このようなライフスタイルを確立して一週間。彼には唯一の楽しみがあった。 「こんにちは」 「お疲れ様です」 「今日もいい天気ですね」 「はい」 「ボクシング頑張ってくださいね」 「はい」 それは先日、学長室で出会ったあの女性に話しかけられることだった。 彼は彼女の容姿、話し口調、うしろ髪をシュシュでまとめたポニーテールに清潔なイメージを持ち彼女に恋心を抱き、いつかは彼女とセックスしたいと思っていた。
「おい。寝てんのか?」 「すいません」 日比野の指導を受け十日が経った。 「お前最近。だれてんな。せっかく次に移行しようと思ったのに」 「すみません」 「すみませんじゃねえ。俺の手だって機械じゃないんだから。ああもうやだ」 「まじめにやるんで。ホントすみませんでした」 日比野のかんしゃく玉を踏んでしまった。 「てめえこのやろう。今まで真面目にやってなかったのか。このやろう」 「そういうわけでは」 「お前の臭いまわし持つのやだから。壁に向かって腰おろししろ」 「はい」 彼は入り口側の壁に駆け寄り、壁と向かい合い自分の体をくっつけて腰おろしをした。 「チンポ壁にこすりつけろ。そうしないと腰が前に出ないんだよ。でちゃってもいいから。もしでちゃったら一石二鳥だ。筋肉がついて気持ちよくなるトレーニングなんて他にないぞ。俺って天才だな。そうだ学会に発表しよう。どう思う。狩野?」 「わっかんないっす」 「稚内? お前の実家は市川だろ」 鉄砲柱に精を出す狩野がその手を止め答えた。 連日の日比野の彼に対する暴言は快適なバイトの斡旋と寝床を提供して貰ってる事などがあるので許せていたがこの辱めが原因となり日比野への愛想が尽きてしまい彼は相撲トレーニングを辞めることにした。 そして、三〇分の辱めを終えて道場をあとにし、部室で支度などをして仕事に出かける前彼は再び道場に寄った。 「日比野さん」 「どうした?」 「ちょっと。いいですか?」 「おう」 彼は靴を脱いで座敷に上がり日比野のもとに近づいた。 「日比野さん。俺もうここでトレーニングするのやめます」 「そうか。世界チャンプになるのやめたか。お前がそう思ったならそれでいい。でもバイトはやめんなよ」 「チャンプになるのもバイトもやめません。いろいろとお世話になりました。ありがとうございました。鍵です」 感謝と憎しみを込め深深とお辞儀をし制服の胸ポケットから出した道場と部室の合鍵を日比野の手に渡した。 「あいよ」 日比野は視線を土俵に向けた.。 座敷からおりた彼は靴をはき荷物を置いた。 「どうもありがとうございました」 相撲部に別れを告げた。
そして、翌日。すっきりした気持ちの彼はせっせと校舎の清掃をしていた。 「富士野さん」 「はい」 大教室の黒板を消していた彼はその声で後ろを向いた。 相撲部員の山岸だった。 一九〇の長身で均整のとれた体をしている山岸はこの部の主将で精悍な顔つきに加え土俵外では常に部員達に気を使う優しさを持つ好青年だ。 「何? 今忙しいんだけど」 「そのままで聞いてください」 彼は再び黒板に向かい黒板消しを持った。 「明日はきますよね?」 「行かないよ。聞いてなかったの?」 「あれは冗談かと」 「山岸君。無神経すぎるよ。日比野さんの性格うつったんじゃない」 「すいません。僕もああいうことを平気でいう監督は好きでありません。でも監督のもとで相撲やってると楽しいです」 「楽しいって何が?」 「強くなるのが。監督はああだこうだ言う理論派じゃないけど俺達を強くするように仕向けるのが天才的に上手いんです」 「そうなんだ。でも俺はそうは思わない。指導者と合う合わないは人それぞれだから」 「この前の富士野さんの試合見に行きましたけど。ああいうパンチなら世界取れませんよ」 「うるせえ」 彼の大声は黒板に反響し山岸に届いた。 「だから、戻ってきて下さい。では失礼します」 山岸は教室を出て行った。 「ガキが。むかつくんだよ」 扉が閉まった。
この日の仕事が終わり、彼は身の入らないジムワークを早めに切り上げ家に帰った。 「おかえり」 「ただいま」 「あんた。あっちの生活で足りないものないの?」 「えっ。俺もうあそこにいかないから」 「なんで?」 「日比野にいじめられた」 「そんな事する訳ないじゃない」 「するんだって。いい年こいて。そういう訳だから」 「ピンポーン」 「はーい」 母親が玄関に駆け寄った。 彼は自分には関係ないと思い風呂場へ向かった。 「ゆう」 「何」 母親の呼びかけにおろしたジーパンをあげた。 「ゆう。早く来なさい」 「わかってるって」 ジーパンのホックをかけてファスナーをあげながら玄関に向かった。 そこには日比野の姿があった。 「今日はすまなかった。この通りだ。明日からまた来てくれ」 あの日比野がお辞儀をした。 「雄心。何があったかは聞かないけど関脇になった人がここまでしてくれてるんだから」 「あのですね。お母さん。わたしが稽古場で」 「言わなくていいよ。日比野さん。次の試合まではどんな事を言われても行きます。でも試合でトレーニングの成果が出なかったらもう行きません」 「あんた。どこからものいってんの。謝りなさい」 「お母さん。いいんです。車で送ってくよ」 「でも。時間かかりますよ」 「いいよ。待ってる」 「じゃあ。お願いします」 彼は風呂場へ向かった。 「どうぞ。あがってください」 「いいえ。ここで待ってます」 彼は日比野を長い間、玄関に立たしておこうと思い。時間をかけて支度等をして玄関に向かった。 「すいません」 「行こうか」 一時間近くそこに立っていたのに日比野はそれを咎めなかった。 