ。この前の人身事故で桜城君の世界戦は延期になった」 彼女の推測は当たった。 「何でですか? 被害に遭った子は軽症だったんですよね? それで延期って厳しすぎませんか?」 「富士野君。そんなに興奮しないでよ。言っちゃいけないことなんだけど。口外しないなら教えるけど」 「しませんよ」 「たしかに。その子は軽症だったんだけど。その子のおじいちゃんがこの番組のスポンサー会社の重役であんなやつのスポンサーはおりるって言い出したんだ」 「大人の事情ってことですか」 「そう。公には桜城の自粛による延期っていうことになるけど」 「実はその日俺桜城さんボコボコにしたんですよ」 「それは聞いたよ。でもあくまでそれは練習だろ。その時ドランカー症状がでていたのに運転した桜城くんの責任だよ。富士野君は罪悪感を持つべきではない」 「そんなことよりも相手はクリスティアーノ、ファビアノだから」 「まだ返事してませんよ」 「富士野君。何言ってるんだ」 「そうだよ。こんなかたちにはなってしまったけど。チャンスにはかわりないよ」 鏡と清志が彼に言った。 「でもなんでカルロスじゃないんですか。WBCは九位ですよ」 ちなみにWBAは二位にランキングされている。 「カルロスはボクサータイプだし面白い試合になんないよ。日本人をことごとく退けているファビアノに勝って日本中の注目を浴びてもらいたいんだ。富士野君どうだい?」 「日比野さんに聞いてからでいいですか?」 「あのばかにきかなくてもいいだろ」 「富士野君がそういうならそれからでもいいけど。ジムとファビアノサイドには了承を得たから。いい返事を待ってるよ。では私共はこれで失礼いたします」 落合と清志は立ち上がった。 「清志さんは何しに来たんですか?」 「何その言い方酷いな。富士野君がビビって断るかもしれないから強力助っ人で来たんだよ」 「清志。次期世界チャンプに失礼だぞ」 「ごめんね次期チャンプ」 「ばかにしてんすか? 落合さん。実況この人だったらやりませんから」 「了解。おい。いくぞ」 落合は彼の方を向いて笑った。 「了解って。局長真に受けないで下さいね」 「どうかな? お前このあいだのこともあるから」 歩き出した落合を清志が追っていった。 「今日はお忙しいところありがとうございました。失礼します」 「失礼します」 ドアの前で立ち止まった落合と清志はお辞儀をして退室した。 「富士野君。この一年でだいぶ飛躍したけどあのばかのおかげかい?」 鏡はお茶をすすってから語り始めた。 「そうですね。それと事務の君島さんのおかげです」 「君島君とそういう関係だったんだね」 「流れでそういう関係になってしまいました。学長。日比野さん食堂ですよね?」 「そうだね今の時間は。あいつにはなんにもしないんだったら夕方まで来るなって言ってるんけだけど来るんだよな。おかげで苦情の嵐だよこっちは」 「それは日比野さんの性格ですから。では失礼します」 彼は日比野のもとへ向かった。
「こんにちは」 混雑する食堂に着き彼は大きな体の日比野をすぐ見つけ出した。日比野は学生たちと会話しながら食事をしていた。 「なんだお前か。俺のキャンパスライフじゃまするんじゃないよ」 「日比野さん。世界戦を七月に国技館でやることが決まりました」 周りにいた学生は彼に拍手をおくった。 「相手はカルロスか?」 「違います」 「じゃあやめとけ」 「勝てないよ、今のお前じゃ」 「なんでですか? 勝てますよ。絶対に勝てないって言われてシーパーにもホンにも勝ったじゃないですか」 「勝つのは無理。相手カルロスに変えてもらえるならやれ」 日比野は左手で口元を覆い爪楊枝で歯につまったものをかきだしていた。 