栞の祖父の利一さんは、大造さんとハマさん夫婦の第一子で、下にはクミ、善吉、トミ、幸平、サチ、ユミと六人の弟妹がいた。祖母と祖父が祝言を挙げた時、末の妹のユミさんはまだ二歳だったそうだ。年齢が離れていたからか、利一さんについては、どんな人だったのかと尋ねてもよくわからないと言うだけで、イマイチ具体的な人間像を語ってくれない。父は言わずもがなだし、祖母は莫迦のひとつおぼえのように、背が小さかったということと玉川で一番頭がよかったんだということを繰り返すばかりで、性格も人柄もどうもよくわからない。猛烈にインパクトの強い個性的な父親の下で、勉強ばっかりしていたようなおとなしい長男だったのだろうか。明治四十三年十二月十日の生まれだから、一応、『明治の男』の部類に入るはずだし、栞的な見方としては射手座の男というのは明るくておおらかで活動的で男らしいイメージなのだけれど、祖母やユミさんの話を聞くかぎりでは、今時の言葉で言う『草食系』のイメージである。祖母のことをきちんと愛していたのか、単に父親の決めた相手だから義務的に夫婦になっただけなのか、さっぱりわからない。 祖母が九十五歳の夏、栞は、過去の男の人達の中でどの人が一番好きだったの?と、祖母に尋ねてみた。交際期間の長さからいえば、あるいは俗に言われるように不倫の恋こそが真実の恋なのだとすれば、八百松かと思ったけれど、祖母は、 「そりゃーおじいちゃんに決まってるよー!だってものすごおく優しかったんだもの。」 と即答した。その時の語調の強さも、祖母の顔がみるみる紅潮して涙が噴き出すようにぼろぼろっと零れたのも、栞は鮮烈に憶えている。ひっそりと静かな介護施設のベッドの上で、眼鏡をはずして涙をぬぐうその姿は、森光子とか八千草薫とか芸能史に名前を残す美人おばあちゃん女優にもひけをとらないくらい綺麗だった。祖母の『女としての真価』をそこに見た気がした。男好きだのエロババアだのいかに蔑まれても、祖母の心の芯は祖父へとしっかり繋がれていて、その絆は誰がどうやったって絶対に断ち切ることはできない。それをすごいと思うと同時に、けれど栞はちょっと気の毒な気もした。三十年にわたって抱き合った八百松も、誠実な愛を注いでくれた真田さんも、祖母にとっては祖父の不在を埋めてくれるほどの存在ではなかったという事実。それは八百松や真田さんにあまりにも失礼な、残酷なことではないのか。祖母自身にとっても、不毛なことではないのか。真田さんには正式に再婚してくれって言われたのだと、あんなに得意満面で自慢していたのに。
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