翌朝。 ♪〜ダウンからカウント1 今日はカウント1で起きた。 そして、ロードワークを終え部室に入った。 「おはようございます」 「おはよう」 「やっぱきたんですね」 「とりあえず、次の試合まではよろしくね。キャプテン」 「こちらこそ」 そして、まわしを締め。道場に向かいこの日も日比野の手を借り腰おろしをひたすら行った。 腰おろしをしてから三十分が経過した。 「狩野。富士野にすり足教えてやれ」 「はい」 日比野は彼を次のステップに進ませた。 「富士野さん。すり足は腰下ろして前に歩くだけです。やってみてください」 彼は狩野に土俵奥の隅に呼ばれすり足の説明を受けた。 「そう。そう。体はまっすぐ動かさないで。あっちの端まで行きましょう」 狩野は彼のうしろについて優しい口調で語りかけた。 「あとは今のじゃ親指に力が入ってないので親指に力を入れて。あっちまで行きましょう」 この後も彼はすりあしで土俵の端から端までの往復を時間が来るまでやった。
この日の夜。 彼は部室で出すものを出して道場の座敷にひいた布団に入っていた。 「ドン。ドン」 こんな時間に誰かが道場の扉を叩いた。 彼は日比野のイタズラではないかと思った。 彼は立ち上がって入り口の方に目を向けた。しかし、その人物は日比野ではなかった。 彼は扉の窓の向こうにいる人物に会釈した。 「開けて」 彼は外からの声にせかされくつをはき、ロックを解除して扉を開けた。 「よっ」 「どうしたんすか?」 「日比野さんが相撲道場に世界チャンピオンになれなかった亡霊が夜な夜な出るって言ってたから」 「でませんよ。亡霊なんて」 「亡霊が喋った」 「さっきから喋ってるでしょ」 それは彼が思いを寄せてる君島佳代だった。 「あなた、そうじのときいつも私の事見てるでしょ?」 「すいません」 「別にいいよあれぐらいなら。しかし、ホントにここで寝てるんだ」 「そうですよ」 「ねえ。エアコン使ってる?」 「はい」 「使わないで。ここのエアコン電気かなりくうから」 「あついから。いいじゃないですか」 「経費削減は事務の仕事ですから。使いすぎなら学長にちくるよ」 「学長知ってんじゃないんですか?」 「あの人が学長の許しを得てやる訳ないじゃん。あの人は全て事後承諾だから。このあいだだって申請もしないで車買っちゃったんだよ。信じられないでしょ?」 「あの黒のワゴンのことですか?」 「そうよ。こっちにも予算があるの。ああいうことやられると大変なんだから。あのばかに言っといて」 「やんわりと言っときます」 「ねえ。中入っていい? 立つの疲れた」 「いいですよ」 彼は彼女を座敷にあげた。 「どうぞ。座ってください」 「ありがとう。ねえ、何時に寝るの?」 「もう寝る時間ですけど」 「えっ。まだ九時半だよ。どんだけ精進してんだよ」 「朝早いんで」 「そうなんだ。ボクサーも大変だね。これじゃあ、彼女と遊んでる暇もないね」 「彼女いないんで。別に困りません」 「やっぱり。いないんだ。そうだよね。顔はまあまあだけどいい年して夢中心の生活してるんだから。でも、あっちのほうはどうしてるの? お店? そんなお金ないから部室のDVDで一人相撲ってとこか」 「一人相撲って。あれのことですか」 「そうみたいよ。角界の隠語だった。あのばかがそういってた」 「おれはしてませんよ」 「うそつかなくていいよ。男ってそういうことしなきゃ生きていけないの知ってるから。ねえ三万でどう?」 彼女は彼に顔を近づけた。 「三万。今ないんで月末払いでいいですか?」 「だめ。ないなら帰るわ」 彼女は立ち上がりその場から去っていった。 その後も彼女は週に一度か二度この時間に道場に来ては上司の愚痴などを彼にぶちまけていくようになった。
二週間後。 朝の相撲道場。 彼は汗を垂らしながら十キロの砂袋を持ち、すり足を行っていた。 「雄心。時間だぞ。仕事いけ」 「はい」 彼は砂袋を片付け道場をあとにしようとしていた。 「あっ」 弁当をてにとった彼は何かを思い出した。 「日比野さん」 手に持ったもの座敷において日比野に近づいた。 「なんだ。辞めんのか?」 「違います。試合決まりました。二ヵ月後です」 「そうか。相手は?」 「韓国人です。OPBFの一位の選手です。しかも世界ランクも持ってるから勝ったら一気にランカーですよ」 「そいつ。強いの?」 「前にビデオで見たんですけど。ファイターでガンガン前に出てくるタイプで結構パンチあるんで。結構強いです」 「勝てんの?」 「勝つしかないんで勝ちますよ」 「そうだな」
その日のイカルガボクシングジム。 「ごっつぁんです」 サウンドバックを叩く彼を邪魔する男が彼に近づいてきた。 しかしそれに彼は耳を貸さない。 「無視すんなよ」 「ピー」 三分の終わりを知らせるブザーが鳴った。 「なんすか?」 その男を睨み付けた。 「お前。相撲やってんだって。ボクシングに見切りつけたか?」 「見切りなんてつけませんよ。試合あんのに」 彼はシャドーをしながら答えた。 「試合? ああ怪我した関の代わりお前なんだっけ。せいぜい怪我するなよ噛ませ犬なんだから」 「そうっすね。実力違いますから」 「わかってんじゃねえか」 「チャンピオン。勝ったら懸賞ください」 その男はスーパーバンタム級日本チャンピオンのだ。 「やるよ。一〇〇万でいいか?」 「はい」 「お前負けたら一〇な」 「ピー」 「了解。即金ですよ」 「ふっ。お前もな」 彼は再びそのバックを叩き始めた。
