『…ソ連兵は東京といってるが船の進行は左手の陸地がいつも見えるので変だなと思っていたら翌朝着いたところは、やはりウラジオストックでした。(中略)昭和二十二年八月に一ヶ月コルホーズへ行って農業とレンガ造りをしたことが一度ウラジオストックを出たことがあるだけで他は三年間ウラジオストックにおりました。同じ捕虜でも都会に居たので良い方だったのです。奥地に連れて行かれた人の多くが五万から六万の人達が死亡しておる事は後日判明したのですが同じに私はここでも運が良かったのでしょう。(中略)ウラジオ駅から汽車に乗せられナホトカへ行き、翌日日本の船に乗ることになり順番にハシゴを登り船の上に立ったときは一番嬉しかったしもう絶対に下りない、この船にかじりついてもと思ったものでした。嬉し涙が出た。ナホトカを出航し昭和二十三年六月十六日舞鶴港に上陸したが、日本の陸地が見えた時は感無量でした。(中略) 品川駅に停車場(注…祖母の生花で長姉の桜子さんの嫁ぎ先の家を指す言い方で、世間一般のバス停や駅の意味ではない)の義兄が迎えに来てくれていた。東上線の線路が狭いことと県道の細い道に驚いた。無事自宅に着いた夜、近所の人もお祝いに来てくれた。 それから数日は役場へ届出や親戚まわり、入間川のおばさんに良い歯をしているといわれた事を覚えてる。 七月から武蔵野貨物に復職して始めて(原文ママ)月給をもらったのが五千円であった。私はこれは良いと思った。物価がまだ確実に安定していなかった頃である。』
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