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作品名:コシヌケ 作者:札中A斬

第1回   1
エゾハルゼミがうるさく鳴く季節の釧路湿原。
 あたりが真っ暗になった湿原をゆったりと蛇行しながら流れる川――。
「あれ人じゃないですか?」
 ツワーの後片付けをしていたカヌー業者の男の一人がふと上流部を眺めると月あかりに照らされた人のような物体を発見した。
「そうだな」  
 その男の上司が答えた。
「杉さん。そうだなって。早く助けなきゃ」
「もう死んでるよ。流しとけ」
「そんなこと言っていいんですか?レスキュー3[ アメリカ合衆国に本部を置く、緊急救助活動に関わる民間団体の名称である。特に急流救助に完成度の高いシステムを構築しており 。日本にも支部が置かれ講習活動を展開し、多く の急流救助専門員を育成している。]持ってる人が」
「わかったよ。めんどくさいけどやるか。とりあえず、消防呼べ」
「はい」
 その男は携帯電話を取り出し消防署に通報した。
「あれは完全に意識無いな。バック[ スロー・バッグといい。円柱形バックの中から水に浮くロープの先端を取り出しその先端をしっかりと握り、バックを漂流者に向かってアンダースローで投げて使用する。]は無理だ。フローティングロープ持ってこい」
 上司はその男に指示を出し、車に積んでいたライフジャケットを着用した。そして、車を止めていた土手の上からおりて川に近づいていった。
「三〇でいいですよね?」
 車から遠ざかっていく上司にその男が叫んだ。
「ばか。川幅一五なのになんで三〇なんだよ。対岸に張るときは川幅の三倍以上っていつもいってるだろ」
 上司は立ち止まって後ろを向きその男を叱り付けた。
「すいません。四六のロープでした」
 上司に怒られ、その男は浮かない顔をして車の後ろにまわった。
「おい。早くしろ。仏さん。流れちまうぞ」
 川瀬の前に到着した上司は後ろを振り向きその男をせかした。
「はい」
 その男は急いでそのロープを手にして「うるせえ。杉澤。こんな状況いつもあるわけねえだろ」と小さく呟き、上司のもとに駆けつけた。
「お前。ライフジャケットは?」
「忘れました」
「お前。俺に泳がすきか?」
「だって。杉さんがジャケット着ていったから」
「しょうがねえな」
「早くつなげ」
 その男は上司のラフジャケットにロープを連結させた。
「はい。つなぎましたよ」
「お前ちゃんと結んだか」
「はい。杉さん。早く行かないともうきちゃいますよ」
「うるせいこの。年寄り酷使しやがって」
 四〇代前半のその上司がその男に背を向け対岸に向かっていった。
「あーさみぃ」
 ドライスーツを着用している上司は膝まで水が浸かった所で泳ぎ始めた。
「がんばれ。くそじじい」
 その男は近くにあった。地元では猫柳と呼ばれている木にロープをくくりつけ、川の方に目を向けると必死に泳ぐ上司に罵声を浴びせた。
 上司は川の上流に対して斜めに体を向けて泳ぎ対岸に渡った。そして、岸に上がると直ぐにライフジャケットに連結していたロープを外し猫柳に結びつけた。そのロープも川の上流に対して斜めに張られていた。
 しばらくして、その漂流者がそのロープに引っ掛かった。漂流者は水圧によってその男が待つ岸へとスライドしていった。
 それを見た上司は岸から降りてその男の方向に向かって川の中を歩き出し、水が腰の辺りにきたところでそのロープをわきの下に入れ足を下流に向け放り出してその方向に流されていった。
「杉さん。どうすればいいですか?」
「なんかしろ」
 流れ着いた漂流者を抱きかかえたその男は応急処置の仕方がわからず、流れている上司に尋ねたが上司からの指示はざっくりとし過ぎたものだったので慌てふためいた。
「ああ。楽しかった」
「杉さん。助けてください」
「なにてんぱってんだよ」
「すいません」
「ウー、ウー」
 川からあがった上司がその男のもとに歩み寄ってきたがその男に助言をせず瀕死の漂流者の処置にもあたらなかった。すると、その男の耳にレスキュー車の到着を知らせるサイレンが聞こえた。
「高野。ねせとけ」
「でも」
「でもじゃねえ。あとはプロにまかせろ」
「はい」
 その男は上司の指示で漂流者を湿原の上に寝かせた。
「杉澤さん」
 土手の上からそこへ駆け寄ってくるレスキュー隊の隊員の一人がその上司の名前を呼んだ。
「おせえぞ。早くしないと。しんじゃうよ」
「そんなこといわないで下さいよ。署から距離があるんだから」
 その上司は駆けつけたその隊員にいやみったらしく言った。
「意識はありませんがは呼吸はあります。水はあまり飲んでないです」
「了解」
 その隊員は少し遅れて駆けつけた担架を二人で持つ男性救急救命士達に漂流者の呼吸や顔色などの観察結果を報告した。それを聞いた救命救急士達は漂流者を担架にのせてレスキュー車のうしろに停めた救急車に運んだ。
 このような場面ではやたらに水を吐き出させたり人工呼吸や心臓マッサージをすればいいというもなではなかった。ふざけた言動の多いその上司はこれを熟知していた。

「あっ」
 病院に向かっている救急車の担架に横たわった漂流者が目を覚ました。
「意識回復しまた」
「了解」
 彼の側にいた救命士が運転中の救命士に顔を向け報告をした。
「あのう。おれ、記憶がないんです」
「大丈夫ですよ。次期に戻って来るんで。自分の名前は覚えていますか?」
「富士野雄心です」
「としは?」
「二七です」
「今日の日付は?」
「二〇二〇年七月二日です」
 この後もその救命士は彼に現住所、職業などを尋ねた。記憶が無いと言った彼はそれらの質問を全て正確に答えた。
「へえー。東京で働いてるんだ。これだけ答えられれば問題はありませんよ」