そして、彼の試合まで一ヶ月を切った。 「雄心。押してみるか?」 「はい」 「出してやれ。山岸」 「はい」 俵内で稽古していた山岸が返事をした。 彼は入り口側から徳俵をまたぎ俵内に入りそこで仕切った。 「腕曲げてください」 山岸は彼の前にたって腰を下ろし両手を広げ左足を引いていた。 「雄心。お願いしますっていって下から上にぶつかれ」 「はい。お願いします」 彼は頭から山岸の胸にぶつかっていった。 しかし、山岸はびくともしなかった。 「山岸。突き放せ」 「はい」 山岸は彼を軽々と突き放し壁にぶつけた。 「雄心。そんな肩ばっか力入れてどうすんだよ。力は当たったときだけでいいの」 「はい」 「もう一回やれ」 「はい」 このぶつかり稽古というのはただ単にぶつかるだけでは押せない。最初の当たりでタイミングよく手を伸ばし相手の上体を起こして軽くなったところを一気に押さないと相手を俵の外に押し出せない。 初めてぶつかり稽古を体験した彼はこの理論を日比野に言われたが頭では理解していても体がそのように動いてくれなかった。この日は全くこつをつかめずぶつかりを終えた。
試合まであと二〇日。 彼の一二六ポンド(五七.一五キロ)までの減量が激化してきた。 「雄心。落ちてるのか?」 「今のところは」 「そうか。でも、ヨーグルトと果物だけで仕事できてんのか?」 「なんとか」 一週間まえから日比野の嫁が作る肉、魚中心の弁当の朝食は一時やめてバナナなどの朝食に切り替えた。
その夜。 彼は布団に横たわったが空腹でなかなか寝付けなかった。 「ドン。ドン」 彼女が来た。 「減量中だからあんまりこないでっていったじゃん」 「ごめん」 彼は迷惑そうに扉を開けた。 「干ししいたけ持ってきたよ」 「ありがとう」 「すこしだけ。いい? 寝てていいから」 いつも強気な彼女は彼の苛立ちを察知し可愛さを感じさせる口調で彼に語った。 「少しなら」 彼は彼女を座敷に上げた。 「ほんと。ごめんね」 彼は布団に横たわり視線を彼女にあわせず窓側に向けた、 「愚痴とかいったら直ぐ出すから」 このところ常に空腹を感じ生活してるので普段は穏やかな性格だが些細な事でイライラしてしまう。 「私ウザいよね?」 「ウザくはないよ」 「だったら一緒に寝ていい?」 「だめ。犯しちゃうから」 「いいよ」 「俺がだめだ。出したら試合で力出せないから」 「それ迷信でしょ?」 「迷信じゃない。一年前の試合で一週間前に前の彼女とやったら足に力が入らない感じがして負けた」 「そうか。じゃあ。今日はだめだね。でもなんか眠いんだよね」 彼女は彼の布団にはいってきた。 「でろよ」 「やだ」 「殴るぞ」 「雄心は殴れないよ優しいから」 彼は彼女の方を向いて殴る素振りをした。 「ほらあ殴れないじゃん。もう寝るよ」 彼は拳をおろして反対側を向いた。 「化粧とか落とさなくていいのか?」 「もう落とした」 「家帰ったの?」 「すぐそこだから。そうだ。同棲する?」 「なんで付き合っていないのに同棲すんだよ。お前俺をからかうのもいいかげんにしろよ」 「お前にお前って言われたくない」 彼女は彼のほっぺたをつねった。 「ああ。うるさいもう寝ろ」 「はーい。寝まーす」 この後、彼女は彼に話しかけてこなかった。しかし、彼は彼女が隣にいることで生じるいろんな妄想が彼に襲い掛かかってきて寝付いたのは十二時過ぎだった。
翌朝。 ♪〜ダウン 先に起きていた彼女が彼の携帯のアラームを止めた。 「富士野君。朝だよ」 「眠い。お前いると寝れねんだよ」 「ごめん。もう泊まらないから」 「当たり前だよ。日比野さんがこないうちに帰れ」 「うん」 彼は走る準備をして道場を出た。
彼がロードワークを終え部室に入ると。 「富士野さん。昨日は寝れました」 普段彼に話しかけない松井が彼に話しかけてきた。 「おい。失礼だぞ」 山岸がそういうと他の部員達が一斉ににやけた。 「もしかしてあいついるの?」 「いますよ」 「まじで? 帰れって言ったのに」 「富士野さん。相撲部の掟で道場に女連れ込んだ奴は監督のかわいがりなんですよ」 「マツ。そんな掟ないだろ」 「冗談だろ。山岸。でもお前君島さん可愛いって言ってたから。きょう富士野さんかわいがっちゃえば」 「富士野さん。おれはそんなことしませんから」 彼は二週間前に松井が喫煙を日比野に見つかったのを理由に日比野にかわいがりされ、全身泥だらけになり起き上がるのも困難な状態になったのを目撃しかわいがりの恐怖に怯え、かわいがりという言葉を聴くだけでゾッと背筋が凍るほどであった。 「そう、よかった。あいつにはもうくるなっていっとくよ」 そして、彼は急いでまわしをつけて道場へ向かった。 彼から見て日比野の右斜め後ろに彼女が化粧をして正座し座布団に座っていた。 挨拶をした彼は彼女を道場の外に連れ出した。 「おい。ふざけんなよお前帰れって言っただろ」 「私は帰るっていったんだけど。日比野さんが見ていけっていったから」 「お前がすぐ帰らないからだろ。お前のせいでこっちは迷惑してんの」 「雄心。何やってんだ」 彼女を大声で叱り付ける彼の声に反応し日比野が彼のもとへ走ってきた。 「なんすか?」 「俺が呼んだんだ許してやってくれ」 「でも、こいついつも日比野さんの愚痴ばっか言うし。相撲に興味ないっていってましたよ」 「いいんだよ。そんなの。行こうか佳代ちゃん」 「でも」 「あんな。女の腐ったような事を言うやつは放っておこう。中にもっといい男いるから」 戸惑う彼女は日比野についていった。 そして、道場に戻った彼はいつもの運動二つをこなしぶつかりをした。 「ほら。下か上に押せって」 まだまだ余計なところに力が入ってる押し方だが最初よりは様になっていた。 「どう? 