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作品名:花筏〜はないかだ 作者:SHIORI

第62回   62
「おじいちゃんも、玉川で一番頭がよくても、旧制中学とかいってない?」
玉川で一番というのも、地域限定というか世間の狭い、井の中の蛙的な話だと思うけれど、祖母も父もとにかく強固にそれを信じていて、祖父を語る時はいつもまず頭がよかったんだと言う。他に取り柄とか特徴は無かったのだろうか。
「いくら頭がよくたって、昔は上の学校ってのはそう簡単に行けるもんじゃなかったんだよ。みんな、小僧に行ったり女中に行ったんだよ。」
祖父は長男だから家の仕事をしていたけれど、次男の善吉さんは東京の関口米問屋、三男の幸平さんは秩父の織物工場に行ったと、祖母は憶えている。秩父は直線では川越とさして変わらない距離だけれど、外秩父の山々を大きく迂回しなければならないので、栞の認識では川越よりはるかに遠い。旧都幾川村部分の西のどん詰まりから堂平の山へのぼり、定峰峠を経由しておりる道があるのは知っているけれど、車に酔う人は絶対に通れないような道だ。昔の人は、歩いて山を越えたのかもしれない。
祖母が嫁いだ翌年、八高線が全線開通した。秩父鉄道がいつ開通したのかは、栞は知らないけれど、幸平さんは八高線で寄居まで行って、秩父鉄道に乗り換えて秩父へ行ったのかな、と栞は想像する。祖父や幸平さんから見て叔父か誰か(祖母はよくわからない)も、若い頃に秩父の織物工場へ働きに行っていたらしい。その頃にはどんな手段で秩父まで行っていたのだろう。野麦峠とか富岡生糸場みたいだね、と栞が言うと、うちだってハタ織りをやってて、工女さんが来てたんだよ、と祖母は言う。祖母の記憶では昭和十二年に、かつて奥の離れがあった位置(二つあった離れのうちの一つで、栞が小学生の頃に祖母の失火により焼失)にハタ場を建てて、中山式織機というのが十九台あったという。日中戦争が始まって、十三年から十四年の日本は戦争バブル景気の状況だったから、ハタ織りの事業はうまくいったようだ。


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