「そうかもしれないですけど。俺すごいパンチ身につけたんすよ。出し投げ応用したやつですよ」 「村田さんに聞いたよ。すごいらしいな。ヘッポコぱんち」 「なんでそんなこと言うんですか?」 「だったら。こっち来い。まみちゃんこれさげといて」 日比野は食堂から中庭に繋がってる扉に向かった。そして、そこを開けうしろからついてきた彼と共に中庭に出た。 「おい。来いよ」 全面ガラス張りの食堂の中から先ほど日比野と食事していたグループをはじめとする大勢の学生達が野次馬となり異種格闘技戦を始めようとする二人に視線を向けた。 彼はオンガードに構えてその場でステップを刻み始め戦闘モードに入ったが日比野はダランと両手をさげている。しばらくして、彼から徐々に頭を動かしステップ刻んで日比野の間合いに入って行った。そして、日比野が左の突っ張りを彼の胸に繰り出した。その時彼は左を放ったが胸を押された事で体が後ろに仰け反り前足に全く重心を残す事ができなくなり日比野の右ほほに触れるだけの弱いパンチになってしまった。すると、日比野は彼の胸に左手をあてたままその体勢になった彼に右の突っ張りを彼のアゴに放った。それを食らった彼の体は数センチ浮いてうしろに倒れた。 「おい。起きろよ。これでわかっだろ。ばかが考えたもんが通用する訳がないって。世界とるやつは何千何万ってやる動作を一つ一つ丁寧にやってそれが血となり肉となり自分のものになっていくんだ。だからそんな変な技二度と使うな。わかったら飯食うぞ。俺も デザートのラーメン食うから」 日比野は彼に手を差し伸べた。 しかし、彼は日比野の手を借りずに芝生から起き上がり日比野を睨みつけて食堂のなかに入っていった。 強固になりつつあった二人の絆にひびが入り始めた瞬間だった。
翌日の朝。彼は普段通りにロードワークを済ませ道場で稽古したが、日比野を遠ざけるようになった。
そして、その二日後、桜城の試合延期と彼の世界挑戦がスポーツ紙に載った。 世界挑戦が公になった途端にまた彼へのマスコミの取材が始まった。 彼は取材をされることで浮き足立つこともなく、いつもと同じサイクルで生活した。
順調な練習と稽古をこなし試合まであと二週間になった。 「おい。ゆう。お前まだあのパンチまだ使ってるらしいな」 座敷に腰掛けてスポーツ紙を広げた日比野は四股を踏む彼に尋ねた。 「はい。あれを何千何万とやって俺の血と肉にしている最中なんで」 「そうか。じゃあもう一回。俺とやるか」 「あれは日比野さんと俺の体重差が違うからああいうふうになっただけです」 「本番はあれ一発で終わるんじゃないかな」 「おい狩野。部室から俺の締め込み持ってこい」 「はい」 日比野は鋭い眼光で狩野に命令した。 「あっおはようございます。日比野です」 次に日比野は半ズボンの右ポケットからスマートフォンを取り出した。 「社長。今日ですね。雄心が体調不良で吐いちゃって稽古場で倒れたんですよ」 「はい風邪ですね多分。それでですね今日休ませたいんですよ」 「ありがとうございます」 「はいそう伝えときます。失礼します」 日比野は電話を切った。 「おい。松井電気消してそっち側のカーテン閉めろ」 「はい」 「山岸は足洗って座敷のカーテン閉めろ」 「はい」 「坂本。塩をてんこもりにいれておけ」 「はい」 「ダルははバケツに水いっぱいいれろ」 「はい」 「おせえよ狩野。でれっと[ 角界隠語でもたもたするという意味。]してんじゃねえよ。早く締めろ」 「はい」 「それからお前ら今日これで稽古終わりな」 「はい」 「雄心。社長がお大事に言ってたぞ」 「何で社長にうそつくんですか?」 「体調不良で風邪はうそだけどあとはうそじゃない。