男女模様。
先行不安だ。今、ここで、こんな白紙を前にして、文をかいてはいるけれども、この所作でさえ、苦しくなる程、無重力な懊悩の気配を集めて、今後の糧にしようと思い込んでいる訳である。今日、夜勤のアルバイトを終わらせて、一日休みの水曜日を暮らしている。バイト先での出来事を数え、いつも通りに、神経を無理矢理休息に押し込めて、安心への一路を辿っている。この一連一つを取っても、かなふり捨てられない、一時の休息の内でジタバタ始める滑稽な造形作業であることは、誰が何と言っても自分が知っている。明日になれば、又、学校がいつも通りにある。学校の行きしなにある、ドトール・コーヒー店で、一杯のカプチーノを飲んで休息をし、そして、学校までの徒歩の距離を図りながら、今日一日を空想し、理想の要所にあてはめる。山の手行っても同じこと。単位不足の状況変わらず、受けている講義もやがていつもの如く、つまらないと息をもらし、教室を出る。そして、本屋、天屋、からゲーム・センターまで、一通りの行きつけでそつなく楽しむ。誰か知人はいないか、それだけを期待に行きつけ、様にならないカバンをぶらさげて、歩き回る。時に、スピードを上げ、時に、倦怠が邪魔をしてスピードを落とし、まるで徘徊である。いつ、打ちのめされても、おかしくない。風が吹いただけで倒れそうな体裁を備えながらに、街の勢いまにまに流れているだけ。一つ部屋に籠って、あやしい哲学論を吹いていた自称「狼藉者」の友人でさえ、就職活動でそわそわしている今日。要らない窮屈な美談を尻眼に、顔の映る掲示板を横目にして、少し、格好をつけながら、後の輩の的となる。既に、次に行く場所を捜している。“学校”はせまいなぁ、などと知った愚痴をふりまくしかない手立てを携えながら、次の場所は大抵、違った本屋か、人混みの酷い渋谷の路地裏である。なまじ、健康を気遣いながらに校内のベンチに座る事さえ試してみるが、一杯に成った情景はここを嫌う。”我には、そこは、人が多すぎるのだ。それでも、いい隠れ蓑になるとは、その多さに感謝しているが、しかし、同年代ぽいのがどうも気になるのである”(その日の通学路で見たあやしげな光景が、妙ないざこざを心中に起して)気忙しい多弁を喋らせて来る。細かなことで気を病める私は、息つくことが少ない。仕方なく校内の自動販売機まで足を運び、どれを買うか迷う振りをしてみる。本当は、それ程買いたくもないのだ。
横行く女を尻目に、つい、私の心もとなさを改悛する。先手を打たれた気分だ。(ふと、気付く。今、こうしてつらつらと文章が奔放にかけているのは、街中でかいている時のように、後からの手直しを覚悟した上でのものかきの体を、保っているからだ、)なにしろ、その日を過さねばならぬのだ。木曜日はアルバイトがあったかどうか、考えてみる。否、金曜日のアルバイトは、土曜日と入れかわったから、木曜日にはないのだ、と大げさに頷く。きちんと確認もしないで、その頼りなさに身を預けている。いい加減な輩にはなれない私は、行きの通学路でも、帰りの通学路でも、馬鹿みたいに同じ事を考える。左後頭部の痛みを少々憶えながら、いつしか、ここ(大学)へ来ると、自殺を考えてしまう、と言ったことを、思い出すのだ。放任主義を我が大学が掲げる為か、自由で、きまりがなく、そのくせ、なにもできない私の姿を識別させる冷風は、今味わっているこの世間の源から吹いて来る。無様と嘆く前に、先ず、自殺である。自殺と言っても、そんな大袈裟なものじゃない。この世から失踪するだけのこと、である。表見、あれだけ明るく振舞われた横で、これだけ暗い我の姿を間近で見続けている訳である。校内の、自由、放任、を色彩った学帽の爺様も、虚無に埋もれて私を見失うことだろう。暈意、私にとっては無意味なことに思われる。もはや、ベンチに座り、煙草を吹かすだけの窮地に陥って、“死に急ぐ鯨たち”の魅力に打たれて、理想へとまっしぐらである。挙句の果てに、コールド・ゲーム。私に、本を読んで、眠りにつかせて、誰か永遠を呉れる者は居ないだろうか。ドトール・コーヒー店でも、いつもの躁病に駆られて心臓がばくばくなり響き、微熱の軽さを覚えるまでに、もはや、続きそうにもない。自然に考え出すものは、大抵、女の体裁である。自分がもしも、生れ変わって、絶品の美顔の持ち主で在ったなら、恐らく、今のこの境遇も異なっていただろう。否、絶対に違っていたものに相違ない。
