祖父は出征してわずか半年後の昭和十九年七月十八日午後三時、中部太平洋方面において戦死。サイパン島へ行く船に乗せられていて撃沈されたのだと、祖母は言う。兄弟三人の中で一番後に兵隊に行って、一番先に死んでしまった。善吉さんが所属していた満州第九一二部隊平井隊は、満州からいつの間にか南方へ行かされたらしい。二十年三月二十一日時刻不明、フィリピンのミンダナオ島タリヤサン(ユミさんが持っていた古い戸籍にはタリヤサンとあるが、手元の昭文社『世界地図帳』にはタリサヤン)付近において戦死と報告されている。一番先に兵隊に行って、そして一番遅くはなったけれど、ただ一人、生きて帰ってきた幸平さん。幸平さんがいつ帰還したのかは、祖母もユミさんもよく憶えていない。昭和二十三年四月(祖母の記憶では四月、入籍は五月十三日)の祖母と結婚したということは、二十二年四月七日から十二月五日までに帰って来れた二十万人弱の中に入っていたのではないかと推測される。二十二年十二月から翌二十三年五月まで引き揚げは中断されていたと本には書いてあるから、多分、あたっているだろうと思う。これは、抑留された人々の中ではかなり早く帰って来れたほうらしい。祖母の亡くなった弟の友晴さんもシベリアに抑留された六十万人余の中の一人で、昭和二十三年六月十六日に舞鶴港に上陸したと自己史に記している。最長は十一年という長期間、そして死者は約六万人という抑留の被害者の中で、栞の大叔父二人は比較的早く生還することができた。しかしその後の人生は、ずいぶんと違う。 友晴さんは自己史の中で、『自分は運がよかった。』と繰り返し述懐している。シベリア抑留に関する書物に書かれているような想像を絶する地獄絵図、筆舌に尽くしがたいほどの艱難辛苦の状況ではなかったようで、抑留中のことについての記述はあっさりと短い。理由を友晴さんは、奥地ではなくウラジオストクの都市部の収容所にいたからだと記している。幸平さんがどこの収容所にいたのかは、ユミさんが知らないので栞にもわからないけれど、奥地の未開の原野に連れて行かれたのであれば、そこでの体験は友晴さんのケースとは大きく異なるだろう。 友晴さんの抑留および帰国について、自己史から抜粋させていただく。
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