お前はこれからそういふうになる」 「かわいがるんですか?」 「かわいいがりはかわいいと思うやつのためにやるんだよ。今のお前はいう事聞かないからかわいくない。だから殺す」 「冗談ですよね?」 「どうも。ごっつあんでした」 狩野が黒の締め込みを締め終わった。 「おし。ありがとう。じゃあお前ら帰れ」 入り口側、座敷側のカーテンが締められ室内のあかりはカーテンのついてない入り口扉 の窓から射す太陽光だけだった。他の窓は防火カーテンが閉められたので一切日光が入らない。 「はい」 部員達が彼への心配を表情に出して道場から出て行った。 「よし、土俵入れ」 土俵に向かう彼の表情からは恐怖だけしか読み取れなかった。 「なんでこんな事をするんですか?」 徳俵をうしろにして仕切る彼が前に立つ日比野に尋ねた。 「負けるってわかったてる弟子を国技館で試合させたくない。お前だって一万人の前で いや何千万人に自分の醜態さらすくらいなら死んだ方がいいだろ」 「言ってる意味がわかりません」 「さあ。来い。おらあ」 まだ何かを言いたそうにしている彼をよそに日比野が腰をおろし、両手をひろげ、声を掛けた。 「さあ。押せ。下から上に」 日比野の厚い胸板にぶつかっていった彼だが日比野を一歩も後退させることができなかった。 「押せって言ってんだろ」 まるで電柱を押し続けているような感覚の彼の体は疲弊して手と足に力が入らなくなった。 「このやろう」 押せない彼に日比野は右手を彼の左脇に入れて土俵に叩きつけた。 「おい。立てすり足だ」 彼の髪をつかんで起き上がらせた日比野は彼の頭を前から手で押えつけ俵内をすり足で一周させた。 「ほら。さあ来い」 厳しい稽古に見えるがこれはまだ序の口だった。 そして、これが十分程続き玉の汗が噴き出した彼の体は砂まみれというより泥まみれになっていた。 「すり足だよ。ほら歩け」 日比野はすり足で前に進むことができない彼の短い髪の毛を引っ張りすり足をさせた。 「もう無理です。オエッ」 それに耐えれなくなった彼は土俵に倒れ込み、激しい運動による胃痙攣が原因で嘔吐した。 「無理じゃないよ。まだしゃべれるじゃん。ほら。立て」 意識がもうろうとした状態で彼は立った。 「さあ。来い」 「アー」 それが原因で発狂した彼は奇声を発しながらぶつかった。 「うるせえな。声を出すな。声出したら押せないんだよ」 「アー」 「いい根性してるね」 そう言った日比野はてっぽう柱の脇の壁に設置されている棚から塩のはいってるざるを持ってきた。 「ほら。塩かましてやるよ」 日比野はざるから右手で目一杯塩をつかんで彼の口に突っ込んだ。 「オエッ、フッ」 「まだ足りないみたいだな。ほら」 むせながら塩を吐き出す彼をよそに日比野はそのざるを彼の頭の上からひっくり返した。 「おい。浦島太郎続きやるぞ。はよせえ」 日比野は彼のあたりを受ける格好で彼を待った。 「アー」 「声だけじゃないか」 惰性だけでぶつかった彼はまた土俵に叩きつけられた。 その後も押す力など残ってない彼にぶつかるように強要し、とうとう、彼は気を失い倒れた。 「おい。死んだか。ちょっと待ってろ」 意識の無い彼に話しかけた日比野はその棚の方に向かった。そして、その下にあったバケツを手にして日比野が彼のもとにもどり土俵によこたわる彼の頭に水をかけた。 水は滝のようにそこにかかり地面に落ちパッシャーンという音をたてた。 すると、彼の目がパッと開いた。 「ほら。最後だ。一丁押せ」 それを確認した日比野は胸を出す格好で彼を待った。 押す力など疾くの昔に使い切ったはず彼は大きく息を吸ってそれを止め腰を下ろしてから日比野の右胸を目掛けて自分の体を下か上に突き上げるようにぶつかり手を伸ばした。