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作品名:或る呆然 作者:天川祐司

最終回   或る呆然
或る呆然

現実に生きる私の内に「曖昧」と蜻蛉が潜み、その蜻蛉は一匹、揚々として、四季の循環を無視して、生きた。この蜻蛉は燕子花(杜若)を30度見ており、その生態すら知る。誰にも気付かれぬ秘策が織り成した、成れの果てである。しかし、動かない。私が何度か動くよう催促しても動かない。動く事を忘れたように私と空を見詰め、私が殺す算段をしていても動じず、遂には、殺せない。しかし、動いたり、止まったりと、意志を持ち、その蜻蛉はやはり生き物である。花に止まり、花弁を落した事もあった。この蜻蛉とは、私が行く場所に於いて生息し、私が行った場所とは、現在までに数え切れない程在る。忘れるくらいに、私はこの蜻蛉の出現を見て来た。その「蜻蛉」とは、一時、私の「思考による産物」か、と考えた事が在ったが、又、別に生きており、私にはその正体について把握し切れない様子がある。「健康」、「友情」、「夢」、「懊悩」、「空気」、「出会い」、「天国と地獄」、等と「思考による産物」とは、私により姿を変容させる。この「蜻蛉」の正体とは何であるのか。
私が飼っていた犬が死んだ。その亡骸が横たわるベッドの上に、「蜻蛉」がいた。私は友人を助けた事があった。「蜻蛉」は両者の頭上を飛び回っていた。私は友人に助けられた事があった。私にはその友人が「蜻蛉」のように見えた。私は、或る老人を海が呑み込むのをテレビで観た事があった。その「海」が蜻蛉に見えた。…。「蜻蛉」の正体とは、解らないものであった。何にでも内実を変容させて、私に嘘を見せる体裁を、私はその「蜻蛉」が持つと考えた。「人は、人の亡骸に、『生』を見る事がある。自分に在る『生』が、その亡骸に無い事を思う為だ」、このように言う主とは、「蜻蛉」なのか。もしそうならば、「蜻蛉」とは、「生」を持つ者である。しかし、逆も言える。結局、「蜻蛉」とはこういうものである、という答とは、推測の内に在る。「私は蜻蛉よ」、「僕は蜻蛉さ」、等と言われれば、又迷う。この「蜻蛉」が邪悪なものに見えた事もある。最早、無駄な試みが居座るように思えるが、その解明への期待が残る。
蜻蛉を追った者が、別の用事を思い出してその「用事」を済ませる内に、足跡を残さない蜻蛉の行方を見失った。蜻蛉の居る場所について全く見当が付かず、それでもその男は、他に術がなく、あてもないままに探した。探す内に、その男は色々な場所へ行き、時には、蜻蛉の存在を忘れるくらいの喜怒哀楽に襲われた。しかし、暫くすると、又その男は、探し始めた時と同様の態で、「見失った蜻蛉」を探すのである。私は一見、この男の「探す動機」について解らなかったが、私がその「男」に成ると、解った気がした。はっきりとは知らないが、唯、体が、探すように動くのである。何かの契機により、「蜻蛉の正体」も「蜻蛉を探す動機」も解るかも知れない。私は、この「蜻蛉」が生きる世界が、現実に於いて、在るように思う。得体の知れない現実が私に焦燥を覚えさせて、私の、現実に生きる脳と、蜻蛉が織り成す脳とが、相殺し合った。今、この「蜻蛉」について、何も考えられない私が居る。


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