彼氏かっこいい?」 「彼氏じゃないですけど。かっこいいです」 「バーン」 胸を出す山岸が彼を壁に強く叩きつけた。 「山岸。がい[ 角界の隠語で相手を完膚なきまでやっつける事を意味する]にするなよ」 「すいません」 「いいぞ。山岸」 「松井。なんで山岸応援してるんだ。またかわいがるか?」 松井が小声で言ったのを聞き逃さなかった日比野は松井を睨み付けた。 そして、ぶつかりが終わった。 「どうもありがとうございました」 道場をあとにした彼は部室へ向かった。 「富士野君」 彼女があとをつけてきた。 「なんだよ? 今しゃべりたくないから」 日比野に聞こえないよう小さな声で話した。 「一つだけ聞きたいの?」 「何?」 「後楽園行っていい?」 「どうせ。学長にチケット買わされたんだろ」 「今回は買わされたんじゃなくて買ったの」 「そうなんだ。では、会場でお会いしましょう」 彼は部室の扉を閉めた。
そして、試合当日。 前日軽量をパスした彼は減量苦による体調不良がなくこの日をむかえた。 「雄心。軽く勝ってこいや」 彼はジムの会長に無理を言って彼のためかどうかはわからないがセコンドライセンスを取得していた日比野をセコンドにつけた。 「富士野いくぞ」 ジムのトレーナーが彼をよんだ。 そして、彼は花道の奥で控えていた。 「雄心。道場訓を心の中で言え」 日比野はガウンの上から彼の肩を揉んでいた。 彼は目をつむり、それを言葉にせず唱えた。 「よし。行こうか」 ♪〜ダウンからカウント123456789までは悲しいかな神様の類に数えられてしまうものかもしれないだけどカウント10だけは自分の諦めが数えるものだ! 入場曲。竹原ピストルのカウント10で入場した彼は意気揚々と右拳をあげてそれをまわしながら歩いた。 彼は青コーナーに到着しトレーナーがリングロープあげて待つがそれを無視してロープに左手を置いてジャンプで飛び越えた。彼はそれを一度もしたことがなかった。 「富士野がんばれ」 彼の気合の入った入場に観客席から多くの歓声が飛んだ。 そして、もうすぐで試合がはじまろうとしていた。 「雄心力抜いて。入れるのは当たった瞬間だけ」 「はい」 「カン、カン」 日比野がリングからおりた。 「さあ。はじまりました。フェザー級一〇回戦です」 深夜に録画放送されるボクシング中継番組のアナウンサー清志が実況を始めた。 「左ぃ左ぃ左ぃ。左の三連打。先手は富士野でした。内藤さん。この富士野A級トーナメントの悪夢からの再起というかたちですが立ち上がりどう見ますか?」 「ガードの上だけどいいんじゃないですか。A級より体動いてるよ」 元WBC世界フライ級チャンピオン。現宮田ジム会長内藤大助は軽快な口調で語った。 「ホンの右ぃー。これは空を切りました」 彼とホンは一ラウンドというこでお互い様子みというかたちだった。 「ゆう。どうだ?」 日比野はロープ越しにイスに座る彼の後ろから耳もとに話しかけた。 「腰おろし効果でパンチ走ってますよ」 「そうだな。相手お前思ってるよりも左嫌がってるぞ左の上下やってみ」 「はい」 これを聞いていた彼のうがい補助を行うチーフセコンドであるトレーナーはお株を奪われた気分だった。 「カン、カン」 「二ラウンド目開始のゴングぅ。さあ。富士野どう攻めるか。左ボディー。左」 「富士野二つともあたったね。この打ちわけは有効よ」 内藤は自分のコメントに二回頷いた。 「そうですね内藤さん。さきほどの休憩時に富士野の耳元で元荒吹雪こと現飛翔大学相撲部監督日比野氏が富士野の耳元で何かささやいていましたがこの打ち分けを指示したのかもしれませんね? ホンの左フック。これはガードの上」 「すごいね相撲の人でしょ。でも相撲の人はそんな細かいアドバイスできないよ。トレーナーがしたんじゃないかなあ」 この「すごいね」は日比野を卑下する意味だ。 「レスリングもやってました。富士野左右ィ」 清志は内藤の日比野をばかにしたコメント全般と内藤の独特なはなし口調にイラッときて茶々を入れた。 「レスリングはずるいよ。相撲で有名になったひとじゃない」 茶々を察した内藤が反撃した。 「左をかわして右ぃー」 「富士野いいよ。当たってるよ」 二ラウンド目はパンチが当たり彼のラウンドになった。 そして、回が進み六回に入った。 「左ぃ左ぃ下の左。富士野三つ当てました」 「そうだね。相手嫌がってるよ」 ラウンドを落とし続けているホンは苛立ちを見せあきらかにパンチが大ぶりになった。 「左ぃ。ホンの左フック。おー。それを交わして右ぃ。富士野の右。連打連打左右の連打止まりません。アゴアゴアゴー」 清志は語気をしだいに強め最後の部分の音が割れてしまった。 「止まるよ」 「割って入ったレフェリーが手を交差。止まりました。富士野完勝」 「すごいね」 「富士野。すごい。A級の悪夢を自分の手で払拭しました」 「一二位もらったんでしょ」 「一一位ですね。ホンの世界ランク一一位を奪って世界ランカーになった富士野。この事でOPBF王者との指名試合を決めました」 OPBFでは二〇〇九年よりWBC世界ランク一五位以内の選手に指名試合の優先挑戦権を与える事になった。 「下馬評では富士野圧倒的不利の状況でしたが蓋を開けて見れば回を増すごとに左でホンを翻弄。そして撃破しました」 「上手いことかけたね」 「それでは、ホン選手を破りました富士野雄心選手です。富士野選手今の心境はどうですか?」 リング上で勝利者インタビューがはじまった。 「勝ったんだなって感じです」 「そうですか。次はOPBFタイトルマッチになりますが自信はありますか?」 