日比野は予期するより鋭く重かった当たりに上体を仰け反らし受け止めた。 「そうだ。押せ。腰おろせ。手伸ばせ」 そして、がむしゃらに押す彼の気迫にも押され日比野は土俵を割った。 「おい。腰おろせ」 「どうもありがとうございました」 日比野は彼の肩を押し付けて腰をおろさせた。そして、三〇分の死闘が終わった。 そのあと、彼は道場の外で待っていたダルの補助を受け入浴、着替えを済ませ大学から近い彼女の家にその肩を借り入った。そして。泥のように眠った。
「おーい」 帰宅した彼女がベットで寝ている彼の体をさすった。 「なんだよ」 彼は部屋の電気のまぶしさで目をシュパシュパさせていた。 「風邪で休んだって聞いたから心配してたのにこんなとこでさぼったてたの?」 「日比野に殺されかけた」 完全に目が覚めた彼は日比野への怒りが込み上げてきた。 「何それ。どうせちょっと怒られただけでしょ」 「被害届って。交番でもいいんんだよな?」 「知らないよ。何されたかわからないけどそんなことで警察が相手にしてくれるわけないでしょ。それより、今病院行ってきたんだけど。出来ちゃった。妊娠六週ですよ。パパ」 「冗談でしょ? 俺つけてたんだから」 「そのことなんだけど、怒らないで聞いてね」 「まあ。話せよ」 「ゆうが福岡から帰ってきたとき、したでしょ。その時からのコンドームに穴あいてたんだよね」 「どいうこと?」 「私が針で穴開けたんだ。もうすぐ三十路だからその前には子供生みたいってずっと思ってたんだ」 「何してんのお前。あっそうだ。だからか。その時ぐらいから出した時にお前が率先してゴム外してたもんな。おろせよ。お前の金で」 「えっ。ひどいよ」 「それはこっちのセリフ。それとお前と別れるから。俺今グラビアの子と仲良くしてんだよね。勝ったら付き合ってくれるっていってたんだ。この事がなくてもお前とは世界戦が終わったら別れるつもりだった。お前は俺にとっては副作用のない精神安定剤がわりだったってことだ。じゃあな」 泣きじゃくる彼女をよそに彼は部屋から出た。 翌朝四時。彼は前日の昼間の熟睡で一睡もできなかったので普段より早くロードワークに出かけた。 前日の限界を超えた稽古で彼の全身には無数の擦り傷があり、酷使した腰には強い張りがあった。それでも、世界戦があるので体に鞭を打ち走った。そして一時間のロードワークを終え、彼は軽いシャドーボクシングをしようと家の近所の公園に立ち寄った。 そして公園内に入った彼は早速シャドーを始めた。 しばらくして彼はふと、公園内に植えられている木が目についた。それが気になった彼はそこに近づいた。彼はその木に触れているうちに木をポンポンと掌で叩いた。しだいに突っ張りをし、しまいにてっぽうの動作をしていた。その木は道場のてっぽう柱の太さと同じぐらいで、さほど木の表面がゴツゴツしていなかった。 てっぽうを三十分ほど続け、汗だくになった彼は次に四股を踏み。そのあとすり足をして合計で一時間ほどその公園で稽古した。 そして、試合当日この日の朝も公園で稽古し、午後三時に国技館に入った。
入場ゲートの扉にはFINALを戦う二人がアップのポスターが貼られていた。 またそのポスターには「RAGING FIGHT」という文字もでかでかと印字されていた。