「その記憶はあるんですけど。崖から落ちてそっから記憶が無いんです」
「崖から落ちちゃったの?」
「そうです」
「ホントは自殺しようとしたんじゃないの?」
「違います」
 彼は上半身を起こし語気を強めベンチに座っている救命士にそう言った。
「わかりました。そういうことにするんで」
「そういうことってなんですか?」
「松本。そんな口の利き方教えたか?」
 運転手が彼に疑いをかけたその救命士を一喝した。
「すいません」
「富士野さんがそういってるんだからそうなんだよ」

 そして、その車は三〇分程で釧路市夜間急病センターに到着し、彼はその二人によって診療室に運ばれた。
「富士野さん。まずこれを着てください」
 びちょ濡れだった彼の服はあの救命士によって脱がされ彼の体は毛布にくるめられていた。
 それをあらかじめ知っていた女性医師は入院着を彼に差し出した。
「すいません」
 彼はそれを受け取りその場で毛布を外しそれに着替え始めた。その時、彼の顔には恥じらいの色が見えた。
「富士野さん。上じゃなくてとりあえず下を着てください」
「はい」
 彼は女医の指摘に更に恥じらいの色が濃くなった。
「容態はどうですか?」
 女医はものをあらわにする彼に平然と話しかけた。
「耳に入った水がまだ少し残ってるぐらいで他は大丈夫だと思います」
「そうですか? では診察始めるんでイスに腰掛けてください」
「はい」
 じかに入院着のズボンをはいた彼が女医の目の前に置いてある丸イスに腰掛けた。
 そして、診察が開始された。
 診察は胸の音を聞くなどの体の様子を見るものだけだった。
 その後、彼は女性看護士に病室に案内された。
「富士野さん。何かあったらブザーで知らせてください。では失礼します」
 病室に着き、看護士はそういって病室をあとにした。
 彼はスースーとする股間をズボンの上から触りながらベットの入った。

 翌日。
 彼は朝食を終えて窓の方をボーっと眺めていた。
 その窓からは道路を挟んだ学校の校庭で体育の授業を受ける小学生達の姿が見えた。
 すると。
「雄心」
 ほのぼのとしていた彼はその声に驚き入り口の方に顔を向けた。
「あんた。なんてバカなことしたの」
「お前。大声出すな」
 開いているドアから中に彼の母親、そのうしろにくっついて父親が入って来た。
「ごめん。母さん」
 父親が廊下の様子をうかがってからドアを閉めた。
「ごめんじゃないよ。あんた。親より先に死のうとするなんて」
「お前。雄心は事故で川に落ちたって電話で言われたただろ」
「あなた。そんなわけないでしょ。この子は試合に負けて死のうとしたのよ。そうでしょ?」
 母親は顔をせわしなく動かした。
「……」
「いきなりそんなこときくな。時が経ったら話してくれから」
「ごめんなさい。つい興奮しちゃって」
「雄心。看護士さんがもう退院していいって言ってたから荷物まとめろ」
「うん」
「病院でたら助けてくれたカヌー業者さんと救急隊員さんたちにお礼しに行くぞ」
「わかったよ」
 まとめる荷物のない彼は母親がボストンバックに詰めて持ってきた衣類に着替え病室をあとにした。
 そして、彼は退院手続きを済ませ病院を出た。そこからは父親が空港で借りたレンタカーに乗り込み、父親の運転であのカヌー業者達がいるアウトドアツアー会社に向かった。
 
「雄心。川が見えてきたよ。釧路湿原久しぶりですね。あなた」
「そうだな。オヤジが死んでから釧路には墓参りだけして帰るっていう感じだったもんな」
「あなた。あそこじゃない。釧路川ネイチャーセンターって書いているから」
「そうだな」
 カーナビを駆使し四十分ほどでそこに着いた。
 その会社は湿原がすぐそこに見える二本松駅の斜向かえにあった。
 その駅の駐車場に車を停め彼らはその会社に向かった。
「すいません」
 母親がアルミサッシの玄関扉をガラッと開けるとカランコロン、カランコロンと鐘が鳴った。
「はーい」
 玄関から入ってすぐの受付カウンター奥にある事務所の扉が開き人が出てきた。
 その人物は流されている彼を発見した。高野だった。
「あのう。杉澤さんはいらっしゃいますか。昨日助けてもらった。富士野といえばわかると思うんですけど」
「ああ。昨日の。僕もいたんですよ」
「そうですか。この度は息子が大変ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
 深深とお辞儀をする二人のうしろいた彼は軽く頭を下げた。
「いいえ。助かってよかったです。今呼んできますね」
「お願いします」
 彼の両親は再びお辞儀をした。
 高野が事務所に戻りしばらくして、事務所の扉が開き、高野、杉澤の順でそこから出てきた。
「おう」
 杉澤が彼に向けて左手を上げた。それを受け彼は初対面の杉澤に会釈した。
「富士野君だっけ?」
「そうです」
「雄心。まずはお礼」
 父親がうしろにいる彼をチラッと見た。
「すいませんでした」
 彼は再び杉澤に会釈した。
「雄心。もっと感謝を込めてしないとダメだぞ。もう一回しろ」
「おとうさん。気持ちは伝わったんでもういいですよ」
「すいません。無愛想な息子で。杉澤さん。この度は本当にありがとうございました」
 両親は深深とお辞儀し、彼もそれを真似した。
「雄心。前に来い」
 父親はお辞儀しながら彼に目線を配り小声で言った。
 すると、彼はその姿勢で左足から小刻みに三歩前進した。
「顔を上げて下さいよ」
 彼は上目遣いで父親の顔が上がってく様子を観察し、顔が完全に上がったのを見て自分の顔をパッと上げた。
「富士野君。東京のラーメン屋で働いてるんだろ。日向から聞いたよ」
「あのう。今は働いてないです。無職っていうのが恥ずかしかったんです」
「そうか。そうだよな。自分に合った仕事見つかるといいな」
