自己批判、一つ。
「我の人生に於ける永遠のテーマは"死"にある...」か。何が「死」かも知らないで、よくもまぁ、そんな戯言を、この白紙の上で、言えたものだ。お前に、「死」がどういうものか、など、説明出来る訳がない。それとも、出来るのか?
「文章の構成、語彙の統制は一切、問わず。」 (無学な故である、と採られるか。 必要ない、と思う故だ。)
「この世の扉」 自ず、「死」というものは、誰にも分らないものだ。
文学士よ、著明の作家のかくものを読破せよ。そうすれば、君に、一応の、才に於ける自由なるものが得られる。
何をするにせよ、時間がない、という、私の心。
私は、所謂小説よりも、むしろ、所謂随筆的、乱文、散文、の方が、好きだ。師を仰いでいう。少なくとも、少なからずの影響が、私の身上に、降り掛かっている。阿鼻叫喚。クセのある者となりたい。クセのありそうな奴になりたい。谷崎潤一郎氏はいった。「語彙の良識を以て、主体とせよ、そこに在るべき文字は、唯、一つ、だ」。煙草2,3本点けて、消して、私曰く。「その通り、一心に、一律に、通用する言葉だ。たった、一つ、私の真摯は、それとはちがう。かの有名な、ヘミングウェイ、古くは、ミケランジェロ、近くては、ボオドレル、トルストイ、(プウキシンは知らない。)皆、同様にして、同等のことをいう。”言葉のありきは、人のありき。そこにしょげる若者、奇しくも、遁世の体にて、矛盾を翻す。八茶滅茶、百虎の羞恥心。篝火、灯篭、行火、行燈、微意(寸志)の体”(云々)...”」堪えて、もの言う若者然らに、自然の発想が愛惜しく、古めかしい表現など、ものともせずに、独歩の輩に成り下がってゆくのだ。あの日の葛藤、造詣の一念。”功徳は我が利”と、一歩下がって、辣腕なる日常の首尾、良し。二歩前進、二歩目は、通りすがりの与太者の真心。牛歩の体の、女の如実には、辟易すること早や数年。何をみるにせよ、歴史の剽軽な体裁は、”通り一遍にて”咽び泣きさせられる様に、旧花の無聊の内に、我が信条から成る、放擲なる一念でさえ、一刀のもと、葬り去られる。窮鼠、猫を噛む。吝嗇募る、我が体裁の心は、これらの苦心の惨劇を、刹那の内に、かき上げる。
・純真=嘘やいつわり、けがれがなく、清らかなこと。 ・誠=嘘や歪曲のない、本当のこと。真心。本当の処。(誠を尽す。)
(神はこれらの芸術を生んだのだから、凄い。) その事実を知らないでも、純真とは成り得ない。この、自然というものが、ゆくゆくは、どんな結果になるなど知らなかった。私は、知らぬままに、気の向いたまま、こう、していた。その自然の摂理なるものを、知らねばならぬのか?知っておかねばならぬのか?”知識”の思惑に行き着く。子供、幼児、赤ん坊は、純真ではない、とする説も私の内に芽生えた。しかし、赤ん坊は、善悪を、自ず、知らぬ。本能のままに、生きている。子供も、似た様なものだ。やはり、この世での定義がものを言う。私がどう思い、考えようとも、この世では、既成された概念の様なものとして、私がここに来る以前から、腰を下ろしている。現在、私は、それらを使わねばならぬのだ。誰でも、同じであろう。この”誰でも”、という処に、一つの難がある。同様ではないのに、統一されてしまう、この言葉。日本人が殊に、使用して来た、好きな言葉である。私もこの言葉に毒されている。なかなか、おもしろいものだ。”清らか”と”本当”とは、どう違うのか。言葉はまるで違う。意味まで違うのだろうか?”清らか”とは、例えば子供が白いシャツを着て、泥溜りで跳ねて遊んでいるとき、第三者がふとその子供の来ているシャツを見た際、泥ひとつ、付いていないで、真っ白だったなら、”清らか”だと思うものではないか。私には、そんなイメージが、ふと、湧いた。或いは、心の”清らか”、所謂、目にみえない処での”清らか”さ、というものがある。これは、何故か、ふと、”女”を連想してしまう。貧しい人々に、自分の持つ者も多くはないのに、その内から、自分が生活出来る最低限度だと思われる分を残して、あとは全部分け与えているその”女”の心。一未(終いぞ、の意)、その本来の意味は違えども、その「愛」に似た様な、気持、気立て、の在り方に、又、その在り方が為す言動に、私は、”清らか”さを、みるのである。”清らか”さとは、世間的心情に訴えるものなのであろうか?他人が認めてはじめて、その言動は”清らか”だと公認される、自身にも、他力的に認識させられる、といった具合に。 「誠」については、かつて、新撰組がその信条に掲げていた、という史実がある。私の母親がかつて”新撰組かぶれ”であったので、つい、その辺りに、イメージが湧いた。嘘のない、歪曲のない、本当のこと、と、語録には記されてある。その事実を踏えていえば、「純真」とは少し異なる意味を持つ様に成る、と思われる。先ず、”清らか”さが、世間的心情に訴えるものであれば、この「誠」は、個人が個人に訴えるものであり、”世間が何と言おうと...”という、我儘がみえてくる。その質を併せ持った信条であり、本当も、嘘も、真実も、真実でないものも、良きも悪きも、すべて、自己中心のもとで決定される。社交的と内向的の違いに思えてくるのだ。”新撰組は我儘集団だ”と一概に言えないのは、彼等も又、幕府から貰った「自由」の内に「誠」の信条を打ち立てた故である。実際、何が本当で、何が嘘か、もわかっていなかったのだ。「お〜い!竜馬」という漫画の中で、沖田総司が、”...こう毎日、人を斬っていると、幕府の為、国の為とはいえ、正しい事なのかどうか、わからなくなる時があります”と語る場面がある。沖田総司が、言動を決める主導権を担っていないのだ。その主導権は、幕府が担っており、云わば、沖田総司は傀儡である。無論、人は「〜と思う」という形でしかその信条を謳えない為、何が誠かも、わかる筈はないのだが。(あれ、あながち、読者のウケを狙ったものじゃないのではないか、と考えさせられる場面の様に思う。)沖田総司(彼)自身の内から出た信条であったとすれば、迷わなかったであろう。自分はこうなのだ、と侍であれば尚更、頑なにもなって、その信条を貫き通すものである。実は、考える人であれば、この沖田総司以外の、隊士全員が、そう思っていたのではなかろうか?サブカルチャーに、夢を託した上で。 「純真」とは、そこに自我がないもの、「誠」とは、そこに自我がいるもの。それだけのことである。
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