「次タイトルマッチなの?」 「そうです」 「ああ。がんばります」 勝った喜びをしみじみとかんじる彼は観客には素っ気ない態度にうつった。 「おめでとうございました。富士野雄心選手でした」 彼は正面の学長をはじめとした飛翔大の職員で結成された応援団に向けて右手を突き出した。 「ゆう。いくぞ」 日比野がロープを上げて待っていた。 「日比野さん。ありがとうございました」 「何が? いいからはやくぐぐれ」 ロープをくぐり彼は花道をたくさんの拍手を浴びながら帰っていく。 「日比野さん。腹減りました」 「学長が勝ったら寿司連れてくっていってたぞ」 「まじすか。いいっすね。俺とろまぐろとろで攻めます」 「ばかだなお前は。デザートは佳代ちゃんか」 「あいつは。面倒くさいんでデザートになりませんよ」 「恥ずかしがるなよ。道場で夜な夜な稽古してるくせに」 「してませんよ」
メインの日本タイトルマッチが行われている最中の後楽園から出た彼と日比野は鏡が待つ飯田橋の老舗寿司店〈〉にタクシーで向かった。 「お前やるじゃん」 「正直わかりません。なんで勝てたのか。ぶつかりはちょと上手くなったと思いますけど。ボクシングが強くなってる実感はありません」 「そんな事考えるな。今日のリングの上での動きが全てだ。でも、まだまだだ。明日からもこいよ」 「はい」 「お客さん着いたよ」 二人はタクシーからおりてその店に入った。 「おう。来たか」 「おつかれさまです」 日比野と彼が声を揃えた。 「おつかれさま」 鏡の隣のカウンター席に腰掛けていた鏡の妻が彼に声を掛けた。 「ふたりとも座れよ」 「はい」 二人はカウンター席に腰掛けた。 「大将二人にいいネタ握ってやって」 「ゆう。とろまぐろ頼むか」 「えっ。とりあえずでてきたもの食べます」 二人はひそひそと話した。 「おい。なんだ。なんか食べたいものあんのか」 「いいえ」 試合終了時ははらぺこでしょうがなかった彼だが、寿司を十貫しか食べなかった。 「富士野。もう食べんのか?」 「こいつ。減量してたから胃がちっさくなってるんですよ」 「そうか。とし。お前は相変わらず食うよな。現役の時とかわんないんじゃないか」 「そんな食べてませんよ」 「あなた。富士野君もう帰してあげたら。つかれてんだから」 「そうだな。富士野君もう帰りな」 「はい」 「学長。俺送ってきます」 「お前も行くの? 大学の金つかいすぎてるから怒ろうと思ったんだけどまた今度でいいや」 「学長。勘弁してください。気を付けるんで」 「ほんとに気をつけろよ」 「はい。雄心立て。挨拶して帰るぞ」 二人は礼を言って店を出た。 「日比野さん。いくら貰ったんすか車代」 「お前がみろ」 彼は日比野から受け取った茶封筒の中の札を数えると十万円入っていた。 「日比野さん。電車で帰って半分にわけましょうよ」 「いらねえよとっておけ」 「ありがとうございます」 彼は臨時収入が入りウキウキで日比野がとめたタクシーに乗り帰宅した。
その一週間後の朝。 「おい。雄心相撲とってみっか」 「はい」 「坂本。入れ」 「はい」 彼と坂本は俵をまたぎ土俵の中に入りそれぞれの仕切り線のまえでそんきょをした。 「坂本。胸から行って。あとは普通にとれ」 「はい」 彼は以前から部員同士の稽古で一番力が劣る。坂本になら勝てると思っていた。 「雄心は思いっきりぶつかって下から上に押せ」 「はい」 そして、互いに仕切り手をついて立った。 彼は頭からぶつかっていったが胸からぶつかってくる坂本の圧力に負けてあっというまに押し出された。 「何、怖がってんの。お前ボクサーだろ?」 「怖いです。首痛いです」 「最初は誰でもそうなの。下から上に突き上げるようにぶつかれば怖くないから。やれ」 彼はこの後何番とっても立会いでの衝撃から生じる恐怖を克服できなかった。
そして、その恐怖と闘い二週間が経った。 日比野は予想以上に怖がる彼に数日前から対策を取った。 「雄心。今日もすぐ出たら。叩くからな」 その対策とは彼側の俵の外で日比野がたけぼうきを持って待ち構え一〇秒以上土俵にいないとそのほうきの枝を束ねている部分でお尻を叩くというものだ。体罰は高校野球、伝統のある大学スポーツ、体罰の本場相撲協会でもいくらそこに愛情があっても認められなくなっている時代なのに日比野はそれを断行した。 「はい」 彼のお尻全体にはその束状のみみずばれがくっきりとあった。 「おまえ。逃げまわるな。往生際が悪いぞ。坂本早く出せ。おし。でた」 「狩野。タイムは?」 「一〇秒二三です」 狩野は日比野の指示で彼が俵の外に出るまでのタイムを計った。 「ちくしょう。今度は二〇な」 「俺二〇は無理っすよ」 「ふしのさん。まわし直すからちょっと来て」 モンゴル人部員のダルゴドレン・カルヤン。通称ダルが彼を呼んだ。 彼はダルにお尻を向けて緩んだまわしを締め直してもらった。 「ふしのさん。目をつぶらない事だけ考えて。はい頑張って」 ダルは彼の耳元でささやいたあと締めたまわしの結びめをポンと叩いた。 そして、彼はぱっちりと目を開けて仕切り手をついて坂本にぶつかった。すると、 衝撃は感じたがさっきまであれほど怖かったものはそこにはなく二人は中央で止まった。 「ふしのさん。まわれ」 その声で彼は右から坂本のうしろにまわり込みまわしを取った。それをふりほどこうとした坂本の腰の位置が高くなった。彼はこれで一二〇キロある坂本の体が軽くなったことを体で感じ、そのまま寄り切った。 「そうだよ雄心。坂本次頭で行っていいぞ」 「はい」 坂本は日比野の指示に深く頷いた。 それぞれの仕切りに戻った二人はにらみ合いながら仕切り、手をついた。 「ゴーン」 二人は鈍い音を鳴らしてぶつかり合った。体重で勝る坂本が彼の両腕を両腕ではさみつけて徳俵まで押していく。しかし、そこに足が掛かった彼は坂本を右にいなして坂本の体勢を崩しそこを勝機と見て彼は坂本を土俵外まで押し出した。 「すごい。ふしのさん」 このあとは坂本の押しに屈する相撲もあった。しかし、それまでは坂本の一方的な相撲で終わってしまっていたのでこの日の彼の覚醒に日比野はじめ部員達は目を見張った。