「杉澤さん。俺ボクサーなんです。もう辞めようと思ってるんですけど」
 彼は両親の間をすり抜けて両親の前に出た。
「そうなんだ」
「一週間前に最強後楽園ていうのがあってそれで優勝したらチャンピオンに挑戦できるんですよ。俺決勝までいったんですけどダメでした」
「俺はボクシングの事はよくわからないけど。決勝までいくならたいしたもんですよね」
 杉澤は彼の母親に視線を合わせ同意を求めたが母親は浮かない表情で軽く頷くだけだった。
「普通に負けたら納得いったんですけど。三ラウンドに偶然のバッティングで右まぶたパックリいっちって引き分けということになって規定で相手が勝者になっちゃったんです」
「その傷は昨日のじゃなくて試合のなんだ。昨日の傷にしてはやけにきれいにふさがってんなと思ったよ。それと気になったんだけど、それまでのラウンドの採点はされないのか」
「四ラウンドが成立しないとジャジは無効なんです。ジャッジがあったら勝ってましたよ。左が面白いように当たってたしダウンも奪ったんで」
「実力があるなら辞めないでまだ続けたら。まあ俺がこんな事いう資格ないけど」
「これにかけていたんです。それでバイトやめて練習量増やして最高の状態で臨んでこのアンラッキーな結果なんです。これはもう辞めろって事ですよね」
「富士野君。それはただの思い込みだ。絶対後悔するよ。その夢にしがみついてしがみついてまわりから往生際悪いよといわれてもしがみつく。そうじゃないと叶わないと思うよ。潔く辞めるなんて考えないほうがいい。すいません。出過ぎた事を言いました」
 杉澤は両親に会釈をした。
「杉澤さん。とりあえず帰ってからじっくり考えてみます」
「うん」
 杉澤は大きく頷いた。
「そうだ。二本松のところにボストンバック置いてたでしょ?」
 二本松展望地の丘は釧路湿原の有名な観光名所であり絶好の自殺スポットでもある。
「はい」
「財布の中に富士野君の免許証はいってたからわかったんだ。金は三万二千円入ってたけど。減ってないよね?」
「減ってません」
「よかった。あの辺は朝から観光客やらカメラマンがうろつくから。金取られていないか心配してたんだよ」
「ありがとうございました」
「他のカードと小銭は見てないから。あとで見てね」
「はい」
「ドン、ドン」
 入り口の方から扉を叩く音が聞こえると富士野家全員がそちらの方向に目を向けた。
「無視でいいですよ。あんな奴」
「杉さんひどいよ」
 その人物が扉を開けて中へ入って来た。それは昨日の救急救命士の日向だった。
「日向遅いよ。たいした仕事してないのにいつまでも寝てんじゃねえよ」
「それをいわないでよ。俺らが忙くないのはなによりって事なんだから。ねえ?」
「はい」
 日向の問いかけに隣にいた母親は深く頷いた。
「日向。気安く初対面の人に話しかけるな」
「べつに話しかけるぐらいいいよな。富士野君」
「はあ」
「雄心。はあ。じゃなくてありがとうございましただろ」
「ありがとうございました」
「息子を救ってくれて本当にありがとうございました」
 父親の感謝を込めた言葉のあとに他の家族達は日向に深深と頭を下げた。
「どうか頭上げてください。息子さんを救ったのは杉澤さんですから。杉さんの迅速な救助のおかげですよ」
「ずいぶん褒めるね」
「あんまり褒めたくないけど。昨日はほんとに杉さんみたくパッと動ける人じゃないと富士野君はだいぶ下の方まで流されていたよ。杉さんの川のレスキュー技術はうちのレスキュー隊員とおなじくらいかそれより上だから」
「日向。おまえヤマメの穴場おしえてほしいからヨイショしてるな」
「そんなんじゃないよ」
 日向は杉澤のもとに歩み寄りその右肩をポン、ポンと叩いた。
「おい。杉澤さんと日向さんに渡さないと」
「はい。わかりました」
 父親の催促で母親が肘にさげていたハンドバックから包装紙に包まれた商品券を取り出した。
「杉澤さん。これ。たいしたものではありませんが使ってください」
 母親は杉澤に近いてそれを渡そうとした。
「奥さん。気を使わないでください。川遊びでご飯をたべさせてもらっているものとして当然のことをしたまでですから」
「ゴホッ」
 高野が咳払いをした。
「そんなこといわないでもらってください」
 母親は困った顔をして杉澤を見つめた。
「そうですか。では。ありがたくいただきます」
 杉澤はそれを申し訳なそうに受け取ったあと左斜め後ろにいる高野を睨みつけた。
 一方、母親は再びバックの中から商品券を取り出し日向の方を向いた。
「奥さん。僕は公務員なんで結構です」
「でも……」
「日向。うちの会社に寄付してくれ」
「それは嫌だ。だって杉さんの酒代になるだけでしょ」
「まあ。そうだな。気持ちなんだからもらっとけよ。嫁さんに使ってもらえば問題ないだろ」
「それでも問題になるんだけど。杉さんと高野君が黙ってくれるなら受け取るよ」
「わかったから頂きなさい」
 日向はそれを渋々受け取った。
「ヨシ。高野。携帯で撮って写メを消防署に送れ」
「杉さん。富士野さん達がいるんだから今日はそういうの止めてくださいよ」
「すいません。冗談です。公務員を目の敵にしろというのが祖父の遺言でして」
「高野。このバカ社長どうにかしろ」
「日向さんがどうにかしてくださいよ」
「どうもすみませんでした。ここまで終わらないと我々の茶番は幕が下りないもんで。ところでこれからの予定はどうなってるんですか?」
「夜の飛行機で帰るということしか決まってません」
 杉澤の問いに目が点になった富士野家を代表して父親が答えた。
「カヌー乗りませんか?」
「杉さん。不謹慎ですよ」
「お前は黙ってろ」
 彼に気を使った高野が一喝された。
「雄心どうする?」 
「乗りたい」
 彼は父親の方を振り返って答えた。