時に、女の立場に立てる我だけに、その言葉の説得力は大きい。すべてが違ってくるのだ。細かなことで言えば、友人への対偶、そして、世間に於ける持ち前の在り方、アルバイト先での対偶、行く末は将来のビジョン(生業)、躍進の足掛かりまで。きっと、絶品の持ち主であったなら、その女というだけで、まわりがちやほやと支えてくれるのに違いないのだ。我が、女から教わったことは、山ほどあるが、それだけである。ただ、ただ、健康のことを気にしながら、先ず、長生きの秘訣を知る。そして、まわりにいる、垢抜ける事をしない男の友人を配下に位置させ、ステータスを固める。絶品ならば、それくらいの事はたやすく、当前の身固め(コト)である。一定の掟に従えば、もう、なにも、不安な将来の過程など気にしなくても良いのである。絶品ならば、会社のお茶くみでも、華があるというもの。その辺りの事情くらい、会社の社長ともなれば見逃さない。何処からでも、自ら華を添えることができる存在である事に、自力で気付く。美貌とは、あらゆる苦しみを絵に変える。明日にでも、ゲームセンターへの通い詰めは止め、同様に入り込むとしても、浮浪者の吐き溜めに降り立った天使の体で、降り立つ自分の姿を見、明日には、その経験が糧と成る。同じ、ゼミナール教室でも、困った顔をして行けば、いやでも教授が気に掛けて呉れ、まわりのぱっとしない連中どもがケアしてくれる。とにかく、そこに行けばいい。問題は自滅する。あとは、自動販売機に降りて行き、カフェオレのカロリーの低いのを選んで、座って飲むだけである。剽軽な顔をして、飲んでいればいい。絶世の美女ともなれば、男(又、同姓)を魅惑してどれ程、その手を逃す手はないのである。助けてもらえるなら、一生、利用すればいいのである。大抵は、手に入る。何かとかこつける基本理念は他(ヨソ)にして。そして、あと、絶世の美女に生れてからは、懸念すべきものが、AV業の存在である。そんじょそこいらの女(モノ)でさえ、これ(AV)に流れればそこそこ儲けられるという話。憧れの念を、幼少より抱いていたあの歌手(女性)が、元AVの仕事やっていた、という事実を知った以上、もはや、気に掛けるものは鈍る。
“所詮は濁った世界”、友人の幾人、又美顔のあいつでさえ、そんな愚痴を説教気取りで話していた姿が瞼に映る。これからも、その友人とは何かと縁を共にしなければならない仲であり、ここで壁を作ってしまっては、生れてきた私のためにはならず。要は、付き合いにしろ、出世にしろ、生活にしろ、お金である。金があれば大抵のものは手に揃う。“ナンバーズ”などいう、頼りない、チャチな稼ぎに明け暮れている私学の雄とは、桁が違うのだ。成程、独立もしやすい。“毎日、大隈講堂の前(洒落者が戯れる場所)を通って、重そうなカバンを背負い、夢想の話をしながらゲームセンターに通う帽子男を見てると、哀しくなるわ。”、あんな女でさえも斜交いにして呟く。しかし、どの道、その男の存在も、この美顔を目前にすれば、ひし、と胸の帯を締め、近頃の活力を煩いながら、明日の活性を自身に囁いている。この時世にも感謝したい程。日々、愚痴しかこぼさなくなった男にとってのこの世間に於いて、“感謝”などという言葉を吹きかけただけでも、大したものだ。あとは、一億程の大金を目前にした沙汰でも、ビクつかぬ程の神経を成長させれば、世の中の幸、不幸は、は女の前で完遂する。時代も又、人間界におりて、女のように身変わりするものなのだ。女ならば、絶世の美顔を持ち、学内のコンパへでも行けば、そこらの男を否応なしにたぶらかせる程の「女」を創造し始め、明日は変わろう。――――――−。
しかし、男である。巷で、一寸(チョット)は“おぼこい”などと囃される程の、男である。グラビアには載れない。明日も又、生と死との狭間を過剰に意識しながら、歩き詰めの日々が待っているのだ。男には、調子の良い女は現れない。どこからかプライドがあるのか、女は高飛車に止って動こうとはしないのだ。“恥かしさ、”という言葉も出てくるが。明日からも又、基本理念と躍動理念、その間の行き来をくり返しながら、日々を暮れさせてゆく。“時よ、早く経て、”と、うそぶく私は、別人の体裁を持ち始めようとしている。 先程でも話したが、女の体裁とは、実に便利なものである。特に、細かなところでは、その質がものを言って、他人のつけ入る隙を見せない。細かなところというのは、日常の人為的言動一連のことである。