東の支度部屋。 FINALの開始時間始まであと一時間に迫っていた。 彼は落ち着かないようすでウォーミングアップをしていた。 「堂田。いた?」 「いない」 彼はあれ以来日比野に愛想が尽きていた。当然、日比野にセコンドの依頼をしてない。 しかし、日比野がどれだけ彼の欠かせない存在になっていたかを彼は今更になって気付いた。 「電話してみたら?」 「さっきしたけど通じなかった」 その後も彼はウォーミングアップに集中できず入場時間を迎えてしまった。 そして。 「ホーネッツテックプレゼンツWBC世界フェザー級タイトルマッチ。両選手リングに入場です。はじめに青コーナーより挑戦者、富士野雄心選手が東の花道より入場です」 リングアナは彼の大ファンである俳優の綾野剛が務めた。 ♪〜ヘイ、ボーイどうせならなんかのチャンピオンを目指せよ。ヘイ、ボーイ何でもいいからなんかのチャンピオンを目指せよ。 彼の入場曲が掛かり彼は花道奥で目を瞑ってある言葉を唱えた。 「一つ夢とは自分の身体の中から沸々と湧き上がってくるものたちの終着駅である。だからそこに着くまではそいつらから目を背けるな。バカ共よ」 そして、彼は歩き出した。同時に竹原ピストルのボーイをBGMに清志が語りはじめた。 「まずは青コーナー。チャレンジャーWBC世界フェザー級九位イカルガジム所属富士野雄心です。二三戦一七勝五敗一引き分け。ここ一年は強敵相手に無傷の三連勝で世界の舞台まで龍のように昇ってきました。その飛躍の理由は元若吹雪。現飛翔大学相撲部監督日比野氏のもとでの猛稽古でした」 彼がアリーナに登場し満員の国技館が歓声で沸いた。 「相撲部員との猛稽古で強靭な首まわりの筋肉を手に入れちょっとやそっとのパンチでは効きません。徹底敵に四股すり足をすることで地面を強く掴む力を手に入れ重いジャブを打てるようになりました。てっぽう柱でのトレーニングですさまじい腰の回転力を手に入れそれを利用したボディイブローが彼の武器になりました。偶然なのか必然なのか彼のはじめての世界戦はここ両国国技館です。相撲から強くなる術を懸命に身につけた彼を相撲の神様、野見宿禰もきっと見守ってくれることでしょう。背中をおしてくれることでしょう。そしてこの聖地で富士野が手に入れるのはWBCのエナメル色のベルトです。そして、今富士野がジャンプしてリングイン。頑張れ富士野」 ボクサー富士野雄心を愛する清志の渾身の語りだった。 「続きましてチャンピオン。クリスティアーノ。ファビアノ選手が西の花道より入場です」 ファビアノの入場曲がかかり花道奥からファビアノが出てきた。 「このチャンプ強いです。ホントに強いです。戦績十六戦無敗十三KO。帆足はチャンピオンから引きずりおろされました。柏木は王座奪取を阻まれました。まさに日本人キラー。今ファビアノがリングイン」 そして、次にメキシコ国家の斉唱が行われた。 「続きまして竹原ピストルさんによる国家弾き語りです」 この斬新な演出で大東京テレビ本社の電話は鳴りっ放しだった。 「内藤さん。もうまもなくはじまりますね」 「そうですね。富士野なんか必殺パンチがあるらしいから楽しみですね」 「カン、カン」 「さあ。ゴングが鳴り響きました。同時に富士野夢が富士野を応援する人の夢がそしてわたしの夢が動き出しました」 第一ラウンドが開始し彼はいきなりあれを狙っていた。 「おー。富士野から間合いを詰めた。チャンピオン左。さがってかわして富士野左」 「左いいのあたったね」 そのパンチはファビアノのアゴをとらえたがファビアノにダメージを与えられなかった。 彼はもう一度同じ動きをした。 「富士野。積極的に相手の間合いに入る。チャンピオン左。左手を伸ばしたまま。富士野左を放ったがこれは弱い。そして、チャンピオン右ぃー」 「いいのもらっちゃったな」 「内藤さん。チャンピオン左手を伸ばして富士野を押す格好になりましたけど。あれはどういう意図を持つのですか?」 「あんまり意味ないんじゃないかな?」 彼の必殺パンチを数回見ただけで対処法は思いつかない。 