「そうだな。湿原は何回も来てるけどカヌーは乗った事ないもんな。いいだろ?」
「私はいいですけど。雄心の身体が」
「俺はなんともないよ」
「じゃあ決まりですね」
「はい」
 父親が返事をした。
「高野。俺と日向でガイドするから。車ゴールにまわせよ」
「はい。そいうことならさきさんも怒らないと思うんで」
「奥さんですか?」
「私はバツのついていない独身です。さきというのは怖いバイトの姉さんです」
「こいつ俺と同じ四十なのに独り身ってバカですよね?」
 回答を求められたその家族は苦笑いでその回答を回避した。
「日向。中の下の嫁と鼻水を常にたらしてるガキがいるからって自慢するな」
「妻と子供の事は言うな。それに三歳児は鼻水を垂れ流すのが仕事みたいなもんなんだよ」
「ガラ、ガラッ」
 事務所の扉が開いた。
「そこのおじさんたち。早く川に行きなさい。それから社長。屈斜路ウォーターさんのヘルプでインディアン四隻積んで上流部に二時まで行ってください。朝も言ったんですけど。社長は大変頭が良過ぎてこの間の冒険クラブさんのヘルプをそこの公務員さんと釣りをしててすっぽかしそうになったので一応言っておきました」
「あの時のさきさん怖かったですもんね。杉さんのお尻を木のバドルでフルスイングしましたからね」
「高ちゃん。そういうことはおぼえるのね。あなたはそんな事より森の散歩のルートをおぼえなさい。お客さん連れて迷子になったガイドなんて前代未聞の事だよって他の会社の人に言われてるんだから。今度迷ったらクビにするわよ」
「さき。そういう社外秘はあんまり人前で話したら駄目だぞ」
「見せしめにちょうどいいでしょ」
「すいませんでした。橋本さん」
「わかればいいんだよ高ちゃん。すみませんね。私を除いてこんなおばかだけしかいませんがゆっくり楽しんで来てくださいね。では私はこれで」
 橋本はその家族に対しては杉澤達の時のような強い口調ではなく物腰の柔らかい話し口調であった。その家族は橋本の口調に呆気に取られていた。
「さあ。台風が去ったところで行きましょうか」
「そんなこと言ったらまた台風来ますよ」
 高野はニヤついて杉澤の耳元で呟いた。
「そうだな。気をつけるわ。そうだ。トレーラー連結させてるよな?」
「させてますよ」
「そうか。じゃあ俺、車前にまわすからジャケットの合わしやっちゃって」
「はい」
 そして、その家族とガイドたちは運転席のドアにその会社の名前が書かれたハイエースに乗り込みスタート地点に向かった。
 車は釧路湿原を見渡せる道を十分ほどはしり、スタート地点についた。
「高野。三人乗りと二人乗りな」
「はい」
 車のエンジンが止まると運転手をしていた高野が車から降りトレーラーに駆け寄っていった。
「じゃあ。私達も降りましょう」
 そのあと、高野がせっせとカヌーを川にセッティングした甲斐があって到着五分ほどでいつでも出発できる状態になった。
「簡単に漕ぎ方のレクチャーをするので少しお耳をお貸しください」
 そのカヌーのもとで杉澤は仕事モードの爽やかな口調を使い漕ぎ方や万が一落ちたときの対処方法を語った。
「さあ。いきましょうか。富士野さんと奥さんは青いカヌーで日向と。富士野君は俺と赤いカヌーね」
 そこに向かうその家族達の表情はとても晴れやかだった。
「富士野さん。そいつ。公務員ですけどうちの高野より漕ぐ技術ありますから心配しないで下さい」
 そして、彼らはそれぞれのカヌーに乗り込み緩やかな川の流れにのってスタートした。
「杉さん。いつもはまだまだだとかいうのに。急にどうしたの?」
「勘違いするな。お前を褒めてるんじゃない。ゲストを安心させてるだけだ」
「そうか」
「そうかじゃないぞ転覆させたら署長に商品券の事言うからな」
「おまえふざけんなよ」
「おまえもな。じゃあ。俺がリードするからついてこい」
 漕ぎ始めて十分。そのカヌーの前にのってる彼は雄大な自然の空気と鳥たちのさえずりに癒されていた。
「風つよいですけどきもちいいですね」
「昨日とは違った気分かい?」
「そうですね。昨日は飛び込んでからの記憶が無いので風は感じられませんでした」
「そうかい。話は変わるんだけどスポーツマンの二七って結構いい年だよな?」
「そうですね」
「二八の時に諦めた。俺は」
「杉澤さんもなんかやっていたんですか?」
「競技カヌーをやってた。競技カヌーって知ってる?」
「なんとなく見たことはあるんですけど。詳しくは知りません」
「このカヌーじゃなくて。スルメイカみたい奴に乗ってタイムを競うんだよ」
「スルメイカですか?」
「あんま伝わってないな。まあ、俺はそれでオリンピックにでる事が夢だったんだ。その時のオリンピック選考会で負けた瞬間、それまでは辞める事なんて考えていなかったけどこの辺で辞めないとちゃんとした就職口につけないじゃないかとか思って一気に辞める方向に向かったんだ。それに同世代で仕事も順調、子供もいますなんて聞いたら夢ってなんだろうってなっちゃうんだよな」
「そうですね」
「だけど、俺は辞めてめちゃくちゃ後悔したな。次のオリンピックに俺より遅かった後輩が出た時。あいつでも行けんならもし辞めてなかったら俺が行ってたんじゃないかって」
「俺の場合はボクシングを辞める後悔はないですけど。あの試合が終わってから高いところから突き落とされたみたいで何かをやろうっていう気持ちが起きないんですよ」
 杉澤は舵をとりながらフーと大きく息を下に向かって吐いた。
「飛び降りる時怖かったか?」
「えっ。それはすごい怖かったです。なんか体中が死にたくないって言ってるみたいで特に胃が尋常じゃない動きをして動いてました」
「怖いらしいな。その怖さに打ち勝っても死ねなかったてお前はとことんアンラッキーなやつだな」
「そういう星に生まれたんですかね?」
