20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:犯罪の可能性 作者:天川祐司

最終回   1
犯罪の可能性

 確かに、犯罪の可能性を、想像して考えて、論じるならば、事実に、現実に於ける論拠がある説を掲げるようにも見える「U13(;アンダーサーティーン)」(勝谷誠彦著)のようなものになるだろう。しかし、空想の中で出来上がる犯罪も又、やはり確実に、存在すると思える訳である。現実では、感情に任せて犯罪を為す連中がわんさかいる。愉快犯や、衝動犯、等がその例として挙げられて、それらをみても、私が言う事は、一理在るように思う。感情とは、人の内から生じるものであり、他人と触れあう前に、他人を理解する前に、自分勝手に振る舞って、相手を傷付けたり、殺したりするのだから、人は皆、他人との関わり合いに於いて、どのような形をみても、やはり、自分勝手に振る舞っていると言わ去るを得ない。とすると、犯罪を為すその瞬間、犯罪者と成る個人を突き動かしているものは、紛れもなく、空想(盲想と呼ぶに相応しいかも知れないが)から生れた衝動という事になる。もっと言えば、人にとっては、他人の気持ち、心、等は、見える対象ではなく、正確には感じ取れないものであり、未知のテリトリーだと言って良い。詰り、この世に生れた時点から、人は個人であり、独りである。独り故に、想像の内で生きるしかなく、何故、自分が今を生きているのかさえ解らない。自分について解らないのに、他人を理解出来る訳がない。そのようなレベルの事柄(話)である。コミュニケーションに於いても、人は常に、相手の気持ちを模索、又、模造しながら、一つのルールに沿って成り立たせている。聖書の十戒。法律。その土地柄に於いて、群れが良しとする、他人との付き合い方、それに伴い、生み出される雰囲気。予測するしかないのだ。人は常に、個人の空想の内から、外界を観ている。となれば、自ず、犯罪は空想の内から起こるものだと、一つ、言えるように思う。歴史的根拠がなくても、史実がなくても、突拍子的に(突拍子もなく)、犯罪は起こるものである。切り裂きジャックの事件を覚えて言えば、念を押す形になるが、「この一連のような事件は、私を境に、今後の、新たなる犯罪史の幕開けとなるだろう」という(恐らく切り裂きジャック)本人の言葉も、本人の内の感情から生れた憎悪が、自ず、本人を犯罪に駆り立てたのなら、まんざら出鱈目ではないという事になる。
 私でもこのような事を考えられるのであるから、親身になり、そういう事を考える輩は、とっくにその境地に辿り着いていることであろう。
 現在の女子高生諸君、自粛せよ。その内、切り裂きジャックにやられるぞ。切り裂きジャックは堕落したような女が嫌いだった。今の女子高生諸君、「私は殺されない」と自信を以て言えるかい?

「机上論」
 いつか、私が犯罪を起こしてしまいそうで、嫌になる。そうさせるのは、私の周りの人間達だ。そのような輩に対して、「人間失格だ」と、言ってやりたい。この、真面目で、正直な、私を、或る時代に於いて、ここまで怒らせて、落胆させて、一瞬とはいえ、衝動的に気質を変えてしまうのだから。私は、何の為の強さを得ようとしていたのか。わからなくなった。その「強さ」というものは、他人を殺すものであり、傷付けるものである。傷付けて、優越感に浸るものである。優越感に浸るくせに、殺してしまえば、未だ、経験がない故に知り得ないが、たちまち、後悔が押し寄せて来る、そんなものだろう。人間に生れた以上、又、私が、私自身のことを、意識的に、知る限り、それにきまっている。それ程に、弱い、強さなのだ。まさか、「恰好」にもならない。なることが出来ないことを、私は知っており、気付いている。そのような「恰好」、欲しいと思ったことは、生来、ない筈だ。それが、一方では、在った。だから、周りの人間達の所為なのだ。私は、自分自らでは、決して思わない、考え付きもしない、思い付きなのだ。私には、この世間が、どこに向かって流れているのか、見当もつかない。正義と悪義、常識と非常識、信仰と不信仰、道徳と背徳、明と暗、光と闇、神と悪、流転と不変、平凡と非凡、正気と狂気、云々…。どれをとっても、右も左もわからず、大抵、正直だけが、取り柄だ。本能の赴く処となる。それで、今、私を取り巻いている、周りが、邪魔に感じるのだ。正直だ。そう思わせるのは、そう思わせる周りが存在する故だ。今まで、幾万回以上も、思い直し、いやまて、と共存を、図って来た。それ故に、今日感じる「今の私」が在る。「ストレス」などと、訳のわからない、どこかの偉い学者の会合などに於いて考えられた、頼りない、その場凌ぎの虚無を思わせる言葉とは、本来、人間の、否、私の生活には不要である言葉のように思えて、異国の者の言葉のようにも思える。だからなんだ、で話は終わる。そのような言葉を聞いても、私の思惑に対しては関係なく、私は、自力で、その「ストレス」とかいう自然の出来事に、打ち勝ち、回避して、今まで生きて来た、と主張したい訳である。「ストレス」とは、自然の苦しみ、なのであろう。なんのことはなく、既に、用意されていたのだ。とりわけ、話し合う必要はない。聖書に、「試練」「味付け(塩味)」という言葉が在る。私が生きる時代は、感覚で捉える事が出来る、この光景一つであるが、それでも、尚、歴史というものを引用して言えば、聖書は、私が生れる以前から在ったもので、その内に記されている言葉も、私の命の始まりが起点であるとするならば、既に、用意されていた、という事になる。私は、聖書に記されている言葉を知っており、その内に記されている「十戒」という、人間が本来守るべきもの、とされている規律のようなものを、神からの箴言であると信じて、少なからず、守っており、所謂、既存するルールに沿って、生きているのだ。その、既存するルールに背くことは、人間として、許されないことなのか。今の私には、全くわからない。


■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 395