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作品名:認識と世界 作者:天川祐司

最終回   認識と世界
認識と世界

この、現実に於いて、人が言うことが出来るすべてのことは、想像論でしかない、のは何故か。人は、恐らく、自分の生前の自分を知らないでいて、死後の自分を知らないでいる。自分という、今在るこの存在物について、自分でさえ、説明することが出来ないで、死後の自分の在り方についてさえ、説明することが出来ない。自分の存在についてさえ、自分では、把握し尽くせていないのだ。今、生きている、ということについてさえも、自分の命が生れた、又は、命が始まった、その瞬間を知っておらずに、気が付けば、この現実に、自分が居た、自分が生きていた、ということを、自覚したという事実が、私をはじめ、恐らく、他人に於いての同様の内実に於いても、言えるのではないだろうか。人は、今、目に見えている、この現実の世界しか知らない訳である。私は、以前に、このような持論を踏まえて、人の生について語る際には、「人は、何となく生きている」という予見を立てることが必要である、と言ったことがある。先述した内容を踏まえるのであれば、「人は、何となく生きている」としか、言えない。この、現実の世界は、個人自らの手により、作り上げられたものではなく、自分が有している命は、個人の手により、作り上げられたものではない、と主張する。この、現実の世界、命は、個人に(自分に)、対して、誰かが与えたものである、としか言えない。この、現実の世界というものについて、客観的に述べてみろ、と言われた場合に、時には、「人間界」とも称される、この、現実の世界で生きている個人は、何も説明することが出来ない、ということになる。このような事実の内容の内で、生きている個人、複数で言えば人々、であるのに、その個人、人々、は果して、この、現実の世界について、「人間界」等と言えるのであろうか。この、現実の世界に於いて、個人、人々が、この、現実の世界、命、の正体を、解明した、解明したと信じ込んでいる、という事実が、人が、想像出来る範囲の内に、成立されている事実が、結論としての答を、会得することが出来るのは、恐らく、この、現実の世界に於いて、人が作り上げた事柄と、誰かにより、範囲を決められた内だけに於いての、事柄だけである、と、自ず、言えるように思える。人として、この、現実の世界に生れて、人として獲得し得た性質により、私は、そのような気がしてならない。

 大衆のルールというものがあるように思える。そのルールとは、時々、啓蒙的な効果を人々に与え、現実の世界に於いて、真実から離れた処に、「偽真実」を、成立させる。人は、どのような環境に於いても、他人と共存し、関わりを持っている。法律があり、人々を規制し、「これが真実だ」と教唆することも可能性としてある。この、現実の世界に於いて、人は、本来、真実の正体を知らない。理由は、この現実の世界に於ける歴史が、個人の寿命を上回っている故である。個人の生前に歴史があり、死後に歴史がある。個人にとっては、自分の一生のみが、認識出来る歴史であり、生前、死後、は、非認識の領域である故に、知らないのである。故に、この現実の世界とは、個人にとっては、「何となく在る世界」ということになる。その世界の内で、真実を考察しても、その世界を把握し尽くせない故に、確立出来ない。故に、他人から「これが真実だ」と言われると、信じてしまい、繰り返すことにより、慣れてしまうのだ。「個性」というものが、最近、大切にされているに思える。「自分らしくある」ことが個性を大切にすることだ、と、簡単に結論付けてしまうことが出来るのは、私だけであろうか。しかし、ファッション雑誌等をみると、そういう見出しはよくみる。流行の内で取り上げられているものである以上、人々の関心を惹き、そのように信じさせることは、可能性としてある。ここで、考察するべき点がある。先述に於いて、「個人は真実を知り尽くせないものだ」と述べた。個人が、そういう存在である以上、人のあらゆる活動から生れる事柄は、想像の領域を抜け出せずに、云わば、架空の決定を信じる他術はない。この、現実の世界に於いて、善悪の基準が、その「架空の決定」により、歪曲してゆかないことを、私としては、願うだけである。

 「現実」とは、機械の故障のように、途中で動かなくなったり、機械ならではの、あらゆる故障に伴う出来事というものが、ないように思える。「神」により創られたこの「現実」と、人により創られた機械というものの差のようなものを感じる。この「現実」が、人の手により創られた、という事実について、未だ知らない故に、敢えて、「神」により創られた、とした。神と、人との、能力の限界、ということについての考察に、自然に、興味を覚える、この現実に於ける所作を、上記のような事柄を考察する場合に於いても、垣間見ることが出来る訳だ。人は、この現実に於いて、「故障を伴う機械」を創りながら、そのような故障を伴わない「現実」に生きている。矛盾を感じる。この「現実」とは、誰により、創られたものなのか。このような、現実に於ける内容を考察すると、この「現実」というものは、人が持ち得る限りの能力が支配する領域を越えており、この「現実」というものを、人が創り得るものとして考えられる、想像の内から、考察すれば、先述に於ける事柄により、考えられなくて、「生かされている」という気持ちになる。
 人は、生きている内に、あらゆる想像により、天国や、地獄といった、架空の空間を作り上げている。これ等の事象は、この、生きている世界に於いてのみ、想像し得る事柄であり、この「生きている世界」を離れた空間で、し得ているものではない、と知る。従って、人は皆、この「生きている世界」に於いてのみ、様々な学説や、架空の論証を成立させることが出来るのであり、人の観念、思想、感覚、心理、等から生れるすべての内容は、この、「生きている世界」、即ち、現実の世界、に於いてのみ確立し得るものである、とする。故に、生前、死後、の空間、世界、についてどうのこうのと言えることは有り得なくて、宗教的概念の内で唱えられているような、あらゆる、想像論、若しくは、理想論、等は、この現実の世界に於いてのみ、確立されている、と言える。この、現実の世界に、人が生きている故に、それ等の、人の主体的行動から生れた、所謂、「○○論」なるものは、人にとって、覚知し得るものであることが出来て、人の歴史に於いても、形として残り得ているのである。詰り、人が、人の思想により、語ることが出来る範囲というものは、この、現実の世界を、離れたものであることは有り得ない、という結論に至る。人が、天国や、地獄に、自分が、或いは、知人が、行くことが出来る、又、行かなくてはならない、という、喜びを感じ得る論(所謂、幸福論とする)や、悲しみや恐怖を感じ得る論(所謂、自虐的、憎悪的、悲観、論とする)という、想像的な論を、あたかも、現実の世界に於いて、自ず、実現可能にみえる、理想論として唱える際には、それ等の所作はすべて、この、現実の世界に於いて成されている事実であるということを覚えた上で、天国、地獄、という世界は、この、現実の世界から、掛け離れていることを知らなければならない。宗教によって(特にキリスト教によって)、それ等の掛け離れている二つの空間の差は、信仰という言葉と、その内に伴う信念によって、現在に於いては埋められている。


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