頭蓋骨からの連想...
人の頭を、外部の刺激、所謂、危険と見受けられる(個人によって違うものである、と考えられるが)刺激から内に在る頭脳を守る為に、人体に備わったものである、と仮定する。現在、私は相応の年齢に於いて、これまでに得た知識、経験、想像から、上記の様に考える。頭蓋骨とは、カルシウムもその成分の一つに含まれており、他の人骨と同様であるが、頭脳を守るもの、この意識を持っただけで、特別な感動を受ける(他人がどのように感じるかについては、敢えて考慮に入れずに述べる)。他の人骨と、特別な相違はあるのだろうか。
医学博士の一人が説く一文に依れば、「頭蓋骨とは、他の人骨と同じ成分で構造されており、全体的な頭の枠組みとして働く、脊椎動物の骨様の構造である。顔の構造を維持し、脳を外傷から守る。尚、解剖学では『とうがいこつ』と読み、形質人類学では頭骨と表記して『とうこつ』と読み、『ずがいこつ』という読み方は、学問的には用いない。白骨化した頭蓋骨は、『髑髏』と呼ばれる。骨格は、膜性骨発生と軟骨性骨発生の両方によって形成される。内臓頭蓋の骨格、及び、神経頭蓋の側面、及び、屋根は、膜性骨発生(真皮の骨化)、脳を支持する骨格(後頭骨、蝶形骨、側頭骨、及び、し骨)は、概ね、軟骨性骨発生により、形成されている。誕生の時、人の頭蓋骨は45個に分かれている骨的要素で構成される。成長と共に、これらの骨的要素の多くは、徐々に、癒合して、硬骨(例えば前頭骨)になる。(中略)新生児は産道を通過する時や成長の為、これらの部位は繊維状で移動可能になっている。(後略)。又、脳が外力を受けたり、損傷した場合、重症になることがある。頭蓋骨は、その硬い性質により、損傷から脳を保護するが、髄膜血管の出血や、脳自体の損傷によって、頭蓋内圧が高くなることが有り得る。脳が膨張する為の空間がない為、過大な頭蓋内圧が進行すると、大孔(大後頭孔)から延髄へ脳幹部が脱出し、最終的にはヘルニアになる(大後頭孔ヘルニア)。この段階に達すれば、死は不可避であり、緊急手術により、予防的な内圧低下措置が必要である。この為、脳に損傷を受けた患者は、注意深く観察しなければならない。(中略)。目や髪、肌の色といった骨に残らない特徴と共に頭蓋も系統関係を示すことは、考古学者や、法医学者の間にも、知られている。脳、頭蓋、顔面頭蓋、耳小骨に分類される。」とある。 一言で、頭蓋骨と言っても、様々な部類に分かれ、特に舌骨、蝶形骨、涙骨(るいこつ)、又、鋤骨等、”こんなものあったの?”、という感想が湧きあがり、又、細かな部位にまで、細かな人骨が用意されて構築されており、驚愕させられる程である。このような、命を司る、人体の形成を付きつけられると、自ずと、神の領域に於いての産物である、と思わせられる訳である。この世に於いて、人間が、命そのものを個人的に創り上げた、という事例を、未だに見知った事がない為に、余計に、そのように思えるのである。 私は、「頭脳」というものに対して、他の人体を構成する器官と比べて、特別な評価、思惑、とを抱いている。「鎖骨」と言われても、とりわけ、そのものから得る、特別な感想は湧かないのであるが、「頭蓋骨」と言われると、様々な、思惑、想像、等が、私が持つ独断の見解とを以て、想起させられる。「独断の見解」とは、私が、様々な物事に対して、一定の感動を憶えた際に付随して抱く事が可能である、私の素直な感想、又、私の偏見、であり、その物事を感じた上で、その物事と私との間に生れる、私の感情が引き金になり私に憶えさせる意識、見解、の持ち方の事である。そういった、意識と、見解、とを以て、私は、「頭蓋骨」というものを認識しようとする際に、その「頭蓋骨」というものは、その「個人」を存在させている物質(人体組織として捉えて良い)の内で、その「個人」を存在させ得る、最も、中心的な役割を担っているもののように思われて、その「個人」がこの現実という世界に於いて、その存在を、例えば、他人に示唆する事が出来る、術を備えているその「個人」の存在そのものである、という想像にまで、思惑を飛躍させる事が出来るのだ。そういった体裁に見える頭脳というものが、外郭である頭蓋骨というものを取り外されて、人為的にいじくりまわされたり、又は、外力を受ける事により、頭脳そのものが受傷して、脳の膨張等を起して、本来の頭脳の物質的な形、又、機能に於ける本来の能力が変化させられる、といった現象を見ると、その様な経過を受けた「個人」に対して、私は、他の人体組織、人体器官、が損傷した場合と比べて、特別な悲しみに似た感動が心中で起こるのである。 私の母は、或る時に、脳内出血により、それまでの生活から一変したした環境へ、その(母の)存在は投身させられて、私は子供として、その経過を見知ったが為に、その母の人生に於ける経過を眺めながら、このように思うのかも知れない。受傷当初の母は、国立病院内のICUに於いて、迅速な処置が施されて、回復に導かれている、と担当Drが言っていた一方で、意識はうつらうつらであり、体に力が殆ど入らずに、寝たきりであり、その後暫くしてから、より回復したが、ICUから一般病棟に移された後になっても、言葉が以前のようには話せない状態に置かれていた。しかし、自分で動ける様になった事、以前のようではないにしても話が出来るようになった事、記憶が以前のようにあるように感じられた事、これだけの自然から得た財産だけでも、十分に、私と父は喜んだものであった。 母の経験を通して私が経験した、人間にとっての頭脳の役割、又、その頭脳が損傷を受けた場合に、その人体に対して、どのような影響を及ぼすのか、という事について、現実に於ける、斬新とも採れ得る、その光景、情景、というものが、私に、上記の様に、頭脳、ぞれを保護している頭蓋骨、というものに対して、このような、云わば、特別であるとも考えられ得る、思惑を、抱かせているのである、と、私は信じている。上記に記した様に、頭脳が「個人」というものを形成している神秘を秘めた、云わば「核」の様な存在である、という思惑にまで連想が膨らみ、又、その「核」とは、云わば「裸の個人」である、というものを追想させられるのである。その「裸の個人」について思いを馳せた時に、私は、その「個人」を、無性に、何かから、守りたくなるのである。
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