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作品名:ハチミツ 作者:なつめ

第3回   3
 次の日の昼休み、僕と美月は体育館の入口に面した階段の一番上の少し広くなっているスペースに座って、弁当を食べていた。
 ちょうど大きな桜の木が影になって、多少薄暗く太陽が遠い分、屋上よりは涼しく感じられた。
 とは言っても、やっぱりエアコンの効いた室内に比べれば暑くて、僕はスポーツタオルで汗を拭きつつ、お茶をゴクゴク飲んだ。
「私さぁ、しばらく男の人と付き合うの、やめようかなーって思ってんだけど」
 今まで昨日観たドラマの話をしていた美月が、何の脈絡もなく唐突にそう言った。
 突然の決意表明に、僕は思わずぶほっとむせて咳き込んだ。
「なあに、そんなにびっくりするようなこと?」
 きれいに描かれた眉をひそめる。呼吸を整えてから美月の方に向き直ると、大きな茶色がかった瞳いっぱいに僕のまん丸なマヌケ面が映っているのが見えた。
「びっくりもするよ! 美月ちゃん、いっつも恋愛が趣味で生きがいで、彼氏と一緒にいる時がいちばん幸せー、なんて言ってるだろ。なのに恋愛やめるだなんて、一体どうしちゃったんだよ!」
 物心ついた時から同じクラスのナントカくんがかっこよくてステキ、なんて話を聞かされていたのだ。登場する名前が毎日のようにコロコロ変わるのはどうかと思ったが、楽しそうに話す美月を見ていると、それも許せてしまっていた。そんな美月から恋愛を取ったら、何が残るというのだ。
「ぶう太、暗に私のこと恋愛バカって言ってる?」
 ぐっと言葉に詰まって、僕は美月から視線をそらした。
「そ……、そんなことないけど」
「本当にきっぱりはっきりそう言い切れる?」
「う、うん」
「じゃあ、命賭ける?」
 子どもみたいな問いかけに、ため息をつく。
「そんなに軽々しく命なんかかけられないよ。」
 僕がそう言うと、美月はケタケタと笑った。
「ぶう太って、うそがヘタだよねー」
 風が吹いて、緑の桜の葉がそよそよと揺れた。
「しょーがねーだろ、小さい頃から母ちゃんにうそはダメだ、って言われて育ってきたんだから」
「嘘が上手な男ってロクでもないヤツが多いから、いいんじゃないのー? で、そんないいヤツで暑がりなぶう太を色恋沙汰に巻き込んで、こんな所で食事させて申し訳ないなぁって、さすがの私も思ってるわけ」
 美月が乱れた髪を耳にかけて目を伏せた。睫毛が濃い影を作る。
「・・・・・・別に、外で食べるのも悪くないから、いいけど」
「それに、よく考えたら私たち受験生でしょ? 来週水曜から期末試験だし、夏休みもお盆以外は一日中課外授業あるから、デートも海も諦めて受験が終わるまでは勉強に専念しようかなぁと思って」
「そっか」
 それこそ正しき受験生の姿、ってもんだろう。というか、今の今まで例年通り夏休み遊びまくろうとしていた美月の方が驚きだ。それでいて全国模試ではいつも上位をキープしているんだから、世の中不公平過ぎる。いやいや、そんなことより、受験が終わるまで彼氏をつくらないということは、来年の春まで僕が美月のお守りをしなければならないってことか?
 想像しただけで目眩がしそうだ。
 僕はなるべく早い内に美月の気が変わって、新しい彼氏ができることをこっそり祈った。
 ふと渡り廊下側に目を遣ると、一人の女性がこちらに向かって小走りに近づいてくるのが見えた。
「あれ、山下先生」
 古典担当の教師が階段の下で立ち止まった。真っ黒な髪をゴムでひとつに括り、白い半袖のブラウスにグレーのスカートを着て、右手にコンビニのビニール袋をぶら下げている。
「あ、あなた達・・・・・・1組の高橋くんと坂本さんね。こんなところで何をしているの?」
 教師の割にか細くて聞き取りにくい声で山下が言った。授業中もたまに何を言っているのか分からない時があるけど、それでも大きな声を出そうと努力しているのだと気づいた。
「へ? 何って、見ての通り弁当食ってますけど。先生の方こそ、どうしたんですか?」
「わ、私はいつもここでお昼を取っているのよ」
「え、こんな淋しいところで? 職員室で食べればいいじゃないですか」
 頭に浮かんだ素朴な疑問をそのまま口に出したあとで、僕は激しく後悔した。
「ぶう太って、デリカシーないのねー。そんなの職員室に居場所がないからに決まってんじゃない。国語教師って、準備室とかあるわけじゃないんだしさ」
 僕よりもっとデリカシーという言葉からかけ離れたところにいる美月が追い討ちをかけるように言う。
 もともと貧血気味なのか顔色の悪い山下の顔から、サーッと血の気が引いて蝋人形のようになってしまった。決して大きくない一重まぶたの瞳にうっすらと涙が浮かんでいるように見えて、僕はギョッとした。
