歴史とは
歴史とは、過去から現在へ、そして、未来へと受け継がれてゆく。歴史の流れとは、又、人の生まれ変わりの流れとは、一体どのようなものなのか。どこへ向かって流れてゆくのか。人として、個人の人生があり、又、私はこれまでの先人の存在を把握した上で、「人類の人生」というものを考える。過去の遺跡等見ていれば、その疑惑等は顕著であるように思え、「この存在は何の為に」、又、現在に存在しているこれ等の物、建物等が、私が生きている現在にある事実をみる時、それ等の産物は私にとって、どのような意味があるのか、という疑問を掘り下げずにはいられない。そしてこれ等の存在は、私と共に、又私を置いて、どこへ向かってゆくのか。又それ等の産物を目前にした時、その疑問は好奇心を呼び、ロマンスを含む思惑にまで、辿り着くのだ。ロマネスク時代、イングランドの歴史、イタリアの歴史街道、フランスの芸術的な建物、それ等に纏わる雰囲気等、今までに在った過去の多大な蓄積は、私の一瞬の感情だけで消化し止めてしまうには惜しく、より「深み」を味わいたいという思いは、発展を含める衝動へと変わる。そして、その発展が或る目的を遂げた所で、その発展がどのようなものを生み出すのかを想像し、その先に、自分が願う感動があることを信じるのである。過去の歴史に於ける産物は、私の知り得ない未来にまで、生き残るものであると予測し、自分の寿命を上回る対象であることを知る。又、過去から現在に存在している事実から、それ等の産物が未来にも残っていることが予測され、未来までにその産物が通る過程には、人との交流、人による発展、人に対する影響、があるものと同時に予測され、それ等の産物は、その時代時代を生きる「現代人」にとって、無駄には成らずに、又、現代に存在している事実を考慮した上で、現代で生まれた存在物とも同等である、ということを思う。それ等の存在物にはそれぞれに、特有の力があり、人の寿命を上回って存在するところから個人の意図から離れた所で存在しているものであり、その力は「現代人」が発展する際の要素と成るものである。その「力」と「現代人」の発展への努力が合さり、過去から未来への発展を生むのである。確かに、現在に於いて、歴史が生んだ産物から、学ぶ事は多く、学業の対象にもなるであろうが、それだけではなく、産物そのものが持つ存在の意味、その意味から発揮される、上記にも記したが「産物の実力」というものが、現代人と共に在ることにより、交流し、影響し合い、現代人によって、新たな「産物」を生むきっかけになるのではないか、ということである。過去の産物がその未来に於いて、新たなものを生み出すその一連を見れば、過去の物は現代を経て発展を遂げることになるであろう。詰まり、過去の歴史の産物は、過去の物ではなくなり、現代人によって生まれ変わる、又自分達を生まれ変わらせる種を持つ、現代人にとっての、「未来へ発展する為の過去の産物」と成り得るものである、と考えられる。人生に於ける人の成長のように、歴史上の産物は、記録されることにより人々の脳裏に残り、それ故に、寿命が長く、何千年、もしかすると何万、何億年、とある、その寿命の内で成長し、その成長の効果は、現代人の思考、手によって、表わされているように感じる。過去に作られた遺跡、歌、文化、等は、現在でも生きているのである。例えば、百人一首にしても、それぞれの歌には、作者の思惑や、感傷が込められてあり、現代人がそれを読んだ際には、その読んだ人は、その人なりの感動を与えられ、又、過去の先人達が何を思っていたかを知ることになり、その感動によって、又新しい創作物等を生み出せば、それはその過去の産物である歌を素にして生み出されたものとなり、一連を通して見れば、発展と成る。全ての産物に於いて、その理屈は言えることであるように思う。過去の先人達が創り上げた、産物に宿った、恐らく無意識に創りだした概念から、その物自体の特質的なライフストリームは生まれ、外界に放たれてゆく。目に見えないからこそ、興味をそそられ、想像の内で、やがて確信に辿り着く、ということがある。「過去の産物」から受ける「感動」というものについて言えば、それ等は目に見えるものではなく、それでも人の言動に繋がるものである。形と成って記録され、後世の人々にも認識されるが、その認識されるまでの過程はあり、その過程にあるものは、感動であり、思考であり、技術であり、それ等そのものは、目に見えるものではない。