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作品名:競争 作者:天川祐司

最終回   競争
競争

「私、そこへ行きたくないの」と、千代子は治夫に言った。千代子は、美大を出てからまもなく五島久作という芸術家に師事して、相応の芸術感覚を携えた才女に成長していた。少なくとも千代子は自分で自分についてそう思っていた。治夫とは、千代子の友人であり、別の大学へ通う今年二年次生と成る男子学生である。千代子も治夫も共に、一度は社会の辛酸を嘗めて来たもの同士であった。久作とは、ここ暫く千代子は会って居らず、専ら、彼が自分に残してくれた物と千代子が言う、銀座の風景を描写したキャンバスだけを自分のアトリエに掲げ、その絵を模範として日々、絵の鍛錬に明け暮れていた。その「風景」とは、千代子にとっては、情景、又憧憬といってもよかった。久作は、千代子と同じ美大に一学部の教授として二年前の春から赴任して来ていたが、どうも同大学の長と言われる者と折り合いが悪く、今年に入り休職届を提出して、山籠りを始めたらしく、その事情について千代子は、同級の荻野春名から聞いていた。この春名と千代子は幼馴染であり、小学校、中学校、高校、大学、と同じで、高校時代に所属したクラブさえ同じという「腐れ縁」で結ばれていた。その辺りの事情が疎ましく思えた頃が千代子には在り、その頃の言動の節々が春名に波及し始めて、「勝手だわ」と春名はよく千代子に、何かにつけて言っていた。当の千代子は言われた場合の半数が、何のことかわからなかった。
 治夫は、暫く振りに彼女に会いに来て、彼女を「新しい題の作品」について素描を依頼したいと口実を作り、彼女を喫茶店へと連れ出した。春の陽気が目の前に来た、三月の終わり頃である。
「さっきの話だけど、何で行きたくないんだい?」と、治夫は千代子に易しく聞いた。
「だって、皆、私の事を退け者扱いするんですもの。行きたいなんて思う方がどうかしてるわ。」
 千代子の目には一時の「夢の世界」が散らばっていた。でも余りにその煌めきは散乱している様子で在り、その「夢の破片」を、次に治夫が話し始めるまでに拾い集める事が出来なかった千代子は、何かを諦めた。
「とは言っても、皆、君の来るのを楽しみにして待っているんだ。行かなきゃ勿体ないじゃないか。」と、治夫は冷淡な思惑を胸に、易しい笑顔で返答する。
「何故、皆、学会なんて言いながら、ゲームに熱中するような目つきでそれぞれの作品をみるの?作品は競争に使う材料とは思えないけれど…」
 珈琲を啜りながら、治夫の返答は遅く、まるで何かに遠慮をしている様子である。しかし、現実に於いて、確実に返答して来た。
「でも君の作品はそこへ持って行かないと評価されないよ。わかるね、評価されないということは,日の目を見ないという事さ。何の為に描いているのかわからなくなってしまう末路を君は辿る事になりはしないかい?だったら、彼等の体裁の在り方には一時我慢して、嫌でも君は自分の作品を彼等に対して提示するべきだ。僕の言う事わかるね?」と、やはり、千代子の言った事に対して、少し遅めに治夫は返答した。二人は、窓から外の景色が覗ける席に座っていた。千代子は、その窓から、燦々と降り注ぐもうすぐ春の陽に心を奪われながら、その中を飛び回る二匹の蝶が羨ましく思えた。
 彼等の言う「学会」とは、幾つかの大学が集まり、定期的に開催する作品審査会の事であり、今年も恒例と成ったその審査会に、千代子が、自分の作品を出すか否かとややあぐねんでいるところに、治夫が肩押しにやって来た訳である。治夫は、彼女の美的センスについては評価していたが、彼女自身の性格については二三疎ましく思う処が在った。しかし、その自分の本音を彼女に言う事はしなかった。彼女が自分から遠くに離れる事を恐れていたからである。彼女は、その辺りの様子に少々気付いてはいたが、問題にはせず、心を真っ直ぐに久作に向けていた。
「わかったわ、じゃあ今回も行くわよ。出して、あとの評価は私聞かない。後で、あなたか春名にでも教えて貰うわ。別にそれでもいいでしょう?」と、千代子はやっかみ半分で真面目な顔をした治夫に対して言った。治夫は一時間掛けて一杯の珈琲を呑み干し、千代子の顔を上から見下ろした恰好を取って、千代子と共に喫茶店を出た。
 千代子の家は誰にも知られない場所に在る。治夫とも約束した場所で落ち合い、喫茶店へ行った。誰かに自分の居場所を知られる事を、千代子は嫌った。その癖に、誰かに見付けて欲しいと、自分の家まで辿る道に指で矢印を書いたりした。無駄な努力だとは知りながら、真面目である。太陽と月はそんな彼女をじっと見ていたが、とりわけ、何も変わった事は起こらなかった。
 学会当日、その日は雨だったが、千代子の心は晴れて居り、雨でも晴れでも同じである、と千代子は考えていた。千代子は自己陶酔し易い質であり、その日の千代子の心中には久作への思いが在った為である。唯、久作の存在とは、千代子にとって漠然とする場合が在った。
 十数人がその学会に来ており、各自、自分の作品を持ち寄っていたが、千代子には彼等の作品が商品にしか見えなかった。誰かの為に描いた絵だろう、とやはり思わされた。案の定、彼等は千代子の絵に難癖を付け始めた。千代子の絵とは、彼等にとって、余り、上手い、と思わせるには足りない淀みのようなものがあった。春名は、その学会でいつもお茶掛かりをして居り、皆に、時々自分が拵えたおむすびなんかを添えて、配っていた。学会が始まる前に、春名は、千代子の絵に、千代子が気付かない程度にお茶を零して「あの時の仕返し」と彼女の足を引っ張った。その「淀み」にいつも文句を付けるのである。内一人は、治夫と同様に、彼女の絵を高く評価していたが、巨大な傘から自分がはみ出る事が怖くて何も言わなかった。その彼は、「芸術家失格だ」と何度か自分に言い聞かせた頃が在る。治夫は、こうした芸術家達に憧れる自称「少年」だった。千代子に対しては自分が幼馴染であるかのような錯覚を抱いて居り、その作り上げた「事実」に魅せられていた為、それ以上の事が出来なかった。
 千代子は片方の耳で彼等の評価を聞き、片方の耳は、自分を唯認めてくれた久作の声を聞いていた。その「久作の声」には、多少、自分で為した虚飾も含まれていた。
「自分は認められなくて良い」と、千代子は思いながら、帰路に付いた。早めの帰りである。彼等は未だ、持ち寄った作品の評価をし合っている。雨はいつしか上がっており、千代子には、雨上がりの遠い空に、久しぶりに見る虹が見えた。あれでいい、と思った。その日から彼女は、家から出なくなった。治夫とも春名とも合わなくなった。何故かと言えば、彼女が生きているからである。


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