「アンラッキーの星か。それもそれで結構じゃないか。そのおかげで父さん母さんが年甲斐も無くああやって笑ってるんだから」
「そうですね」
 はしゃぐ両親の声が川と湿原に生息する木々に反響し響き渡っていた。
「なんか。話がいろんなところに行ってわけわかんなくなったな」
「はい」
 この後、漫談で客を満足させるのが売りの杉澤は彼に一言もしゃべりかけなかった。

 そして、一時間のカヌーツーリングが終わった。
「富士野君。どうでした? 気持ちが晴れましたか?」
「そうですね。少しは」
 ゴール地点に車をまわし彼らを待っていた高野が彼の乗ったカヌーのもとに駆け寄って来た。
「何だその感性は。それでもカヌーイストか。今日は風が強くて風浪が立ちまるで海をツーリングしてる感じではなかったですか? とかシャレたこといえねえのか」
「すいません」
「そんなことで怒るなよ。杉さんはホントかんしゃく持ちなんだから」
「うるせえ日向」
 杉澤のお説教から逃れた高野はカヌーの撤収作業に入った。
「さあ。いきましょうか」
 詰め込みが終わり車は動き出した。
 その会社までの帰り道で後部座席の両親は日頃都会では決して出来ない経験に満足した様子だったがその真ん中に座った彼はどこか浮かない表情をしていた。
 そして、車がその会社の前に着き、家族と日向が車から降り、杉澤が乗ってる助手席のほうに集合した。
「私はこのまま現場に向かうのでここで失礼します」
 先ほどから全開にあいてる窓から杉澤が家族達にわかれを告げた。
「すいません。今日はありがとうございました。お代は事務の方に払ってかえりますので」
「お代はもうもらったので」
 杉澤は先ほどの商品券が入ってるアウトドアべストの左胸を二回叩いた。
「それはお礼なので」
「奥さん。やつはああいうやつなんで」
 日向は言った。
「では、お言葉に甘えて」
 母親は自分達を満足させてくれた杉澤達にその見かえりを渡すことが出来ず申し訳なさそうにしていた。
「おい。雄心。万が一ボクシング辞めて何もすることなかったらここに来い。悪いようにはしないから」
「はい」
「じゃあな。お父さんたちもさようなら。不良公務員は警察に自首しなさい」
「いいからはやくいけよ。さきが怒るぞ」
「そうだな。おい、出せ」
 杉澤は顔を高野の方に向けた。
 そして、車が動き出した。

 それから三日後。
 仕事もせず、練習もせず家に引きこもっていた彼はジムの会長から彼の前の試合のチケットを大口購入してくれた彼の出身大学の学長のもとに出向くように言われていたのを思い出したのでそこに行くことにした。
 彼はスーツを着用して母親に持たされた北海道の有名なクッキー菓子を手にさげ家をあとにし、電車に揺られること十分ほどでその大学の最寄の駅についた。その大学は一応、二三区内なのだがすぐそこは埼玉である。
 そして、五年前に通った道を懐かしく感じ歩く事五分。その大学の正門についた。
 時刻は三時。休憩時間なのかはわからないが前庭にはやたら学生達がいた。どうせ夜の合コンの段取りでもはなしているのだろう。
 彼はそいつらの群れをすり抜けて校内に入った。
 彼の目的地は学長室なのだが、彼は在学中にそこへ行く機会がなかったので入り口付近にあった案内板でその位置を確認しそこへ向かった。
 少し迷って学長室の前に着くと彼は入り口の前で立ち止まり挨拶の確認を頭の中で行った。
 彼の実直さがうかがえる場面だが彼は実直な青年ではなくただの心配性でこれを行っただけだ。
「コン、コン、コン」
「はい。どうぞ」
 彼はドアを開けて入室した。
「先日は沢山のチケットを買っていただきありがとうございました」
「おう。富士野君。なんだよ。そんなによそよそしくして」
「いやあ。こういうあいさつはきっちりとしないといけないんで」
「そうだよね。まあとりあえず座ってよ」
「はい」
 彼は学長の鏡に黒革のソファーに腰掛けるよう促された。
 その部屋のソファー配置は部屋の中央部にテーブルを挟んで二脚のソファーが対面に置かれている。
 鏡は学長机に置いてある電話の受話器を手に取りダイヤルを押した。
「あー。誰?」
「君島君か。お茶頼むわ」
「そう。ふたつ」
 鏡は受話器を戻した。
「どうしたの座って?」
 彼はどちらのソファーにすわっていいかわからないので鏡が座ろうとした方のソファーと反対側にすわろうとしたが失敗した。なので彼は意を決し彼から向かって右側のソファーの真ん中に座った。
 彼の勘はまちがっていなかった。奇跡的に下座のソファーに座った。だが、正解か間違いかはわからないままだったので彼の胃と心臓が過剰に動いていた。
「この間は残念だったね。ダウンも奪ったのに。それにあれは絶対に偶然じゃないよ」
 鏡がそれに触れることなく座り。かつ不快な表情を浮かべずに彼の試合を語ったので彼は胸を撫で下ろし、目線が鏡から外れないように息を下にフーと大きく吐いた。
「自分では偶然だと感じました。あっこれ」
 彼はその事で頭が一杯で手土産を渡す事を忘れ、それに気がついた彼はとっさにその土産を鏡に差し出した。
「あっ。ありがとう。私はこれ大好きなんだよ。あとでいただくよ。この時期の北海道は涼しかったでしょ?」
「はい。でも旅行じゃなくて祖父の墓参りなんです」
「そうか。できればチャンピオンの報告をしたかったな。でも日本チャンプに兆戦するチャンスはなくなったわけじゃないから。がんばってね。富士野君の頑張りしだいではうちにボクシング部をつくろうかと思っているんだよ。その時の監督はもちろん君だ」
 大学入学時にボクシングをはじめようと思った彼はこの大学にボクシング部が無いので仕方なく家から自転車で一分の今の所属ジムの門を叩いた。以来、イカルガジムで練習に励んできた。
「はい」
 鏡の計画を聞いた彼は目を点にした。
