御告げと言えば、全く神様の御告げとしか言い様のない、奇跡的なことがあったと、ユミさんは言う。ユミさんが女学校へ入学する少し前の、昭和十九年の一月。 八日、当時の小学校が現代の小学校と同じに三学期の始業式だったのかどうかはわからないけれど、稲子さんが学校の廊下で一人で泣いていたら、担任の教師が『早く帰ってお父さんをきちんと見送りなさい。』と言ったことを、ユミさんは憶えているのだ。教師の名前も顔も憶えていると言う。つまりその日、既に死の床に就いていたハマさんや、パワフルではあっても老いた父親や、妹たちと妻である祖母と、そしてまだ幼い五人の子供たちを残して、利一さんは出征していった。断腸の思い、なんて栞は経験したことはないけれど、この時の祖父はきっとそういう気持ちだっただろうと思う。 その八日後。 五十四歳のハマさんが亡くなる、まさにその日に、幸平さんが樺太から一時帰宅してきたのだそうだ。戦地からの一時帰宅というのがどのくらいの頻度で許可されるものなのか、栞はわからないけれど、例えばフィリピンとか南方の生きるか死ぬかの激戦地では、『絶対ありえない』ことだったのではないだろうかと思う。樺太や満州だってそうそう許可はされなかったはずで、その滅多にない一時帰宅を許され、帰宅したその日に母親の臨終に立ち会えたのは、本当にものすごい奇跡かもしれない。羊羮を土産に持って来てくれたことを、ユミさんは憶えている。けれどハマさんが息をひきとるのと、幸平さんが家に着いたのと、どっちが先だったのかは憶えていないと言う。 前述の三枚のハガキのうちの一枚は、その一時帰宅の後、樺太の部隊に戻って一ヶ月くらいしてから書いたのではないかと推測される。文中に『二月の月も残り少なく…』とあるからで、そのハガキを読む限りにおいては、幸平さんはハマさんの臨終にギリギリ間に合ったように推測される。ユミさんの許可を得て、全文を記載する。なお、原文の旧カナ、旧漢字を現代のものに改めさせていただいたが、一ヶ所だけユミさんにも意味不明の文言は、空白とさせていただいた。
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