この日の夜、彼は朝の坂本との申し合いで頭の中央部にたんこぶが出来たので部のアイス枕でそこを冷やしていた。 「ドン、ドン」 彼は扉の窓に彼女の姿が見えたので手でアイス枕を押さえた状態で布団に入り寝たふりをした。 布団に入った彼は彼女のことがほんの少しかわいそうになったのと最近女とは会話をしているがときめきのおこらない五〇オーバーの女性ばかりなので少しときめきが欲しいと思ったので彼女のもとへそれを押さえて向かった。 しかし、彼女はそこにいなかった。 あきらめの悪い彼は彼女を追って彼女の家の方向にある正門へ向かった。 「君島」 薄暗い道を一〇〇メートルほど走った彼は彼女らしき背中を見つけた。 「富士野君?」 彼女はうしろを振り向いた。 「お前。さっき来ただろ?」 彼は彼女に近づいた。 「行ったよ。でも富士野君寝たふりしたからあきらめたの」 「そうか」 「なんで。寝たふりしたの? 私の事なんかもう興味ない?」 「あっちで答えるから。来いよ」 彼は道場の方向に戻っていった。 そして、道場に着き、彼女を座敷にあげた。 「この間の試合はおめでとう。メールしようと思ったんだけど怒られると思ったから辞めた」 「そんなことでおこんねえよ」 「ねえ。頭どうしたの?」 彼女は座布団を彼に差し出した。 「稽古でたんこぶできた」 「痛い?」 「まあな。お前も座布団持ってきて座れよ」 「うん」 彼は畳に膝をついて座る彼女を気遣った。 「最近どう?」 「どうって。毎日稽古と練習してる。そうだ百万みる?」 「百万?」 彼はアイス枕を彼女に預けて枕元に置いてあったボストンバックから銀行の名前が書かれてる封筒を取り出し彼女に見せた。 「厚いね。ファイトマネーってそんなにもらえるんだね」 「違うよ賭けで勝ったんだよ」 「賭けって。まさか試合で?」 「そうだよ」 「この間は勝ったけど勝つかどうかわからなかったんじゃないの?」 「そうだけど。なんか賭けちゃったんだ。悪いんだけどさあこれお前の通帳で管理してくれない?」 「なんで?」 「俺の母さん勝手に俺の通帳を残高照会して、この振込みはなんだとか言って来るんだよね」 「まあ、そういうことならいいよ」 彼は座布団に正座して座る彼女にその封筒を渡した。 「お前さあ俺に惚れてんだろ」 彼女の隣にもどった彼は彼女の膝からアイス枕を取り頭を冷やした。 「何、急に」 彼はまっくらな室内だったが彼女のほっぺが赤くなったのを識別した。 「だってあんなに突き放したのに。来るってそういう事だろ」 「そうだけど」 「やっぱそうか。全てを俺に合わせるなら俺の女にしてやってもいいぞ」 「うん。合わせる」 「うん合わせるじゃなくて。まえみたいに噛み付いて来いよ」 「好きな人に噛み付けないよ。この前富士野君に恥じかかせてもう会いにいくの辞めにしようと思ったんだけど。富士野君の事好きな気持ちが抑えきれなくて来ちゃった」 「君島はやっぱかわいいな」 そのあと、二人は布団に入った。しかし、性行為はせずに少し会話すると眠った彼を見て彼女も眠った。
それから一ヵ月が経ち一一月の下旬になった。風が冷たくなって季節は秋から冬へと移行しようとしていた。また、彼のタイトルマッチが三ヶ月後に決まっていた。 その朝。 「おし。四股踏め」 彼は坂本との申しあいのあとすぐに行われるぶつかり稽古が終わり四股を踏み始めた。 「なんだよ。その四股はちゃんと踏まんかい。そんなの三股だよ。いやもっとひどいな。塩谷だな」 日比野が座敷から彼に歩み寄ってきた。 「塩谷って古くないすか。わかるの俺と日比野さんしかいないでしょ」 「塩谷はどうでもいいから。四股を踏めお前はしっかりと親指で地面つかまないからフラフラするんだよ。そんなんじゃ次負けるぞ」 次の相手はチャンピオンであるオーストラリアのウィリアム・シーパーだ。シーパーは左右のフックを得意パンチとする軽量級では珍しいハードパンチャーである。 「すいません」 「もっと腰下ろして腹にちからいれて」 日比野はシーパーへの対策を伝授することはなかった。 そして、この日の稽古が終わり彼は風呂に入り部室のテレビを見ていた。 この日は日曜で仕事もジム連もない。 「ふしのさん。このあとはデートですか?」 となりの席に座るダルが話しかけてきた。 「今日はしない。実家帰ってくつろぐ」 「しっかですか。いいですね」 ダルは悲しそうな顔をした。 「来る?」 彼は中々故郷に帰ることのできないダルのその表情を見て同情してしまった。 「いいんですか?」 「うん」 彼はダル共に家へと向かった。 「どうぞ。はいって」 家に着いた彼はダルを家の中に入れた。 「おしゃまします」 「おかえり」 母親が玄関に来た。 「母さん。ダル連れてきたよ」 「いらっしゃい」 「はしめましてダルゴドレン・カルヤンです。よろしくお願いします」 「はいこちらこそ。さああがって。あがって」 母親のあとをつけて彼らはリビングに入った。 「ダル君はなに飲む?」 彼らはリビングのソファーに腰掛けた。 「のみものはおちゃでいいです」 「俺コーラ」 「あんた。