「発破を掛けるようで悪いんだけど私は幼少期の白井義男からはじまってファイティンググ原田、それからもうそれは多くの日本人世界チャンピオンの試合に胸躍らせたんだよ。最近はもう辞めちゃったんだけど内山高志は気持ちいいボクシングしたよね」
「内山さんはすごかったですね」
「ああ。そうだ。日比野くんが君と話したいっていってたよ」
「日比野さんってだれでしたっけ」
「荒吹雪。会った事あるだろ?」
 彼はその人物にOB会で話しかけられた事がある。
「荒吹雪さんのことですか」
「彼の引退にあわせて今年相撲部つくったんだよ。土俵もつくったんだよ」
「そうですか」
 日比野政志こと荒吹雪駿豊はこの大学のOBで在学中はレスリング部に所属し。フリースタイル九六キロ級でオリンピックの銅メダルを獲得している。卒業後は実業団に入り次のオリンピックで金メダルを目指すものと思われたが日比野の意向で相撲部屋に入門にした。入門後は持ち前のスピードを生かした押しや出し投げを武器に二年で十両、その後二場所で入幕した。最高位は関脇で幕内最高優勝を一回経験して八年の土俵人生に幕を閉じた。引退後は部屋付き親方の道を薦められたが、協会の依然として変わらない殿様体質に将来性がないと思い、協会に残るのを辞めてこの大学の初代相撲部監督に就任した。
「だから日比野と話したついでに土俵を見てくるといいよ」
「はい。今の時間は日比野さんどこにいるんですか?」
「そうだね。あいつは今時間は学内をうろうろしているから。電話して現在地をかくにんしてあげるよ」
「お願いします」
 彼は軽く首を下に振った。
「お疲れさまです」
 鏡のスマートフォンから爽やかな男性の声が彼の耳元に届いた。
「おう。お前なにやってるんだ?」
「土俵にいます」
「土俵にいるの。今富士野君来てるからすぐにそっちに行かせるわ」
「そうですか。ではここでまってます」
「お前。あんまり変なこと言うなよ」
「言いませんよ。では失礼します」
「はーい。ということだから行っちゃって」
 鏡は電話を切りスマートフォンを胸にしまった。
「コン、コン、コン」
「はい。どうぞ」
 彼と鏡は入り口の方に顔を向けた。
「失礼します」
 お茶をのせたおぼんを運ぶ女性事務の君島が入って来た。
「お茶ひとつでいいや。富士野君は日比野のところいくから」
「はい」
「じゃあ。僕行きます」
「うん。行っておいで。場所はわかるか?」
「どこですか?」
「レスリング場の横だよ」
「レスリング場のよこって柔道部の道場じゃないんですか」
「柔道部潰したんだよ。弱いから」
「そうなんですか。では行ってきます。今日はお忙しいところをありがとうございました」
 彼は立ち上がってからお辞儀をした。
「とんでもない。次の試合も行くから頑張ってね」
 彼は再びお辞儀してその場から離れた。その時、おぼんを持ったままの彼女にふと目がいってしまった。細身の彼女は尾野真千子似の美人であった。
 
 そして、昔の記憶を頼りに相撲道場に向かった。
「すいません」
 彼はその道場に着き、入り口の扉を開けた。
「おう。お前か」
 土俵の俵内の砂をほうきでならすジェロム・レ・バンナのような体つきをしている日比野の姿があった。
「はい」
「そのまま座敷にあがっちゃって」
「はい」
 彼は入ってすぐ左にある下駄箱に脱いだ靴を入れ、畳が敷き詰められている広さ一〇畳のあがり座敷にあがった。
「そこの座布団ひいてすわって」
「はい」
 彼は座敷奥の隅っこに積まれてる座布団を上から一枚とってその上に座った。
 しばらくして、日比野はならしを終え、彼のもとに来た。
「その傷痛そうだな」
「もう抜糸したんで痛くありません」
 日比野は足を土俵につけて座敷に腰かけた。
「そうか。でも心の傷は癒えてませんって感じだな」
「まあ」
「さすがにあんだけ期待されてあんな負け方じゃ心も傷つくな」
「はい」
「もう辞めんのか」
「まだ」
「まだってなんだよ。お前辞めた方がいいよ。あんな詰めの甘いボクシングするなら」
「詰めの甘い?」
 彼はムッとした。
「そうだよ。一発いいの顎にはいったのに。カウンター警戒してラッシュかけなかっただろ。それにお前のあのパンチ。腰の入ってない手打ちパンチあれはひどいな。俺なら顎に入っても絶対に倒れない」
「そうですか」
「そうですかじゃねえよ。ここまでいわれたら普通言い返すだろ」
「その通りですから」
「お前さあ。格闘やってる人間がそんなんでどうするよ。その通りでも、うるせえこのやろうぐらい言わないとだめだぞ」
「気をつけます。ところで部員は今何人いるですか?」 
「バカが五人」
「創部一年目だからしょうがないですね」
「でも、強いぞ。そうだ今日稽古していけよ」
「今日はちょっと」
「ちょっとって。女か?」
「違います」
「じゃあ。やれよ。どうせ練習に行かないんだろ。村田さんに聞いたぞ、サボってんだろ」
 村田は彼のジムのマネージャーだ。
「はい」
「ヨシ。まわし締めるか」
「はい」
 彼は気の進まないまま稽古をすることになった。
 そして、一旦外に出て道場に戻ってきた日比野の右手には白まわしがあった。
「服脱いでおりろ」
「全部ですか?」
「全部だよ」
 彼は座敷の窓を気にして全裸になった。
「おい。ソップ[ 痩せている力士に対して使われる角界の隠語。]おりろ」
「はい」
 土俵におり、日比野のいわれるがままに手を動かし、まわってるうちにまわしは締められた。
「どうだ」
「恥ずかしいです」
「肌の露出はボクシングとたいしたかわりはないぞ」
「お尻が」
「お尻。ここか」
 日比野は彼の右のお尻を手で叩いた。
「痛い」
「夏なのにお前の尻にもみじの葉っぱがくっついてるぞ」
「やめてくださいよ。俺そういうのり好きじゃないんで」
「遊びのないやつだな。よし。まっすぐ立て」
