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作品名:落ちる 作者:すいみ

最終回   6
<現実>



そして、現実。ここで私は赤音とふたり。
私の手には銀色の刃。海に浮かんだ三日月のように。
歪に砕けた海の月のように。



「私はあなたを殺します」

「へえ。そんなことお前にできるの」
ふふ、と赤音は小さく笑った。優しいとすら思える笑顔。とても、とても綺麗。けれど、その目は挑むように鋭く、私を射抜く。壊れてしまえ、きっと赤音の笑顔は壊れることが似合い。
いいや、私が壊れた物を愛しているだけ。…愛だって? 馬鹿馬鹿しくて笑える。


私達はもうすぐ高校を卒業する。すべては終わる。

赤音は「結婚」する。赤音の家にはそれが必要なことなのだと。赤音が望もうと望むまいと。赤音はそのことに特に何も言わなかった。けれど、ああ、私にとってみれば赤音の本当の願いも、事の是非もどうでもいいのだ。何と身勝手な感情。

赤音がいなくなる。

その事実だけを私は怖れた。そのことに、私は耐えられない。

人はどうしたっていつか離れ離れになる。人はいつだって一人だ。それが「結婚」だろうが「死」だろうが…大した違いは感じない。ひとりにされる。取り残される。いや、そもそも初めからずっと「ひとり」だ。
そんなこと理解しているし、私は別れだって受け入れて生きてきた普通の人間だ。そこまで馬鹿じゃない、何も知らずに欲しがる子供じゃない、すべて知って渇望する大人じゃない。

それでも、赤音はそこに在る。そこに在る。在るんだ。それが私にとって何より確かな感覚。赤音がいなくなることは世界が崩れさることだ。ああ、馬鹿な妄想、自分勝手な我儘。
けれど、けれど、愛してる? 憎い? どうでもいい? 何もかも分からないけれど、赤音が消えてしまうことだけは駄目だ。それは恐怖に近かった。私は私の命を守るために、赤音を殺す。
我が身が可愛い。
それだけ。

赤音が消えてしまうのなら、その前に赤音を消してしまおう。
己は最低の屑。
綺麗に燃えて、燃え盛る炎に焼かれてそして灰のように散ってしまえるのなら良いのに。地獄の叫びすらきれいに消え去る。

そして、私も消えてしまいたい。

赤音は綺麗。綺麗でこわい。こわくてこわくて、私は涙を流す。私はずっと赤音に怯えていた。まるで、底のない空白の空へ落とされてゆくようだから。赤音の存在が私を絶望させる。

私は赤音を憎んだ。赤音さえいなければ私の世界は何も無いのだから。ただの虚無だ。安楽で虚しい愛しい世界。赤音は私を壊していく。いや、私が勝手に壊れていくのだ。




赤音を消す。
そのために私は赤音に刃を向けた。ただ、まっすぐに。赤音は私を見ている。ただ、見ている。その顔には何の表情も浮かばない。いや、いっそ穏やかにすら思えた。
赤音は怖い。怖い、こわい。
こわい。
私たちは二人。ただ、ふたり。

私が銀色の切っ先を向け赤音に近づいたそのとき、赤音が私のほうへ両の手を向けた。その意味は何。分からない何もわからない。
けれど、刃が赤音に触れようとしたときに私の頭の中は真っ赤に染まった。
こわい。
赤音の傷。赤音の血。赤音の苦しみ。
そして、何より赤音が消えてしまうこと、こわい。

私はとっさに刃を逸らそうとしたけれど、赤音がその銀色の光を掌で掴む。私は恐怖で赤音から刃を離させようとして、けれど傷をつける怖れに力を入れることはできず、刃から手を放した。
それから銀色は赤音の手からも零れて、地に落ちた。

(ことり)

銀色は時が止まったように、もう動かない。

あれは三日月だ。闇夜に浮かぶ鋭い三日月だ。真暗な海に浮かぶ三日月だ。私に壊されて砕けていった三日月だ。うつくしい、うつくしい、かなしい、かなしい。けれど、また何事ものなかったかのように静寂と沈黙と銀色の光りが水面に浮かぶ。すべては壊れることのない幻のように。

今は夜か、朝か。光はどこ。けれどすべては闇。何もかも闇じゃないか。からっぽの空は真白な闇。真暗な闇。赤い光だけが生きている。痛む赤だけが生きている。泣いている。

私に赤音を殺すことは不可能だった。初めから私などにそんなことができるはずもない。私は自分で思っているよりもやわらかい心を持ち、また弱い。いや、そういうものが強さなのだろうか…。
赤音の手から一粒の血が生まれ、死んだ。零れ落ちて地面に小さな染みとなる。私は赤音を傷つけてしまった。己の苦しみから逃れるために赤音に傷を作ってしまった。傷、赤い傷を。

