栞にはなお矍鑠として見える祖母だが、米寿以後、急速に老いた感じがすると父は言う。ゲートボールをやめたのもその頃だそうだ。離れで自炊して、風呂もトイレも一人で普通にできているんだから、介護なんかいらないんじゃないの、と思っていたけれど、コンロの火をつけっぱなしで出かけてしまったり、店の売れ残りの商品をもったいないと言って冷蔵庫に貯め込んでおいて、賞味期限をはるかに過ぎてから食べておなかをこわしたり、目を離せない状態になってきたらしい。自分一人で腹をこわしているのはかまわないけど、近所のオバサン達にあげたりするから、それが怖いんだ、と、父も母も苦りきった顔で言う。失火だって前科があるんだし、食中毒で訴えられたりしたら、うちは夜逃げか首吊りだよ!と、母は頭から湯気を噴きそうな剣幕だ。子供の顔を見せるよりも絵美子の愚痴の聞き役が、実家に行った時の栞の主な任務になりつつある。自営業は目も手も足りていてノンキで楽な仕事だと世間の人々は誤解していると、母はヒステリックにまくし立てる。サラリーマン家庭みたいに単純に不在だから介護ができないのより、家が職場で仕事も家事も育児も介護も家でできて、楽でいいわねえなんて言われて、冗談じゃないよ!と、怒鳴り捲られて、うんそうだね、としか、栞は言えない。心の中ではそれぞれに違う苦労があると思っても、とても言っていい雰囲気ではない。母の四十年以上の忍耐のツケが潰瘍のようにどこかを爛れさせている家の中には、腐臭を出す膿のような空気が粘っこく漂っていて、栞は実家に帰る度に、酸欠と頭痛と胃痛と吐き気で高山病のような状態になる。
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