減量きつくなってきてんだからコーラやめたら」 「相撲はじめてから筋肉ついて代謝がよくなったからすぐリミットまで落とせるからいいの」 「はい。はい」 「ふしのさん。この川どこの国ですか?」 ダルは目の前のテーブルに置いてある杉澤が送ってきた釧路湿原の写真絵葉書を指差した。 「日本だよ。北海道の釧路にある川だよ」 「見ていいですか」 「いいよ」 ダルはそれを手に取った。 「はい。どうぞ」 母親が彼らの飲み物をそのテーブルに置いた。 「これ。モンゴルの川ににています」 「モンゴルって草原のイメージだけど川あるんだ」 「ありますよ」 母親がダルに話しかけた。 「母さん。買い物行きな。卵なくなるよ」 「モンゴルの話聞きたいけど。卵も大事だから行ってくるわ」 彼はそこに立ち止まってダルの話を聞く母親を邪魔に思い買い物に行かせた。 「お母さん。僕も行きます荷物もつの手伝います」 「ダルは行かなくていいの。せっかくの半休なんだから」 飛翔大相撲部の練習は休みがなく通常、朝と夜練習があり日曜だけは朝練のみになってる。 「そうよ」 母親がリビングから出て行った。 「ふしのさん。お母さん好きですか?」 「好きって」 「日本の人はお母さんのことあまり大切にしない人多い」 母親に素っ気無い態度を取る彼は十九歳のダルに説教された。 「大切にしてないわけじゃないど。確かに気も使ってないね」 「それだめ。モンゴルだったらお母さんみたいな年齢の人にあんまり仕事させない若い人が働きます」 「モンゴルと日本はちょっと違うからそれに俺だってちゃんと家に金いれてるから」 「ふしのさん。わたしそういう事言ってない。日本人ではお父さん。お母さんに愛のこころがたりないんだよ」 「たしかにそうだわ。気をつけるよ」 「わたしごめんなさい。としうえの人にこんな事いったらだめなのに」 「いいんだよ。ダルの考え正しいから」 「ありがとうございます」 このあと、彼はテレビをつけて、ダルの言葉にふてくされたわけではないがだんまりをきめこんだ。 「ふしのさん。これはなんてよみますか?」 しばらくして、ダルは絵葉書の宛名面のメッセージ欄を彼に見せた。 来日して四年、高校、大学で日本語の教育を受けているダルは標準語の会話なら支障なくできるが漢字の読みを難しいと感じている。 「雄心元気か? テレビ見たぞ。お前強いな。お願いがあるんだけどパンツにマジックで うちの会社の名前書いて試合やってくれ。杉澤。富士野さんこれ冗談なんで鵜呑みにしないで下さい。高野。富士野君頑張れ。橋本さき。意味わかった?」 「わかりました。応援してるんですよね」 「まあ。そうだよね」 「富士野さんはすごいです。ボクシング強いし。優しいしだからみんな応援してくれる」 「そんなことないよ。ダルの方が優しいし相撲も強いし」 「わたし弱いです。この前の試合負けた。決勝トーナメントいけなかった。でもますいは三位になった」 ダルの母国語モンゴル語の母音は日本語の母音にない母音があり発音しにくい音がある。 「個人は松井君だけいい成績だったけど団体で優勝したじゃん」 創部一年目の飛翔大は団体戦では一番下のクラスからスタートした。結果は東日本団体戦の三部リーグではその力の差を見せつけぶっちぎりの優勝、その入れ替え戦でも二部の下位チームを一蹴し二部への昇格を決めた、全国大会の団体Cクラスでも優勝した。ちなみに彼はそれらの大会にマネージャーとして帯同していた。 「団体戦の成績は当たり前です。ホントは個人戦優勝しなければならなかった。ひろってくれた日比野さんのため、奨学金もらっている大学のため」 「組み合わせがわるかったじゃん。負けた相手二位の人だったし」 「ふしのさんみたいな強いボクサーに言われたら腹が立ちます。勝負は負けたら終わり理由なんて関係ない。ふしのさんそれよくわかってるのにそんなのいうのはだめです。ふしのさん。わたしここに来た理由しってますか?」 「知らない」 「わたし高校から日本きた。ほんとは高校終わったらずっと夢だったプロ行くはずだった。でもわたしいじめられた大人助けただけったのに警察捕まってプロいけなくなってモンゴル帰れといわれた」 ダルは相撲留学先の高校卒業後に相撲部屋入門がきまっていた。しかし、卒業式一週間前にオヤジ狩りをしていた他校の高校生達からその男性を助けた際、その高校生の一人にあばら骨を折る怪我を負わせてしまった。普通なら正当防衛でダルは咎められなかったがその高校生達が口裏を合わせダルにやられたと被害届けを出しダルが捕まった。ダルは取調べで身の潔白を訴えたが信じてもらえず、ダルが助けた男性は骨折した高校生の親に金を渡されダルの無実を証明しなかった。幸い、初犯のダルは起訴されなかったが、相撲部屋の入門はながれモンゴルに帰ることになっていた。そこに日比野が声をかけダルの夢は首の皮一枚つながった。 「そうだったんだ。それでここにはいったんだね。俺と同じだ日比野さんに救われたんだ。だったら一回まけたくらいで弱気になってないであの監督を信じようよ」 「そうですね。ふしのさんはもちろんしんしてますよね?」 「ほうきで尻叩かれたり、勝てない相手と相撲とらされたり普通じゃ辞めてるけど信じてるからあそこで稽古してるんだよ。俺あの人に自分の人生預けたんだ」 「はい。私も監督にしんせい預けます」 その後、母親が帰宅して彼らは昼食を取った。昼食後はダルのモンゴル話に彼と母親は聞き入った。 「ゆう。モンゴルいきたいね」 「俺次の試合おわったら行ってこようかな」 「あの女の人とですか?」 「ダル君。あの女って誰?」 母親は間髪いれず聞いた。 「ダル。その事は言っちゃだめ」 「はい」 「いいじゃん。教えてくれてって減るもんじゃあるまいし。そうだ。ダル君夜も食べてくでしょ?」 「わたし東武練馬の友達の家いくんです」 「そうか。残念お父さんに会わせたかったのに」 「では帰ります」 「母さん。俺もいくわ」 彼は携帯の着信メールを見た。 「あんたはなんで行くの?」 「友達が角煮つくったっていうから飯いらない」 「友達じぁなくてその女でしょ?」 「ダル逃げるそ」 この日彼はダルと語り合い。それまでダルを外国人という事だけで避けていた自分を恥じた。 時代は大きく変わっているというのに人から人へと刷り込まれた偏見はいつになったら色あせ消え去るのだろうか。
