八百松はヒグマのように大きな男だったように憶えている。栞自身がまだ子供だったからそのように見えていただけで、実際にはそんなに大きくはなかったのかもしれないけれど、今では祖母が栞よりもはるかに小さいので、ヒグマがメガネザルを腕に抱いているコメディーでもありシュールでもある妄想画像が、栞の頭に迷惑メールのように送信されて来る。 「あんまり上手じゃあなかったねえ。ガタイがいいから力で無理矢理しようとするから、痛いからやめとくれって言って怒ったこともしょっちゅうだったよ。力でっていうのは女が一番嫌がるのを、ちっともわかってなかった。それに、勃たないと男は焦ってむきになるから、一度なんてここんとこにすごい痣をこさえられて、しばらく治らなかったんだよ。」 ここんとこ、というのは大腿部の内側というか裏側というかの柔らかい部分だ。そんなところに痣って…と、栞は絶句する。ひょっとしてその時に脚の付け根の関節とか筋とかを損傷して、手術をするはめになったのだろうか。祖母は手術を終えて退院してから後のことで、だから術後、月に一回とか通院していた時、手術の跡よりも大きな青黄色い痣のほうに医師がびっくりしていて恥ずかしかったと言う。しかしあの手術の後、祖母は山梨県の石和温泉の療養施設で数ヶ月を過ごしている。温泉だったら群馬県のほうが家族旅行で行き慣れているのに、何故、石和温泉に行ったのか、その理由を父は、手術をした毛呂病院(埼玉医科大学附属病院の俗称)の紹介だとか信玄の隠し湯だから傷にいいんだとか言っていたけれど、石和温泉は昭和三十年代に果樹園の中から湧き出した、当時としては新しい温泉で、信玄公とはあまり関係無い。八高線と中央本線を乗り継いでお見舞いに行った母は、お土産にはもちろん信玄餅を買って来たけれど、もしかしたら八百松と別れさせるために、父と母は祖母を遠くの療養施設に入れたのかもしれない。
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