彼は今のファビアノの動きでファビアノに研究されてしまったことに気付いた。彼はなぜファビアノがこのパンチを研究できたのかという事がきになり試合に集中できず精彩を欠きファビアノがこのラウンドを取った。 「やばいです。あれ読まれてます」 イスに座った彼はうな垂れていた。 「大丈夫だよ読まれてないよ」 彼は頼りないトレーナーに愛想を尽かし、その体勢で日比野がいないかと観客席を見渡したが日比野はいなかった。 「富士野。あれもう一回やってみろよ」 サブセコンドについていた堂田がリング下から彼に話しかけた。 その声に彼は反応し堂田の方を向いた。堂田の表情には薄ら笑いが浮かんでいた。 「てめえ。やったな」 そう、堂田はあれをファビアノサイドに送りつけた。 「まあ。終わった事は気にするな」 「富士野。もう立て」 リング上のそのトレーナーの促しで彼は堂田を睨みながらイスから腰をあげた。 「カン、カン」 二回目のゴングが鳴った。 「おー。ファビアノ積極的に前に出ます」 平静を失った彼は初っ端からファビアノに攻め込まれた。 このラウンドの中盤。なんとか左ジャブで応戦する彼のスタイルが戻り防戦一方の状態からは抜け出した。 三ラウンドに入り。彼は主導権を握ろうとさらに厳しいジャブ攻勢に出た。 「富士野。左の連打を繰りかえします」 「でも、ファビアノはパンチ上手く裁いてるよ」 ファビアノにはジャブだけで活路が見出せなかった。 「富士野くっつけば左のリバーあるんだけど。チャンプそれわかってるからくっつかないよね」 彼の攻め手を潰したファビアノは次々と彼に有効打を当てていった。
そして、ラウンドは八ラウンドに入った。 「富士野。防戦一方になってます」 「そうだね。なんかしないとね」 「右ー。チャンピオン富士野の左に合わせて右です。ここでチャンピオンの最大の武器右のカウンターが富士野をとらえた。富士野起き上がれない。立て富士野」 「立ったよ」 ファビアノはこの後、勝機とみて一気に攻め込み試合を終わらせようとしたが彼はガードを固めて何とか持ちこたえゴングが鳴った。 「富士野。手出さないと負けるぞ。しかっかりしろ」 そのトレーナーはイスに座る彼の左まぶたの出血を氷で止血しながら喝を入れた。 「なんでいねえんだよ。俺がピンチなのに。俺を世界チャンピオンにするって言ったのに」
この後も防戦一方になった彼は九回、一〇回にそれぞれ一回づつダウンを奪われ回は一一回に入っていた。 「富士野よくやったよ。いい勉強になった。世界はポッと出が取れるほど簡単じゃないよ」 「また右ー。アゴに当たりグラッとしました富士野。チャンピオンは透かさず前進ラッシュラッシュ。富士野。青コーナーに追い詰められた。さあ富士野胸突き八丁にさしかかりました」 彼はファビアノのラッシュで固めていたガードを除除に下げていた。 「腰おろせ。目開けろ。前に出ろ」 彼の後方から大声が聞こえた。 彼はこの言葉に操られるように腰をグッと下げ塞がりかけている両目を開け、ファビアノの懐に飛び込んだ。 ファビアノはこれに上体を仰け反らした。 そして、彼がそこで目にしたものはファビアノのがら空きになったアゴだった。 彼はファビアノに自分の体をぶつけてから腰を回転させ、そのアゴを目掛け右拳を下から上に振り上げた。 「富士野アッパー。アッパーでファビアノを倒した。ファビアノは宙に浮いてから後ろに頭から倒れました。ヒジョーに危ない倒れ方です。しかしすごいパンチでした」 レフェリーはしゃがんでファビアノの容態をみてすぐに両手を大きく交差した。 「今レフェリーが両手を交差しました。小刻みになるゴングが彼の勝利を祝福しています」 「いやあ。