幸平さんは少年の頃から、利一さんにものすごくコンプレックスを持っていたらしい。『オレァ、母乳じゃなくて山羊の乳で育てられたから、兄貴とちがって頭が悪イんだ。』と、幸平さんが言っていたと、栞は祖母から聞いた。しかし母乳ではなく山羊の乳で育つと頭が悪くなるなどというのは、母性神話を歪曲して依拠し、子供の出来不出来をすべて母親のせいにしたがる身勝手な男達(幸平さんがそうだと言うのではなくて、世間のすべてのそういう男達)が作った偏見にすぎないし、ハマさんが幸平さんだけを差別して母乳を与えなかったとは考えられないので、山羊の乳で育てたのは単に母乳の出が悪かっただけのことだろうし、幸平さんに対して愛情がうすかったわけではないだろう。不幸なことに幸平さんは、ロシア人って頭が悪いと罵倒していたことからも推察されるように、頭がいいとか悪いとかいうことにひどくこだわる人だったらしい。あのハガキを読むかぎり、栞は幸平さんが頭が悪かったとは思えない。けれど利一さんは校長先生から『本校随一』の御墨付きをもらうほど頭がよかったのだと、祖母も父もユミさんも言う。そういう兄貴と比べられたら、幸平さんみたいなデリケートな人は耐えられないだろうと思う。祖母は兄弟とか姉妹を比較して評することが大好きで、自分の子供たちに関しても孫たちに関しても、何かにつけて比べていた。兄などは従兄弟たちと比べられるのが嫌で嫌で、中学生になって技術の授業で工具の使い方を学んだ直後には自分の部屋のドアに鍵をとりつけ、従兄弟たちが来た時にはひきこもって絶対に顔を合わせようとしなくなっていた。栞も従姉妹たちに比べて頭が悪いとか言われて、クソババアとか早く死んじゃえとか、非道い言葉を祖母に言ったことは何度かある。それでも頭の出来で比べられたのは、まだマシだと今は思える。それは祖母が従姉妹たちを性格とか顔の美醜で比べ、人格を否定するような言い方で評するのを何度も聞かされて育ってきたからで、姉妹がいなくて本当によかったと思ったりした。もしも姉や妹がいて従姉妹たちのように顔の美醜とか女としての魅力云々で比べられたら、絶対に祖母を許せなかっただろうと思う。
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