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作品名:ハチミツ 作者:なつめ

第5回   5
 どうにか3日間の試験を終え、僕は大きく伸びをした。解放感に包まれた教室のあちらこちらで、楽しそうな話題に花が咲いている。
「おーい。ちゃっちゃとHRやって帰るぞー」
 担任の江藤が教壇に両手をついて言った。色黒で中肉中背、お世辞にも美男子とは言いがたい容貌だが、明るく温和、誰に対しても分け隔てなく接する教師として生徒からも保護者からも慕われている。
「期末試験も終わってほっとしてるだろうが、受験生であるという自覚を持って、はめをはずさないようになー。まぁでも夏休みも課外授業があるから、今週末くらいは適度に気分転換しろー。それから、毎日クソ暑いんで、体調管理にはくれぐれも気をつけるように! 以上!」
 本当にちゃっちゃとHRを終わらせ、教室を出ていく。僕は江藤のこういう飾らないあっさりしたところが結構好きだ。
「高橋」
 岡田が真っ赤なななめ掛けのバッグを肩にかけながら、こちらを向いた。
「ノートありがとな。おかげで助かった。オレ、夏休みはバイトする予定だったからさ」
 試験の出来がそれなりによかったのだろう、晴ればれとした明るい表情だ。
「いやいや、あれ、俺のじゃねーし。お礼なら直接美月ちゃんに言ってやってよ。喜ぶから」
「そうかあ? とても素直に喜ぶとは思えねえけど」
「そんなことないって。中学の頃はクラスの奴らに勉強教えてやったり試験対策練ってやったりしてたんだぜ。平均点上げて担任に感謝されて、皆に頼りにされてたんだからさ、美月ちゃんは」
「へええ。今の坂本からは想像もできねえな。ってかおまえさ、そんだけ褒め称えるってことはやっぱあの女のこと好きなわけ?」
 美月のことを名字で呼んだかと思った次の瞬間にはあの女呼ばわりか。いやいや、それより何て言った、こいつ。
「あのさぁ……、今さらばかばかしくて言いたくもないけど、俺が美月ちゃんを好きなわけないだろ。ぶう太呼ばわりされる上に毎日散々こき使われて、それでも好きって、どんだけマゾなんだよ」
 僕は特大のため息をついた。妙な仏心出してノートなんか見せてやるんじゃなかった。
「ふーん。ま、おまえがそう言うんならそうなんだろうな」
「そうだよ」
 力を込めて言ってもまだ少し不満気な岡田を納得させるための言葉を選んでいたら、
「なになに、何の話ー?」
 美月の晴れやかな笑顔が至近距離にあって、僕は思わずたじろいだ。
「いや……あの……」
「高橋が坂本のことをすっげえ褒め称えるからもしかして好きなんじゃねえの? って訊いただけだよ」
 言い淀んだ僕を置いて、岡田がいけしゃあしゃあと言ってのけた。マジで、こんなヤツにノートなんか見せてやるんじゃなかった。
 美月は一瞬きょとんとした表情をしてから、ぷはっと堪えきれずに吹き出した。
「そんなわけないじゃん。ぶう太、いっつも私にこき使われて文句ばーっかり言ってるんだから。もしそれでも私を好きだって言うんなら、ただの変態よー」
 右手をひらひら上下させながらケタケタ笑う。
「……ご期待に沿えなくて残念だけど、俺はマゾでも変態でもないよ。そんなことよりあれ、カノジョじゃねーの」
 扉の陰からこちらを窺っている小柄な女子を指差すと、岡田がぱぁっと満面の笑みを浮かべた。
「んじゃ、高橋、今日はサンキューな!」
 スキップでもしそうな勢いでカノジョの方に向かう岡田と、その岡田をはにかんだ笑顔で見つめているカノジョがとっても幸せそうで、僕はまた心底うらやましくなってしまった。
「ぶう太、すっごくうらやましそうな顔してる」
「そりゃ、うらやましいよ。かわいいカノジョと夏の間遊びまくるんだろうなぁと思うと、うらやましくて泣けてくるよ」
 夏休みにバイトするのも大方デートの資金のためだろう。カノジョと楽しい時間を過ごすためと思えばやる気も満ち溢れるってもんだ。
「受験しないんなら遊びまくってていいかもだけど、ぶう太、そんな余裕ないでしょ。しょうがないから今年は私が勉強教えてあげたり一緒にお祭行ったりしてあげるわよ。どうせヒマだし」
「……海は無理だよ、言っとくけど」
「言われなくたって分かってるわよ。ブヨブヨな体を人目に晒すのは辛いでしょ。見せられる方もいやだろうし。さあってと、山下とお昼食べる約束してたから行かなきゃ。はい、これ」
散々人をけなしたあとで、当然のように朝持たされた鞄を差し出す。やっぱり重い。
 体育館裏に行くと、山下が階段にちょこんと座っていた。
「先生、今日はお弁当持って来てるんだねー」
 傍らに置かれた茶色の巾着を指差して美月が言った。
「昨日、お弁当分けてもらったから……。よかったらどうぞ」
 恥ずかしそうにシンプルな紺色の弁当箱の蓋を開ける。
 肉じゃが、焼き魚、ほうれん草のおひたしに卵玉子焼き、と見た目は地味だが、分けてもらった肉じゃがはちょうどいい味加減だった。