まいったわ」 「国技館の大歓声は天井のを揺るがす程のものです。内藤さん。それにしてもあのアッパー驚きましたね」 「最後に出してきたね。憎いよ」 「それではWBC世界フェザー級新チャンピオン富士野雄心選手です。富士野選手おめでとうございます。今の気持ちは?」 腰にベルトを巻いた彼のインタビューが始まった。インタビュアーは清志の後輩中村だ。 「よくわかんないす。でも、この試合に絶対負けるって言った人の言うとおりにならなかったのでよかったです」 「そうですか。しかし、新チャンピオン。私をはじめ観客の皆様、テレビで見ていた皆様が富士野選手の敗戦を覚悟してました。あの苦戦はあの一発のための伏線だったのでしょうか?」 「そういうことにしてください」 「今観客席の方からこの詐欺師と言う冗談が飛んできました。そのぐらい皆さんが驚いたという事です。もうひとつ質問をしたいところですが、時間が来てしまったのでここで終わります。WBC世界フェザー級新チャンピオン富士野雄心選手でした。どうもありがとうございました。皆様もう一度盛大な拍手を」 そして、彼はリングをおりた。 「富士野悪かった」 「あっ。なに?」 彼の後ろを歩く堂田の声が観客の拍手で掻き消された。 「本当に悪かった」 「声でかいよお前。あのときは殺したい気分だったけど勝ったから許す」 「ありがとう。ほんとすまなかった」 彼は花道を抜け支度部屋に向かった。 すると。 「ドスーン。ドスーン」 彼が帰る支度部屋からてっぽう柱を叩く音が響いていた。彼はこれを耳にした瞬間、支度部屋へと走った。そして、扉を開けた。 「おう」 てっぽう柱のすぐ側に手で汗を拭う日比野の姿があった。 「おうじゃないですよ。関係者以外立ち入り禁止ですよ」 彼は日比野のもとに駆け寄った。 「じゃあ。帰るわ」 「だめです。帰らせません礼を言ってないので。ありがとうございました」 彼は深々と日比野にお辞儀をした。 「一言アドバイスしただけだ。なあ、ちょっと来いや」 日比野は自分の後方にある扉を開け、扉の向こうへと彼と共に入った。 その扉はガシャンという大きい音をたてて閉まった。そこは灯りのない薄暗い場所であった。 「まあそこ座れよ」 日比野は入ってすぐの場所にあったパイプイスに彼を座らせた。 「日比野さんは座らないんですか?」 日比野は彼と視線を合わせずにコンクリートの壁に突っ張りをしていた。 この場所は東の支度部屋と西の支度部屋を結ぶ裏通路である。普段は横断することができないように真ん中で仕切られているが大相撲の優勝決定戦の際に支度部屋が変わる場合この通路を使用して明け荷になどを移動をさせる。 「お前あれアッパーじゃないだろ?」 「そうです。あご見えたからボディーブローの要領で腰を相手にぶつけて回転させてあごに手を伸ばしただけです」 「なんで右?」 「わかりません。体が勝手に」 「そうか。じゃあ。あのあともてっぽうやってたんだな」 「今日も朝公園の木でやりました。やらないといけない体になったんです。それでお願いなんですけどまた行っていいですか」 「いいよ」 「ありがとうございます。なんか日比野さんのもとで稽古してたらダイヤモンド王座も夢じゃないっていう気がしてきました」 「その前にしなきゃいけないことあるよな?」 日比野は彼に目線を合わせた。 「もしかして。あいつのことですか?」 「もしかしてじゃねえんだよ」 日比野を声を荒げた。 「あいつ何でも日比野さんに言いやがって」 「お前あの言葉本気なら殺すぞ」 「本気じゃないですよ。俺は佳代しか愛してません。あの時はああいう状況だったんでああやってうそつきました」 「言い訳すんな。佳代ちゃん本気でおろすこと考えて俺に相談してきたんだぞ。