 ちらりと美月の方を見ると、彼女もまさか大人で教師なんかやってる人間がその程度の言葉で涙ぐむとは思っていなかったみたいで、うわー、なんだか面倒くさいことになっちゃったよ、という心の声が聞こえてきそうな表情をしていた。
「先生、とりあえずお昼食べたらどうですか? もうすぐ昼休み終わっちゃうし」
 そう声をかけてから、僕は自分の体と弁当を美月の方に寄せて、スペースを空けた。
 どうしようか迷っているみたいでモジモジしていた山下が、階段を上って空いた所に腰を下ろした。コンビニの袋から三角のビニールに包まれたサンドウィッチと、パックの野菜ジュースを取り出す。
「もしかして先生、お昼それだけですか?」
 僕はまじまじとサンドウィッチと山下の顔を見比べた。僕からしてみればおやつにすらならない量だ。いや、僕でなくても、少食すぎるんではないだろうか。
「最近ちょっと夏バテ気味で、食欲なくって」
 気弱そうな笑みを浮かべて、山下がサンドウィッチをビニールから取り出した。小さな声で「いただきます」とささやくように言ってからタマゴサンドをかじる。
 僕は母親が作ってくれた特大ハンバーグにかぶりつきながら、どんな時でも食欲旺盛な自分が恥ずかしいような誇らしいような、複雑な気分になった。落ち込んだ時でも腹は減るし、食欲が衰えることもないのだ。痩せないはずだ。
 美月がお弁当のフタにウインナーとコロッケ半分、ミニトマトを載せて、野菜ジュースの横に置いた。
「私、もうおなかいっぱいだから」
 そっけなく言う。こういうことをする自分に照れがあるのだろう。
 美月ははっきりとした物言いをするから誤解されやすいけど、本当はやさしいのだ。
「え、でも」
「食は基本だって、先生も知ってるでしょ。そんな今にも倒れそうな真っ青な顔で、やる気があるんだかないんだか分かんない授業されると迷惑なんです」
 前言撤回しなきゃならないんだろうか、と思わせるほどやさしさのかけらもない辛辣な言葉に、僕はやれやれと息を吐いた。どうしてこういう言い方しかできないんだろう。
「美月ちゃん、先生のこと心配してるんですよ。」
 僕はハンバーグの箸をつけていない所を取り分けて、美月のお弁当のフタの上に置いた。ついでに使っていないフォークも添える。
 山下が心底驚いたように目を見開いて僕と美月を交互に見た。
「あ、ありがとう」
 ハンバーグを一口食べて、再度目を丸くする。
「このハンバーグ、すっごくおいしい」
「でしょー。ぶう太のお母さんって料理研究家で、お菓子でも何でも手作りしちゃうんですよ」
「へえ・・・・・・、うらやましい」
「お父さんは料亭とかレストランとか手広く経営してて、テレビや雑誌の取材を受けたこともあるんだよね。ね、ぶう太」
 まるで自分のことのように自慢気な美月が同意を求めてきたので、僕は慌ててうなずいた。
「何でもおいしいからつい食べ過ぎるのが難点ですけどね。おかげでこんな体型になっちゃって」
「それはぶう太が深夜に間食するからでしょ」
「夜更かししてると腹が減るんだよ。俺は腹が減る前に寝たいけど、美月ちゃんが来るかもしれないから起きてなきゃなんないんだろ。前に一度寝てたら、怒り狂って叩き起こされたの、忘れたとは言わせな・・・・・・」
 そこまで言ってしまってから、僕は慌てて口をつぐんだ。美月が僕をじろりとにらんだ。
「も、もしかしてあなたたち、つ、付き合ってるの?」
 何を想像しているのか、山下はしどろもどろになって顔を赤らめた。
「そんなわけないでしょ。私はイケメンとしか付き合わないし、エッチもしないわよ!」
 儚げで陽炎みたいに消えてしまいそうな容姿からは想像できないくらい、堂々と宣言する。恥じらいとか奥ゆかしさとかいう言葉は美月の辞書にはないのだ。
 それとは対照的に山下はますます真っ赤になってうつむくと、野菜ジュースをちゅーっと飲んだ。
 僕らはしばらく黙って食べることに専念した。昼休みがあと10分で終わろうとしていた。
「ごちそうさまでした」
 美月はリネンに蝶が刺繍してある小さなバッグに弁当箱を入れて、代わりにタッパーを取り出してふたを開け、三人の真ん中に置いた。昨日スイカが入っていたもので、今日は桃だった。
「うちの母の親戚が果樹園やってるから、フルーツたくさんもらうんです。よかったら、先生もどうぞ」
 果物のおすそ分けは僕が美月とお昼を取る時の楽しみになっていて、彼女もそれを心得ているからいつも多めに持って来てくれるのだ。手に取って口に入れると、なめらかで上品な甘さの果汁がのどを潤した。
 山下もおずおずとフォークで桃を刺す。