二週間後。彼はジム練習を終えジムを出た。 「富士野さん」 「はい?」 ジムの前で待ち伏せしていた男が話しかけてきた。 「大東京テレビの清志と申すものです」 「どっかで見たことあるな思ったんですよ。いつもテレビで見てます」 「いいえ。この間のホン戦は素晴らしかったです。最高でした」 「ありがとうございます」 「あのう。今日は仕事ではなく食事に誘おうと思ってきたんですよ」 「食事ですか。俺このあといろいろやることあるんすよ」 「そうですか。残念です。また今度誘います」 「清志さん。うち来ませんか家ならいいですよ」 「いいんですか?」 「はい」 彼は清志を家に連れて行った。 「ただいま」 「おじゃまします」 彼らはリビングに入った。 「おかえり」 台所で調理をしていた母親がリビングに出てきた。 「こちら、ボクシング実況の清志さん」 「どうもお初にお目にかかります。大東京テレビアナウンス部主にスポーツ中継を担当している清志でございます」 「ご丁寧にありがとうございます。富士野の母でございます」 清志と母はお辞儀をし合った。 「雄心。お客さん来るなら五時までに連絡してくれないと」 「おやじのぶん出せよ。どうせ今日も飲みだろ」 「そうだけど」 「お母さん。僕が悪いんです。アポも取らず来たんで」 「そんな。頭上げてください」 清志が顔をあげると。 「清志さん。俺風呂入るんで先にやっちゃってください」 「雄心。後で入りなさい」 「無理」 彼は風呂場に向かった。 そして、彼が風呂から上がってきた。 「清志さん。赤いよ」 「なんせ。代謝がいいもんで」 清志は陽気になっていた。 「次期チャンプ早く座って」 「はい」 「俺はね富士野君が東日本獲ったときからこいつは絶対に来ると思ったよ」 このあと、清志は彼への熱い想いを日付が変わるまで語り彼は道場に行けなかった。 翌朝、彼は相撲の稽古をみたいと言った清志と共に大学へ向かった。
そして、年が二〇二一年に変わり。彼のジムでのトレーニングがスパーリング中心となった。 「富士野。スパーしてくれよ」 「次の相手ファイターなんでファイターとやりたいんですよ」 「そなこといわず。やろうぜ」 堂田が申し出てきた。 「まあ。いいっすよ。まだ時間あるんで」 堂田とのスパーが決まった。 そして、スパーが始まった。 「おし。富士野左からな。そう。当たったよ」 彼についたトレーナーが指示を出す。 「もう一発。そう。いいね。右も。そう。入ったぞ。ラッシュ、ラッシュ」 このあとも彼のパンチは当たり続け六ラウンドやるはずだったスパーが堂田が戦闘不能 になり三ラウンドで終わってしまった。 このあと、彼は相手を変えもう三ラウンドのスパーを行い、この日の練習を終了した。 「チャンプ。大丈夫ですか?」 ジム二階の事務所で静養してた堂田がおりて来た。 「大丈夫。軽い脳震盪だから」 「チャンプ。今日の続き明日やりましょうよ」 「明日は小沢ジムの一〇回戦とやるから。また今度な」 「富士野。いじめるな。お前の方が強いのはわかったんだから」 側にいたトレーナーが言った。 「ですって。あとはチャンプが次の防衛戦で負けて俺がチャンプになったらちゃんと敬語使ってくださいよ。チャンプ」 二人は同時期に同じ年齢でこのジムに入門した。当初は高校ボクシングの全国大会で優勝経験を持つ堂田が彼の先をいき、二年前。先にチャピオンになった。その際、堂田が「いくら同期でもチャンピオンとノーランカーじゃ天と地の差だ。俺に敬語使えよ」と言い出し、それ以来、彼は堂田に卑下され続けてきた。
彼の試合が近くなってきた一月下旬。この日の東京は前夜の大雪でアスファルトがツルツル路面になっていた。 そんな日の朝。 「あれっ今日。日比野さん来てないね」 彼はまわしを締め道場に行くとそこには日比野姿がなかった。 「今日は休みだよ。このツルツル路面で車出せないんだろ」 「マツ。それでもやるんだよ」 「山岸。硬いこというなよ」 「監督きました」 自称視力が八・〇のダルだけが日比野姿を見つけた。 「し転車乗ってます。でもタイヤついてない」 「タイヤついてなかったらのれないだろ。あっほんとだ」 松井が目を点にした。 そしてしばらくして日比野が道場の前に自転車を停め道場に入ってきた。 「おう」 「おはようございます」 「日比野さん。その自転車どうしたんですか」 「あれか。駅の前に落ちてたぞ。懐かしいから乗っちゃったよ」 「でも危ないですよ」 「危ないけどツルツル路面といったらホイール走行だろ。でもなタイヤよりは滑んないぞ。氷にざくっと入るから。それに鹿乗り名人の掛川先輩はこれで強靭なバラス感覚を養ったんだ」 その後、北海道出身の日比野は自分の中学生時分の話を延々と彼らに話してこの日の稽古は終了した。
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