人間はサイボーグか。
人間はサイボーグか、それとも、単体なる有機体か。神により、操られている単体有機体のようにみえる、この地上に於ける生き物、として存在するのか。人は、それ等の真実に対して、恐らく、何も解らず、右往左往している。この、「解らない」というところが、神と人間との間で、このように思惑が展開されるきっかけにもなり、新たな世界を生み出そうとする追究精神を生ませる。サイボーグとは、辞書を引けば、新しい環境に順応出来るように、人工臓器をつける等して、機械によって、作り変えられた人間、とある。「新しい環境」とは地球であり、「人工臓器」とは神により創られた人の臓器であり、「機械」とは、神の力を意味する。現実では、人は、人為的な模範の内でしか、生きることは出来ず、所謂、超自然的な物事については、推測の域を抜け出せず、相応の答しか生み出せないでいる。恐らく、このような思惑が、相応の小説や、アニメ、映画、又、宗教まで、生み出したのかも知れない。人が、サイボーグなのかも知れない、という私の思惑を生んだ、きっかけは、人には寿命があるとし、何者かによってその事実は決められた事であるとし、又、事故や、病気等、望まない出来事により、人は死ぬ事があり、詰まり、人の支配域を越えた所で、人が支配されており、人の生態的な、絶対的な、在り方は、上記の理由に於いても、人の能力を超えた何者かが、人の世界を外側から見て、支配しているような気がしてならない、という思惑が在る故である。聖書に、「神は人を創造された」とある。私が今述べている内容とは違ったにせよ、神が人を創った事実は一致する。神とは、人より上位に立ち、人より能力がある者の象徴として奉られていたりする事は周知の徹底であり、人より能力がある者が、人を創ったことについての事実を裏付ける、証拠のようなものになる。未信者でも、「神」という言葉を口にする者は多いだろう。人は、歴史の内から知る知識により、「神」という存在を知っているが、その知識がなくても、人は、本質的に、「神」の存在を知る者ではないだろうか。無論、存在を知るだけで、その内容まではわからないであろうが。しかし、その「存在」について、知るきっかけを持っているのと、持っていないのとでは、大きな差がある。そのように思うことが出来るというのは、そう思うことが出来る要素を、人は持っているということになり、人には生まれつき、その要素が内在されている、という事である。思い付き、というのにも、その人の本性が出るものである。神と人間との主従関係のようなものを、私は、思わせられるのだ。神によって創られた人は、その創られた直後に、「創り主である私の事を憶えておけ」等と、神から言われ、一旦、記憶が途絶えて、この地上に生まれる。しかし、創られた事実が存在し、その人の能力を超えた事実により、その事柄から自分が生まれた事実を忘れることが出来ず、もしも、「憶えておけ」等言われていれば尚、主従関係はその個人にとって顕著な事実となり、忘れ得ず、ふとした時に、思い出すように、「神」という言葉を口にする。そのような経過の有無は定かではないが、人がこの地上に生まれた神秘を思う時、私は、自然に、思惑が、先ず、宗教関連の事柄を経過し、ついには、このような想像に行き着くのだ。これ等は証拠がない故の陳述となる。人が、神によるサイボーグのような存在である事への想像は、否定し切れない。又、人には、自由という選択肢があり、言動は個人により、どうとでも出来るものである。又、同時に、この世には、法律というものが在り、言動は自由であると言えど、度を過ぎた行為、所謂、犯罪というものの範囲にその言動が及べば、その当人は罰せられる。聖書にも「十戒」が在り、人はこう在るべき、と、所謂、規定のようなものを、記している。又、その規定通りに生きれば天国、規定に反すれば地獄、等と、人にとって、死後の保証まで定められてあり、厳しいもののように思える。このように、この世に生きる人の自由は、規制されているものである。人の自由にまで、規制の触手は伸びて来ているのである。この自由の外郭を担う独立した存在が在り、その存在は、人そのものを支配する存在であり、人の能力、基準、を越えているという点で、「神の地位」と一致し、そのものも又、神のものではないかと、疑う訳である。人が言う「自由」は自由にみえて自由ではなく、何者かにより定められた自由であり、例えば、計画表の内に組み込まれた一つの要素・予定であるように思える。「自由とは、何か規制があって、始めて存在するものである」等の人の言葉も、神の手の平の上で生まれたものである。これ等の人に纏わる神秘的な事柄を、人が支配出来ない限り、人が神により創られた者、又、サイボーグである事実は、否めない。
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