ユミさんのように几帳面であれば、記録や写真は長期にわたって保存できる。けれども記憶は、いくらきちんと保存したつもりでも茫漠たる時の流れが散り散りにしてしまうから、ユミさんのように几帳面な人でも理路整然とは語れない。最初にユミさんが思い出したのは、西平のミサちゃんという女の人と一緒に、祖母が作った饂飩を食べた時のことだった。西平というのは、旧都幾川村部分の西の奥のほうで、ミサちゃんという人は大造さんの弟妹の娘さんだから、ユミさんからみれば従姉だ。機織りの手伝いに来ていて、皆で饂飩を食べた時、ユミさんやサチさんの饂飩はどんぶりの中で游いでいるくらい少なかったのに、ミサちゃんにはいっぱい入れてあげていたのを、ユミさんは憶えていると言う。それが昭和十七、八年頃のことだと思う、と、ユミさんは考え考え、祖母の半分くらいのスピードで、ゆっくりとしゃべる。また、ユミさんが水とんを作って、皆で食べたのもその頃だったと思う、と言う。一人五、六個ずつ分け合って食べた水とんは、現代のものと違って美味しい粉ではなかったとユミさんは言うが、どのくらい味が違うのか、栞にはわからない。食べ物に関する記憶がせつなくも鮮やかなのは、昭和十年代後半から二十年代のはじめくらいは、食糧も物資も絶望的に乏しかった時代で、その頃に食べ盛りの十代であった昭和ヒトケタ生まれの世代にとって、『ひもじさ』というのはまるで焼き印のようにつらく痛い、消せない記憶だからなのだろう。 栞が最初に『祖母について、憶えていることを聞かせてほしい』という言い方をしてしまったので、ユミさんは祖母に関することに照準を絞って記憶を探ってくれた。けれど話していくのにつれて、甦るのは両親や兄、姉たちのことがメインになっていくのは不可抗力で、ユミさんの記憶の中では、祖母はかなり脇役である。祖母自身は、ユミさんと顔を合わせる度に、『ユミちゃんはあたしが育てたようなもんだよ。』と豪語する。
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