認識というものを前提に置いて人を考察するならば、人には、人として足りる脳があり、思考力があり、心があり、想像力があり、それ等により、故に人である、と確信し、又その人は、自ずそれ等の能力を用いて、表現する生き物である。確信、確証は、現在自ら信じている認識から成る破片のようなものであり、その元は自然に沿った思考表現、想像、かも知れず、個人が住む人間界とは、誰かによって枠組みされた見知らぬ世界であるかも知れない、という想像の下で、何を思うにせよ確実な拠り所がなく、人が定めたルールの下、又、何者かによって定められた枠付きの人間界の下、でしか、確実な認識は得られないでいる。現在、人が認識している様々な物事の「根」を考えることが大事である。人は誰も、自然の生誕、内部組織、真実の在り方について、必要以上の事は知らなくて良いというように、人の思考に於ける臨界点に在るもの、と認識し、それ以上の正体については、恐らく、誰も知らないでいるであろう。知らない事への探求は好奇心から生れるものであり、好奇心は人の所作の内にあるものであり、人のものである。故に、知らない事への探求は、人の行為の内に含められ、その正体を暴こうとする行為は自然からの授かり物であり、人は飯を食うのと同じように、これ等の行為を必ずする生き物なのである。未知なるものを手中に収め、安心を得る為に。そこで、人の空想が生まれる訳である。ビッグバンが生じた理由、銀河系が成った理由、その正体、人間存在の理由、人間の正体、神の存在を思う理由、神の正体、等について、人は知りたいのだ。しかし、人が、幾ら考察を重ねても、人である為にか、推測で終わる事を知る。この歴史に生きる自分を、あらゆる角度から観察し、確認し、自分と現実との関連について、調べるのである。考えても無駄な事だと言いながら、それでも生きてゆく自分、人、を知りながら、その寿命を思う上では儚く、歴史を思う上ではその内の一瞬を生きている事を知り、まるで歴史上の産物の寿命にあやかるように、自分の生きているこの世界を、未来に於いて、在ると信じる、安心出来る永遠の世界に繋げ、今生きる自分と、自分が生きているこの世界を、未来へ向けて、意味のあるものと成し遂げたいのである。自分の人生が終わる時、その先に、求めているものはあるのか。もしなければ、何の為に今を生き続けるのか。クリスチャン独特の洗練された思考法から言えば、徳は天に積むものである、と信仰の内に埋没し、信じることでそれ等の疑問を一掃するが、見事に、この世に於ける私の言う疑問について考えようとしない。規律を守るかのように。その颯爽とした体裁からは、ここで述べる、私が求める疑問の答えは同様にわからないものとして返らない。わからない以上、人はこの地上に散らばる事柄をかき集めて、想像し、感動し、それ等の内で発展を担うしか術がないのである。上記に記した歴史についても、始まりと終わりを知りたいというのが人情かも知れなく、私は知りたいと思うのだ。その事について考察する時、歴史の正体について解明しておかなければ把握は出来ないと考え、私の生きる時間は歴史上では一瞬であり、私の生前と死後についてどのように考察すればよいか、を考えた処で、思惑は、この世に足がつかなくなり、超自然への思惑となり、神という存在にまで、領域は達するのだ。この世に於ける事柄、詰まり、認識出来る事柄は、この世で解決出来るが、認識し得ない事柄については、記録もあるが、体験していない理由により、私にとってこの世の事柄ではなくなり、想像の世界に突入してゆく。過去からの、個人にとって、贈り物のようである産物が、私以上に人生を生きているのに、私が生きるこの現在に存在し、相応の影響を私に与える。この事実について考える時、これまでの過去が皆、まるで私個人の為に存在するもののように思え、過去の先人達が為してきた軌跡も皆、私の為に為してきた事であるように思え、云わば、私中心の世界を、その過去に含まれる全ての内容が作り上げている、とも、考えられるのである。しかし、私は、それが、自然であると思い、それは、誰にでも言える、云わば、個人にとっての贈り物であると、考える。人は、この贈り物を以て、未来へ自己の発展をし、社会に貢献するべきである、と考える。
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