私はぼんやりとしたまま、ふらふらと地面に落とされた刃を拾う。銀色の三日月を拾う。偽物の月でも美しいのだから悲しむことなんかない。偽物なんかじゃない。お前は生きているのだ。
生きている。
そして、私は刃物で自分の手のひらを傷つけた。震える臆病な手は、もう一つの手に浅い小さな傷を作る。少しして、じんわりと赤い血が生まれ出てきた。いいや、この血は死ぬために流れてきたのだ。痛みとともに。
ほんのわずかな一滴の血。
これは膿だ。私の汚れの膿だ。

私はその赤に安堵し、もっと見たいなと思った。これで赤音の血の分も流してしまいたい。

そのとき声がした。

「やめろ」

「やめなさい」
赤音は静かだけれど、背くことを許さない強い口調で言った。絶対的な言葉。赤音の言葉は私には絶対だ。その音色に私の手はぴたりと動きを止めた。まるで動くことができない無機物のように。音もなく立ち尽くす。

私は自分の手のひらから生まれた赤い血を眺めていた。その赤い液体はまるで私の心ようだと思った。私を形作っているすべては偽物で、この赤だけが私なのではないだろうか。
ぽたり。わずかな赤い血が地面に小さな赤い染みを作った。世界が私になって、私が世界に消えていくような錯覚。もはや自分の存在がどこにいるのかも確かではない。私は誰か。赤音は誰か。誰にもわからない。

そして、

赤音は私を抱きしめた。浮ついた愚かな存在を捕えるように。驚いた私は一瞬呼吸ができなくなる。
赤音は私の手を取ると自分の手と絡ませる。小さな赤い血が触れ合い、溶ける。二人の手、ひとつ。そして、その手を私の目の前にかざす。光。白い肌と赤い血。眩しくて鮮やかな毒の色のようだった。

「ほら、これで一緒」
そう言って赤音はわらう。静かで底知れない笑顔。優しい、悲しい…。私はその笑顔にとても安堵した。私の意識は朦朧として、現実や夢が良く分からない。けれど、瞳に映る赤。ああそうだ、私と赤音は同じ血をしているのだ。もう何も怖くない。
体と心から力が抜けていく。赤音の体にもたれかかり、まどろんでいくような曖昧な意識。私はきっと空虚で透明。濁っていたすべては浄化されるように、またすべてを失うように無になる。
私は瞳を閉じた。もう何も見えない、何も無い。怖いことも、楽しいことも、暗いものも、眩しいものも。白も黒も。ただ、赤音の存在だけ。

ふふ、と赤音はまた小さくわらう。私を抱きしめる力が少し強くなったような錯覚。赤音の音が無の世界に色を持って響く。その音色に酔う。

「馬鹿だね。結局、馬鹿なんだよ。
私も、お前も」

「そう、ですか」

私はこの存在を失いたくなかった。それだけだった。いなくなってしまうのなら消してしまえたらと願った。けれど、在って欲しかった。消えないでと願った。私はあなたの幸せを願っているのだ。それは本当。本当だったはずなんだ…。

友情か、恋情か、憎しみか。ただの、執着。
どうだってかまうものか。感情に名前をつけることに意味なんてない。
私はぼんやりと赤音に抱きしめられていた。体というものは自分であり、自分のものじゃないようで違和感。それでも触れる赤音の存在だけをすべての感覚で感じようとした。赤音だけ、この存在だけが「在る」。

赤音が音を紡ぐ。

「”心中”でもするつもりだった?」
”シンジュウ”と言葉遊びのようにゆっくり繰り返し、ふふ、と赤音が小さくわらう。笑う。嗤う。哂う。
「しんじゅう……」
私もまたその音を繰り返した。意味など成さない吐息のような小さな音がこぼれた。言葉の意味など朦朧とした私には霞のよう。赤音の紡ぎ出す音だけをただ、聴いている。赤い、うつくしい音色。
赤音の音、皮膚、鼓動、温度、瞳。ああ、赤音の世界。私は生きていられる…。

「鈴」

赤音が私の名を呼んだ。赤音の音が呼ぶことで私はその名になっていく。私は生まれ変わって初めて自分の名前を呼ばれた気がした。赤い優しい音色。



赤音は空になれるだろう。私はそう信じる。それは切実な願い、叫びであり、同時に確かな事実だ。赤音は空でも、太陽でも、星でも、翼でも、望むものすべてになれる。だって赤音だもの。
そして、人は無限大だ。


赤い血、愛しい血。

私は自ら空白の空へ落ちてゆこう。


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