「はい」
 窓にお尻を向けた彼は背筋をピンと伸ばした。
「肩幅に足を開いて。親指に力を入れてまっすぐ腰を下ろせ」
 彼の前に立った日比野はドスの利いた声で指導をした。
「足開いてまっすぐおろせって」
 スクワットのように腰をおろした彼は日比野から指摘を受けた。
「ばか。腰を前だって。セックスする時は前に出すだろ」
「ふっ」
「ふ。じゃねえよ」
 日比野は彼のお尻を蹴った。
「痛いですよ」
 すると。
「失礼します」
「おう」
 まわしをつけ手にバスタオルを持った部員達がお辞儀をして入ってきた。
「ご指導よろしくお願いします」
 五人の部員達が日比野の前に整列しお辞儀をした。
「おう」
「こいつ。新入部員だから」
「えっ」
 数人の部員達が声を揃えた。
「違います」
 彼は下半身が悲鳴をあげるその状態のままであった。
「一回あげていいよ」
「はい」
「この人。腰抜けボクサーだから。みんなよろしくな」
 空気を呼んだ部員達は日比野の言葉に反応しなかった。
「腰抜けはひどいですよ」
「そう。そうやって噛み付かなきゃ。そうやって闘争心が育つんだよ」
「はい」
「お前らはじめていいぞ」
「腰おろし、腰おろしの形用意。一、二、三、一」
 部員達は俵内で円を描く並びで腰おろしという先ほど彼がやっていた運動を始めた。
「富士野。お前は俺の前でやれ」
「はい」
 彼の表情からはそれが嫌だということが読み取れた。
「早く来い」
 彼は観念して座敷に腰掛けた日比野の前に立ちそれを始めた。
 そして、俵内の部員達は四股を踏み始めた。彼もそれを真似して四股を踏んだ。
「お前は当分腰おろし」
 この後も部員達は股割り、すり足、申し合い(相撲を取る稽古)ぶつかり稽古と移行していったが彼はずっと腰おろしを強要され、それを二時間ほぼ休み無く行った。
 彼は玉の汗をかき、それを下にボトボト落した。
「よし終わり。お前も土俵の中にいけ」
 彼は俵内で日比野の方を向いてそんきょ(しゃがんだ状態でつま先立ちをして足を開く姿勢)をしている部員達のもとに駆け寄り部員達の真似をした。
「富士野胸を張れ」
「はい」
「今日は狩野」
「はい」
「一つ常に何糞精神を心掛け、己に打ち勝つべし。一つ一年三六五日しかない。その少ない日数の中で自分の目指す最高の舞台に立ってるイメージで稽古するべし。一つ夢とは自分の身体の中から沸々と湧き上がってくるものたちの終着駅である。だからそこに着くまではそいつらから目を背けるな。バカ共よ」
「よし。直れ」
「どうもありがとうございました」
 狩野が道場訓を唱えた間の一分ほどのそんきょで狩野含む部員たちは誰一人びくともしなかった。しかし彼は電車の座席で居眠りをするサラリーマンのように体を揺らしていた。
「富士野。ちょっと来い」
「はい。なんすか?」
 稽古が終了して部員達はそうじに勤しんでいる。
「お前。世界チャンプになりたい?」
「なりたいです」
 自信なげに答えた。
「そうか。俺がチャンピオンにしてやるよ」
「嫌です。俺はボクシングがやりたいんです」
「お前勘違いしてるぞ。誰がボクシング辞めろって言ったんだよ」
「相撲のチャンピオンにするって言う意味じゃないんですか?」
「違うよ。WBAかIBFかWBCかWBOのチャンプ」
「詳しいですね」
「ありがとうございます。でな、俺の計画は相撲の稽古とボクシングの練習をしながらチャンプを目指すんだよ。どうだ。すごいだろ?」
「でもジム練したらここで稽古する時間なんてありませんよ」
「ふっ」
 日比野は彼を鼻で笑った。
「なんすか?」
「俺はな哀れなバカのお前のために考えた。それはな。朝はロードワークしてこの道場で稽古する。そして、夜はジムに行け」
「まじすか? 相撲やって強くなるんですか?」
「なる」
「じゃあ。やります」
 彼は日比野の今までとは違う眼をみて即決した。
「おお。腹を決めたね。それでだな。お前バイト止めたんだろ」
「はい」
「いいバイト探してやったぞ」
「何のバイトですか?」
「ここのそうじだ。ここに入ってる清掃会社の社長は俺の元谷町でな。一人ぐらいなら入れるみたいだからお前やれ」
「はい。ありがとうございます」
 実家暮らしの彼はバイトをやらなくても生活ができるのでバイトしないでもうちょっとの間は親の脛をかじろうという魂胆だったので日比野の善意は彼にとって大きなお世話だった。
「あとお前がよければの話なんだが朝が早いからここの座敷で寝ていいよ。布団は用意するから。それと女連れ込んでもいいぞ」
「しませんよそんなこと。でも、エアコンもあるし悪くないですね」
 座敷の窓の上に設置されているエアコンを見ながら言った。
「決まりだな。社長には一週間ぐらい前から話通してるから多分明日から働けるし、布団も今俺の車に積んでるから今日から泊まれるぞ」
「やること早いっすね」
「F1の異名を持ってたからな」
「F1って言われてたんすか凄いすね」
「で。今日から泊まるのか?」
「はい。家帰って。飯食って。風呂入って着替え持ってきます」
「ちなみに部室に風呂も洗濯機も冷蔵庫もテレビもエロDVDもあるぞ」
「DVDデッキは?」
「もちろんだ」
「快適生活できますね」
「そうだよ。俺もこの間嫁と喧嘩したとき三日間ここに泊まってそう感じたよ」
「まさか、俺が寝る布団はその時の布団ですか?」
「鋭いね。正解。ドンキーで買ったやつだ。まあ、いいじゃねえか。俺が三回寝ただけだから。ちなみにオナニーはしてねえぞ」
「わかりましたよ。それで我慢します」
「我慢って。汚いみたいなこというなよ。はいこれ。ここの鍵」
 こうして、がけっぷちボクサーの彼は相撲を取り入れ世界チャンピオンを目指すことにしたのであった。

 翌朝
