幸平さんもおそらく、そうだったのではなかろうかと思う。利一さんを引き合いに出すものの言い方は、幸平さんの自尊心を猛烈に傷つけたはずで、けれどそれをズケズケと言う目の前のいまいましい女は、自分のコンプレックスの元凶だった兄の妻だった女で、そんな女と同衾しなければならない状況に、幸平さんの神経は耐えられなかったのだ。自分はなぜ、好きでもない女を抱かなければならないのだろう、なぜ、この家で兄の子供たちを養わなければならないのだろう、自分は単なる兄の代用品にすぎないじゃないか…。そういうマイナスの考え方が頭の中でグルグル回っている時、人は心の中にブラックホールを抱え込んだような状態になってしまっている。うつ病になったことがある人、または身近な人がうつ病になって親身に世話をしたことがある人なら、生きることになんの意味も見い出せず、死ぬこと以外にいかなる救いもありえないと思い込んでしまう底無しの虚無と絶望が理解できるだろう。 幸平さんにとってさらに不幸なことには、祖母の他にもう一人、心の病の苦しさなどには頓着しない、陽性で元気で前向きで無神経でガサツな人間が身近にいた。大造さんである。昭和二十四年一月一日に生まれた幸平さんと祖母の子供、生まれたばかりの義行さんを見て、大造さんが『この子は利一の生まれ変わりだ!』と叫んだのを、祖母は憶えているのである。これでは祖母の子供は全員が利一さんの子供であるかのようで、幸平さんの存在はあまりにも蔑ろにされていると、栞は思う。
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