「桃を食べるのなんて、久しぶり」
「先生って、公務員でしょ? 桃も買えないくらい安月給なの?」
 教師に向かってそりゃないだろ、というくらいあまりにもぶしつけな発言で、聞いている僕の方がひやひやしたけれど、山下は特に気にする風でもなく右手を横に振りながら微笑んだ。
「一人暮らしだとなかなか果物なんて買わないのよ。自分のためにだけ料理するのも億劫だし……それより私、学生時代勉強ばかりで友だちと呼べるような人がいなくて、いつもここで一人でお弁当食べてたから、今日はすごく楽しかった。二人とも、親切にしてくれてありがとう」
 深々と頭を下げられて、僕と美月は顔を見合わせた。
 友だちがいなかったという言葉に全く意外性もなく、まあそうだろうなぁ、と思いつつ、僕は高校生の頃の山下を想像してみた。淡いブルーのセーラー服を着た彼女を。
 山下はこのK高出身なのだ。
 その当時からこんな薄暗いところで一人淋しく昼休みを過ごしていたのかと思うと、少ししんみりしてしまった。
「また明日もここに来ていいですか? 私たち、ちょっとワケありで教室に居辛いんですよねー」
 ワケありなのは自分だけなのに、勝手に僕までひとくくりにした美月はどうかと思うけれど、なかなかいい提案だ。
「ワケありって、まさかいじめに合ってるとか!?」
 僕と美月はもう一度顔を見合わせた。なかなか想像力が逞しい人だ。
 一日のほとんどを一人で過ごすとそうなるのを、僕も美月も一人っ子だということもあってよく知っていた。
「ご期待にそえなくて申し訳ないですけど、そんなんじゃないですよ。心配ご無用です」
「そうなの」
 僕の言葉に本心からほっとしたような表情を浮かべた山下を見て、いい意味でバカ真面目な人だなぁ、でもこういう人は生きづらいだろうなぁ、と少し同情してしまった。そしてたぶん、美月も同じことを考えていたんだろうと思う。
「山下と話せてよかったな。予想以上にいい人だってことが分かったし」
長い廊下を早足で歩きながら、僕は言った。すでに授業開始5分前の予鈴が鳴っていた。
「そーねー。けど、ああいう人って悪いヤツに騙されてひどい目にあわされたりする可能性高いからねー」
「心配してんだ、先生のこと」
「べーっつにー。何かあったとしても、大人なんだから自分でどうにかするでしょ」
「そういう割に、気に入ってたみたいだけど。明日も体育館裏に行くんだろ? その調子で、授業もちゃんと聞いたりするんじゃないの?」
「まっさかー。それとこれとは話が別よ。性格がいいから授業が上手ってことじゃないし、私はおもしろくない話を聞かされると脳みそが拒否するの」
「まあ、授業ってセンスが必要だしなぁ。経験を積めばある程度は上達するだろうけど、山下の場合は教科書どおり、きっちり型にはまったことしかできそうにないし、辛いかもな」
 返事が返ってこないので美月の方を窺い見ると、何やら思案しているようだった。僕がヨタヨタと階段を上っていると、いつもなら「だらしない」とか「みっともない」とか必ず悪態をつくのに、まるで上の空だ。
 手すりにしがみつくようにしてどうにかこうにか教室の前にたどり着いた僕は、スポーツタオルで額に浮かんだ汗を拭った。
「ねえねえぶう太、私、いいこと考えちゃった」
 ヨレヨレの僕が目に入っていないのか、瞳をきらきらさせながら、美月がふふふ、と微笑んだ。
 正直、美月のアイデアがどれだけ素晴らしいものだとしても、今の僕にとっては一秒でも早く席に着いて水分補給する事の方が数百倍重要なことだったが、いかにも聞いて欲しそうなオーラを出している彼女を無視するわけにもいかず、僕は肩で息をしながらやっとのことで言葉を発した。
「いいことって、何?」
「えー、秘密」
 にやっと笑う美月にうっすらと殺意を覚えながら、僕はノロノロと窓際の席に着いた。返しそびれてしまった空の弁当箱を窓から放り投げてやろうか、とも思ったけれど、そんなことをしたら仕返しに僕の机を投げ捨てられてしまいそうなのでやめた。
 教室はクーラーが効いている。お茶を飲み干すと、熱を持った頭と体がすーっと冷えた。文明の利器ってヤツはなんてありがたいのだろう、と心から感謝する。
 それにしても美月の言っていた「いいこと」で「秘密」って、何だろう。僕はそれがなるべく面倒ではなく、できれば期末試験が終わるまで実行されないよう願った。本音を言わせてもらえば受験が終わるまでそっとしておいて欲しいけれど、それは無理だろうな。
 可能な限り試験勉強に専念できますように、ともう一度念じながら、僕は英語の教科書と辞書を机の上に置いた。


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