「先生、料理できるんじゃん! 肉じゃが作れるなんて、ポイント高いよ!」
「俺、ひき肉の肉じゃが好きなんですよね。おいしいですよ!」
 僕たちが口々に誉めると、山下は真っ赤になって両手を振った。
「私、早くに両親が亡くなって祖母に育てられたからこういう料理しか作れなくって。教師になりたての時、節約のためにお弁当作ってたんだけど、他の先生に『山下先生のお弁当って質素ねー』って言われて、やめたの。それに、祖母ももう亡くなってしまって、一人分の食事を作るのも面倒になっちゃってね」
 と言うことは、彼女は学校でも家でも孤独なのだ。
 まだ20代前半なのに世間の女子と呼ばれる方々が経験しているであろう様々な楽しいことも知らず、ずっと真面目一筋に生きてきて、周りの人間にこそこそ陰口叩かれたり、同僚の教師に嘲笑されたりしなければならない彼女が哀れだった。
 美月が眉をしかめた。
「もしかして、英語の藤崎でしょ、そんなくだらないこと言ったの」
「えっ! どうして・・・・・・」
 分かったの、という言葉を寸でのところで飲み込んだが、遅かった。
「やっぱりね」
 心底いまいましそうな表情で呟く。
 藤崎は、顔はそこそこ美人だけれど、甘ったるいしゃべり方と露出度の高い服のせいで女生徒を敵に回していた。同じように女性に嫌われやすいとは言え、美月とはまた違った人種で、僕の苦手なタイプだった。
 大体、香水がキツすぎて近くにいると気持ち悪くなってしまうのだ。
「あいつはね、私が数学の田代と仲がいいって勝手に誤解して、いちいちイヤミを言ってくるようなヤツなのよ。私は本当に数学が分からなくて準備室へ通ってるのに、先生を誘惑しちゃだめよ〜、なんて言ってきてさ。勘違いも甚だしいったら。アホかっつーの」
 田代はちょっと神経質そうだけどなかなか整った顔立ちと長身で、秘かにファンクラブまで存在するという20代後半の教師だ。
「ああ、田代先生は重い資料を運んでいると手伝ってくれたり、飲み会でも声をかけてくれたり、優しくていい人だから、やっぱりモテるのねえ」
 山下がおっとりと微笑んだ。その口ぶりに何だか甘やかな物を感じたけれど、気のせいかな、と思った瞬間だった。
「先生、田代のこと好きなの?」
 さすが美月、とでも言うべきか、ストレートすぎる質問が放たれた。みるみる内に山下の顔が真っ赤に染まる。
「そ、そんな、好きとか、そんなんじゃないけど」
「けど、いい人だなーって思ってるんでしょ? とりあえず飲みにでも誘ってみたら? いきなり家で手料理ごちそうするってのは相手が引いちゃうかもだから、軽いノリでさぁ」
「そ、そんなの、無理! 私なんかに誘われたら迷惑よ!」
「そうかなー。やってみなきゃ分かんないと思うけど」
「やらなくても分かるわよ! そんなそんな、私なんか」
 そんな、と私なんか、を何度も繰り返して、うつむく。
 僕には山下の気持ちが痛いほどよく分かった。
 自分に自信がないから、何もできないのだ。気になる子がいても、断られる自分の姿を思い描いてしまって行動に移せない。
 いつでも自信満々で、モテすぎるのも困るのよねー、なんてボヤいている美月には到底理解できないだろうけど。
「それでは、誘われても迷惑に思われないような女性に変身しましょう!」
 エステか何かのCMのような言い回しで、美月が宣った。
 それから非常に重い鞄(もちろん僕がここまで持って来た)を開けると、中から10冊くらいの雑誌を取り出し、バサッと山下の前に広げた。
「そんな、とか、私なんか、とか言ってたって男は寄ってこないんだからね。とりあえず地味だけど顔立ちは普通だし、スタイルはそこそこだし、磨けば何とかなるかもよ」
 いくら若くて授業がヘタクソで大人しい教師相手だからとは言え、失礼すぎるんじゃないか。
 そう思いつつ肝心の山下をチラリと見てみると、予想外の展開についていけず目を白黒させるばかりで、失礼なことを言われたということにすら気づいていないようだった。
「ま、とにかくこの雑誌をひととおり読んで、まずは勉強してみて。今までファッションとかメイクとか、全く興味なかったでしょ? あ、でもまだ実践はしないでね。変な服や化粧品買っちゃったらお金がもったいないから」
 つまり、センスが悪くて心配だから勝手に買い物するなってことだ。
「一緒に歩くのに趣味の悪い格好されるとイヤだから、ぶう太の着る物は私が選ぶ!」と、過去に美月から言われたことを、僕は思い出した。
 そのおかげで、ちょっとおしゃれなデブでいられるわけだけれども。
「私、女の人をコーディネートするのはじめてなんだよねー。あー、ワクワクしてきたー」
 あくまでも自分の楽しみのために山下を変身させるのだということを隠そうともせず、また僕に無茶苦茶重い鞄(しかも中身は雑誌)を持たせたことについて全く悪びれる様子のない美月に、僕は深々とため息をついた。
 やれやれ。


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