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作品名:花筏〜はないかだ 作者:SHIORI

第106回   106
最初に友晴さんの自己史を読み、次にユミさんから幸平さんについての話を聞き、直後にタイムリーに新聞に紹介されていたシベリア抑留に関する書物を読んだ栞は、友晴さんはご自身で書いておられるようにものすごく運がよかったのだろうと思った。シベリア抑留の本には、読んだだけで背筋が凍りつき、頭の奥が石をガツガツ詰め込まれたように痛くなる、恐ろしい様子が書かれている。こんな恐ろしいことは知りたくないと思った。こんな本は読まなければよかったと思った。幸平さんが本に書かれているような生き地獄を体験したのかどうかはわからない。抑留されていた時のことを、幸平さんはほとんどしゃべってくれなかったと、ユミさんは言う。お尻の肉をつまんで栄養失調の検査をされたと言っていたことくらいしか、ユミさんはすぐに思い出せるような話が無い。幸平さんがもし本に書かれているような『飢餓・極寒・重労働』の苛酷な体験をしたのなら、とても十代の少女になど話せなかっただろう。ユミさんが憶えているのは、ロシア人って頭が悪いんじゃねえか、と、妙なことを言っていた幸平さんの、暗い、荒んだ目の色だ。
「零下四十度?とかの中で人員点呼をしている途中で、数がわからなくなっちゃって、また最初から数えなおすのを何回も何回もやられて、それがすごいつらかったって言ってた。ロシア人って数も数えらんないほどバカなんだって、そう言ってたねえ。」
それは頭が悪かったわけではなくて、日本人を虐待して苦しめようという意図があったのではないだろうかと栞は思うけれど、幸平さんはそのようにロシア人を侮辱することで、帰国後も血を流し続ける傷だらけの心を慰撫していたのではあるまいか。ロシア人を嘲り、軽蔑することでしか、自分の心を守れなかったのだろうと栞は思う。そういうタイプの人間なら、ぶっちゃけ、知り合いにいなくはない。前述の利一さんが幸平さんに出して幸平さんが持ち帰ってきたボロボロの手紙は、幸平さんが帰還する時に持ち帰ってきたということは、幸平さんと一緒にシベリアの地獄を生き抜いて帰って来た紙で、だからあんなにヨレヨレのボロボロなのかもしれない。手紙を出した利一さんが海の藻屑と消えたことなど知らないまま、兄の手紙を生きるささえに、幸平さんは酷寒の地の重労働に耐えていたのではあるまいか。


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