早く行って謝って来い。このばか弟子が」 「すいませんでした」 彼は彼女がどこにいるかわからなかったがとりあえず、アリーナに向かって走った。 アリーナ内に入り辺りを見渡した。しかし、そこではリングなどの撤収作業が始まっていたので業者しかおらず彼は来た道を引き返していった。 「ゆう」 彼の頭上から声がした。 「佳代ちゃん」 彼が顔を上げると花道を下に見下ろす事が出来る升席の通路から安全策を握って彼女が彼を見つめていた。 「すごかったね」 「お前も負けると思ってたんだろ?」 「おもってないよ」 「ホントかよ」 「いまのしゃれ?」 「ちげえよ」 「こんなところで聞くことじゃないんだけど。この子どうする?」 「うめ。あとグラビアの女の事とお前とわかれるって言ったことうそだから」 「うん」 「それと俺と結婚しろ」 「こんな女でよかったらもらってやってください。よろしくおねがいします」 側で作業していた業者数人が拍手を送った。 「なんか恥ずかしいね」 「そうだ。今週の土日開けとけよ」 「うん」
その三日後。 二人は釧路にいた。 「二本松駅まで直進であと四〇〇メートルだって」 「佳代ちゃん駅見えたよ」 「どれ?」 「あのログハウス」 「ちっちゃいね」 運転手の彼はその駅に車を停め、杉澤達に見せるために持ってきたWBCのベルトの入ったケースを手に提げその車を降りた。 「チャンプ」 彼らがその会社に向かうと杉澤がその入り口扉を開け彼らのもとに駆け寄った。 「ご無沙汰しています」 「そうだな。で。そちらさんは?」 「嫁の佳代です」 彼はチャンピオンになった翌日入籍した。 「はじめまして。富士野佳代です」 「どうも。嫁さん連れてくるなんて聞いてないぞチャンプ」 「すいません。驚かせようと思って。あと嫁のおなかの中にもう一人います」 「子供まで作ったのかよ」 「嫁を呼び捨てにしないで下さい」 「えっ。ああ。お前揚げ足とんじゃねえ」 「すいません」 「まあ。トリプルにおめでとう」 「ありがとうございます。杉澤さんいなかったら今頃川の一部になってたんで。ほんとに感謝しています」 「その節は主人を助けていただき本当にありがとうございました」 「新婚さん。頭上げてよ」 彼らは頭をゆっくりと上げた。 「なあ。二本松でも行くか」 「はい」 「ゆうくん。二本松ってどこ?」 「俺の自殺した場所」 「えっ」 「奥さん。富士野君に嫌な事を思い出さすためにいくのではありませんし惨めな自分乗り越えたんだから二本松に行っても大丈夫だと私は思います」 「そうだよ。佳代。あれはもう俺の中でいい思い出になったんだ」 「ゆうくんがいいならいこ」 「じゃあ。あっちの車で行きましょう」 彼らは以前彼が乗ったあの車で二本松に向かった。 「うわあすごいまさに大自然だね」 二本松展望地の駐車場に着き。彼女は車から一目散におり展望地まで駆け寄りそこからの景色を眺め目下に広がる湿原と川に感動した。 「あんまはしゃぐなよ。ガキが腹の中にいるんだから」 「がきって言わないでって言ったでしょ」 「ごめん。ごめん」 彼と杉澤は彼女から離れた場所でその景色を眺めた。 「杉澤さん。俺がここから飛び降りたのって。俺の中にある何かがボクシングを続けろって言う意味でこっから落としたんだと思います。そうじゃなきゃあんな恐怖に打ち勝てません」 「きっとそうだな。自分の運命って自分の中にあるものが決めるんだよな。なんか運命って川みたいだな。上手い事自分の進むべき方向に流してくれるんだよ。お前みたいにながれにさからわないやつには」
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