そうではないことを知ったのは、二十代も半ばを過ぎて同級生の半分くらいが結婚した頃だったと思う。耳年増の文学少女にも遅い春が訪れ、溜め込んでひた隠しにしていた性知識と好奇心に実体験が追いついてくる頃に重なり、介護施設の部屋割りをめぐって刃傷沙汰があったとか、ゲートボールのチーム分けで掴み合いの大喧嘩になったなどという話が、テレビのワイドショーや週刊紙の中だけのことではなくてすぐ身近にあったのだと気付かされた。大岡越前の母親が「灰になるまで」と言ったとか言わなかったとか、揶揄や冷やかしだけのはずだった高齢者の性愛のその生の具体例が、自分の住んでいる家の中にあったのだと、やっと気付いた。若年者の性のようにただ突っ込めばいい、股を開けばいいというだけではない、加齢に伴う筋肉の衰えや関節炎の痛みなどによって、股を開くことはおろか服の着脱もままならなくても、結合したり射精することを目的としなくても、ふれあうだけ、身体を寄せあうだけでも、若年者の無軌道で無節操な性よりもはるかに濃密に深く複雑に人生を重ね合い、命の燠火をかきたてあう、高齢者の性愛。七十代八十代になっても十代二十代の女性の瑞々しい肉体に執着する男性の煩悩は、その見苦しさやあさましさまでもひっくるめた上で、歴史に名を残す人のエピソードや文学という形で社会に知られている。男というのはそういうものなのだと、世間は黙認している。いい年をしてみっともないとか意地汚いとか心の中では軽蔑していたとしても言葉には出さず目をそらすのは、男の性には具体的な終焉があるというのが世間では通説になっているから、見苦しさをせつなさとか悲哀に置き換えることができるのだろう。
|
|