訪問者
ポツン、ポツンとあるこの先の楽しみ。それがわかっていては、心から楽しむことはできない。心の弱い僕だ、腹立たしくてしようがない。生きてることが、たまらなく憎くなる。誰も僕の家には訪問してくれないのだ。時々訪問してくる友達にしても、これと言って楽しいことは持ち合わせてなく、やりきれなさを芽生えさせることが多い。くやしさながらに電話してみようと心に思うが、できることなら向こうからかけてきて僕のプライドを崩さない欲しいのだ。下らないプライドというのはわかっているが、それを体でわかる機会がないので未だにその自分はかえられない。せつなさだけが部屋を飛び交う。僕が訪問者になろう、と試みる。気まぐれで、いい時と悪とがある。一人でいることと、他人でいることと、どちらが幸福か、それを夜に一人で考えるのだ。それでも、一人でいることの方が..と思える時もある程。この先、どうなるのかわからない人間(ひと)の運命。それ等を気にせず生きている。何が起こっても仕方がないのだ。クリスチャンは、その運命を神が決めると信じている。この世間での出来事は、神に思われた世界での出来事か?ポツン、ポツン、とこの先の僕の人生、楽しみが見える。それもすぐ先までしか見ることはできない、その先をムリに見ようとしたら、下手すれば滅びかねない。訪問者がその先を持って来ることもある。面白いものだ。
”シンドラーのリスト” 戦争、ひとつひとつを見れば痛々しく、見られない。金と欲、理解できない。今のわずらわしさなど消える。言葉はすでに消えている。人間とは苦痛を感じる、会社の経営者は”失格だ”と言う。ある人は痛みのないように死なせる、と言う。神はどのように聞かれているのか、沈黙はまだ続いていた。これだけの数に命があるとは思えない、人は他人の中に入れない。だが、経営者は言う。”ようこそプリンリッツ(永眠地)へ”と。信じることは、人に対してできるものなのか。寒い地方だ、信じる集中力に欠ける。男は、天を見上げ続ける、女は、欲を忘れることはできない。安楽地と思って着いてみれば、そこは地球の果てだった。人は、この世に自ら地獄を創り上げた。”なければ寂しい”と言うのだ。それを言わせたのは、神か、悪か。僕(ひと)はそれをも信じるしかない。 今の世の中、幸福の真っただ中。戦争に終わりがあるように、平和にも終わりがあるのか。死ぬのに、リストがある。それを作ったのは誰か、わずかな平和の余韻に、善者と悪者に分かれた。この平和の世の中は、どういう時なのだ、これがわからないとは悲しすぎることだ。紙一重で、人の命は決まる。殺人鬼がこの殺される衆の中のどこにいるかわからない。冷たい人間の命の出所は、どこなのか、考えれば怖くなる。人の心理を考えれば、その数は果てしない。人が頭の中で考えられる数の限界は?男と女の力の差がはっきりと出ている。天国と地獄がこの世にあるように思える、人の世界はもう嫌になる。頭がいい、と言うのは、得てして、神に喜ばれるとは限らない。誰が救世主なのか、考える前に、人は天に生きたい。ある人は紙に毎晩書きつづける、”光あるところに悪がある”と、女は仕事はしない。男の仕事はできないのだ。戦争時に、安息日とは?イエス・キリストは戦争中に来られた。信じる者は信じ、不安がる者は不安を抱いた。イエスを動かしたのは神、あの頃を僕は知らない。ただ、教会で神様の話を聞く時だけ、その頃を想像する。でも、僕には欲があり、命がある。この世で、死以上の不幸はないという。人を救うのは、人ではない、神だ、と。僕は苦痛を忘れたい。そして、神に祈って、この欲を取り除いて欲しい。人は金で、人に人を救うように頼んだ。ユダヤの人達は、その苦しみを知っている。僕はそれなのに、神を幾度か呪った。そのつけは、廻ってくるのか、僕はただ、神に創られた人間(ひと)として、素直に欲を嫌っただけだ。どこに行っても、聖地外国には、十字架がある。これほどに、キリストは人を救おうとするものがあるのか。一時に600万もの命が、人に奪われた。その命の行き先は、天か地か、今は、この地球には、石としてでしか残っていない。通り過ぎた人の多さと、時間の多さは、神の手の中にあると信じたい。あれからどれくらいの時が過ぎたか、わずかかも知れない。僕は、この世の中で神を見失いかけている。殺される時を見れば孤独に狂う程なのに、この平和の間が僕の持って生まれた欲を引き出す。人である以上、生きるために欲はある。それは、本来どういう姿のものなのか。僕にはわからない。ただ、殺されかけた大勢の中の一人の人を救う人を見た時、僕は感動したのだ。”シンドラーのリスト”を見ながら文字を書く僕の姿が、テレビのブラウン管に映るのが見える。
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