 ♪〜ダウンからカウント123456789までは悲しいかな神様の類に数えられてしまうものかもしれないだけどカウント10だけは自分の諦めが数えるものだ! 僕はどんなに打ちのめされようとも絶対にカウント10を数えない! ダウンからカウント123456
 二週目のカウント6で彼は起きた。
 携帯の時計の時刻は五時五一分だった。
 彼は日比野に七時までに一時間以上のロードワークをするように命じられている。
 そして、彼は布団を畳み、トレーニングウェアに着替え、目くそを取りながら外に出た。

 一時間のロードワーク終えた彼は道場に帰ってきた。
「おはようございます」
「おう」
 道場の前では日比野がシャドーボクシングをやっていた。 
 彼はこれに触れると面倒くさいことになると思ったので触れずに部室へと向かった。
 そして、彼は物静かな狩野にまわしを締めてもらい、タオルもって狩野のあとをつけ道場に急いだ。
「失礼します」
 彼も部員達のうしろでお辞儀をした。
「何してんすか」
 彼は人の壁で中の様子が見えなかったがその壁が前に行くと中では日比野が彼の寝ていた布団を敷いて寝ていた。
「だって。布団があるから」
「今日もご指導よろしくおねがいします」
「こちらこそ。じゃあはじめ。俺は寝る」
 彼はあきらめて昨日の位置で腰割りを始めた。
 しばらくして。
「ねえ。筋肉痛どうよ?」
 気付いたら日比野は彼の後ろに片足を組んで座敷に腰掛けていた。
「結構きてます。太ももが」
「やっぱな。太ももじゃだめなんだぞ。尻でかくする運動なんだから尻の筋肉を破壊しなさい」
「はい」
 日比野は彼のお尻の筋肉を破壊するため彼が腰をおろす時彼のまわしの結び目を大きな右手で掴み前に押しその状態で彼に三十秒数えさせ上に戻すこれの繰り返しをやらせた。
「戻す時膝は全部伸ばすな。半分伸ばせばいいんだよ」
「ふぁい」
 十分ほどで彼の体中からは汗が噴き出た。
「おい。見えない」
「はい」
 彼は左側に動いた。
「ばか。そっちだと押せないだろ。わざとやってる」
「いいえ」
 その後彼は八時過ぎまで腰おろしを行った。
「もういいよ」
「はい」
「朝飯。下駄箱の上から持ってけよ。お前のは小さいやつな」
「ありがとうございます」
 そして、彼はタオルと弁当箱をもって人のぶつかる鈍い音が響く道場から出た。
「おい。お先失礼しますは」
 部室へと向かった彼の耳に日比野の怒号が突き刺さった。
「すいません」
 彼は直ぐ道場の扉を開けた。
「お前。それじゃあだめだよ」
「はい」
「ちゃんとあいさつしてけ」
「お先失礼します」
 彼は日比野の殺気に威圧されていた。
「このやろう。弁当箱持ちながらするあいさつがどこにあるんだよ」
 日比野はかんしゃくもちだった。
「すいません」
 彼は直ぐに持ってるものを床に置いた。
「おい。お前らもタオル持ちながらあいさつしてるよな。黙ってればその気になりやがって」
 申し合いする部員達も稽古を中断した。
「すいませんでした」
 巨漢の部員達は声を揃えた。
「つっ。このやろう。次やったらかわいがるぞ。このやろう」
 日比野は舌打ちをしながら部員達を順番ににらみ付けた。
「お先失礼します」
 彼は怯えながらお辞儀をして道場をあとにした。
 そして、彼は就業開始時間に間に合うように部室でシャワーを浴び、身支度を整え、朝食をとっていた。
 すると。
「飯食ってたの?」
 日比野が部室の扉をガラガラっと開け入ってきた。
「はい」
「どうぞ。汗臭いところですけど」
 日比野はうしろを振り返り誰かに話しかけた。
「結構広いね」
 白髪交じりでふさふさの頭が見えた。
「社長。こいつですよ」
 日比野は部室奥のテーブルで食事をとっていた彼をその男に紹介した。
「あっ。どうも」
 彼は席から立ち上がってその男に会釈した。
「富士野。お前のバイト先の社長な」
「はい」
 彼はそうではないかと思っていた。
「富士野君。ヤマキン美掃で社長やってます。です」
 左手に衣服の入ってる透明なビニール袋を持っているその男は彼に近づき、会釈をした。
「富士野雄心です。一生懸命やりますのでよろしくお願いします」
 深深とお辞儀をした。
「できるか? 一生懸命に」
「としちゃん。自分の付き人じゃないんだからそんなこと言わないの」
「そんなようなもんですよ。な?」
「はい」
「富士野君。これに着替えて」
 金山はその袋を彼に差し出した。
「はい」
「着替えたら。裏門に行っておばさんがいるから」
「じゃあな。富士野。俺のメンツを保てよ」
「はい」
 その二人は部室をあとにした。

 そのあと、着替えを済ませた彼は裏門に駆け寄った。
「富士野君」
 裏門で待っていた同じ制服を着てる年配女性が彼を呼んだ。
「はじめまして、富士野です。よろしくお願いします」
 彼はその女性の前で立ち止まり会釈をした。
「滝口といいます。よろしくね」
 就業時間が開始され、彼は滝口に優しい口調で仕事をレクチャーされた。彼は滝口のレクチャーで前のらーめん屋とは違いギスギス感がなく働けそうだと思った。
 そして、久しぶりの労働を終えてジムに向かう彼は朝稽古のせいもあって疲労感と眠気を強く感じていたがこころが充実し、すがすがしい気分であった。

「じゃあ。行って来るわ」
「無理しないでね」
「俺はしたくないんだけど。あの人がさせるんだ」
「それはいいの。雄心のこと思ってやってくれてるんだから。そうだ。お母さん明日にでも挨拶いこうか?」
「そういうのやめてくれっていってたから。やめて」
 彼はうそをついた。
「うん」
 ジム練が終了した後、彼は家に帰り食事をして洗濯物のを出し着替えをバックに詰め込んであそこに向かった。


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