現実では、男が議論すべく、どかっと腰をおろして、さも、大きいことを吐くような体ではいるが、実際、現実は、細かな事柄の連続が多い。男が、議論で吐くこと程、大きな出来事は、この現実ではそう、起らないのである。やはり、女の質の方が、現実的に即している、とでも言うべきか。細かなことが多い現実というものは、例えば、写真のことでも言える。よく、観光地などへ行けば、大抵、女が撮りたがるあの写真。至極、日常的な所作であり、誰でも撮れるものだ。その想い出づくりの写真に映るのは、男の身なりよりも、女の身なりの方がそのまま奇麗に映るものである。女の方が、顔が小さく、写真の枠にピタリと当てはまるものであろうか。日頃、化粧の鍛錬をし、その一連のステータスがその質になっている女からすれば、写真という躍動的行為に於いては、十八番(オハコ)を奏でられるものなのであろうか。又、想い出づくりとはいい名称(ヒビキ)なもので、その想い出の写真をあとから見返すこともできる。そこでも、やはり、写真の色褪せ具合の他は変わらず、男よりも女の方がピタリと照準を定めて、映っているものである。写真とは、万人に一目瞭然なものであり、その者の美徳を示すものとしては、うってつけの証拠にもなる。そこで奇麗に映れば、その者にとっては、この上ないステータスの糧にもなろう、と言うべきである。その決りに於いて、適当な質を持ち合わせた女というものは、他人の目にとっても、自分の今後への糧のためにも、やはり衝撃を与える事に於いて、便利なものであろう。あとから見て、「ああ、この時の桜並木 奇麗だったわぁ。」などと呟きながら、心内では、『ああ、この桜並木の姿形の良さも、前に立っている私のために囃した道具ねぇ。私の“映り”がいいわ。』という状況も無きにあら非、在っても良いものだ。何にせよ、満足のいくものになる。女は、細かなことで喜ぶ質に出来ている。あと、他には、爪である。吉田拓朗の唄にもあったが、昔の女は自分の身を外敵から守るために、爪を伸ばしていたという。よもや、これを男が真似れば、特別な目的がない限り、陥りはしまい。これも又、細かなことである。よく、仕事先や、街中で見かける際には、女の小指や、四指を覗いてみると、爪を伸ばしている輩が多い。覗かねば見れはしまいが、覗いてみると、ファッションとでも言うべきか、女は今でも爪を伸ばしている者が多いのだ。世間に於いて、これはビジュアル系などと囃されているアーティスティックな役者も、やってないことではないが、しかし、自然に、生業について考慮すれば、この街中の女の方が分が大きかろう。やはり、男は、爪などという小手先でなく、その大きな体を利かした、腕力で身を守るもの。目を閉じるのは、男の方である。何にせよ、いずれにしても、視野に追究を持たせれば、小手先の技術とは世間で息をしている事実がわかる。爪も、女の武器である。あと、少し、その追究した矢先で詳細を言えば、痴漢騒動である。幼少の頃より、男は、母親から厳しく言い聞かされたものであろう。少しでも、妖色の匂いのする雰囲気があれば、私など、母親に、目隠しをされた経験がある。それだけに、二十歳を過ぎた男となれば、性行為に携わる一線を除去された際には、その許容がたまらなく飽きないものになり果てよう。聞く話によれば、七十歳を越えた老人でさえ、女の裸体には惚けないというらしい。そういう、社会ぐるみの環境の中で、一段、昇華させられたように見える女の体裁は不意に、一冊の書物の内から、その色気を暴走させる力を持つもの、という錯覚を覚えさせられる。古来に於ける、“姫”という名の貴重の重厚にでも、気付くというもの。基から言えば、女の存在なくしては、男に権力があったとしても、その男は、子孫繁栄は望めず、新しい環境でもない限り、途方に暮れる。日常に於いて、女の存在は、常識の内で生き続ける訳である。男は、今になっても、女に魅せられる。男には、女の存在が、この現実からかけ離れたロマンの地を司る、理想の源に成っているとしても、女にとっては、男の存在は、一種の躍動写真に映るモンタージュの一面でしかない。ロマンへの現実的なかけはしは、異性との間に生れてくる、子供に向けられるのだろうか。しかし、根本は、既に、違っている。美貌の女が増えている。お道化た男が、その魅力に理想をぶつけて、得体の知れない生き物を眺めている。このような繰り返しが、ずっと起っているのだ。
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