随想文にて記述のこと
女とは、妊娠という経験の持ち主であり、命を司る(管理することの意味として記す)ものに近い存在の故か、命をどうこうする際に、なんの躊躇をも見せない時がある。それが、男からみれば、私からみれば、酷く冷酷で、度胸が良い、とでもみえるものである。気に入った命(者)に対しては、寵愛する児のように可愛がるのに、気に入らない命(者)に対しては、形容を憚る程に、冷酷になれるものだ。女とは、どのような存在なのか、本気で考えたこともあった。所謂、男の、否、私の、敵なのか、とも考えたことさえあった。まったく、理解出来ないのだ。女が、自分にとって、敵か、味方か、わからない、曖昧な処が、尚、結果として、恐ろしくなる。私の母親のことを思えば、私の母親は女であり、ここで言う「女」と共通する性別である故に、私の母親を女として認識することに執着し、女に対して、前述のイメージを逆に辿り、女を母親として認識することに執着し、私は、母親に対して、愛おしく思う故に、俗に聞いたことがある「女という存在に、自分の母親のイメージを重ねて認識する」を、自然に、私もしてしまい、女を殺し切れない、でいるように感じる。私は、母親とは、女とは別の生き物であると、思い込みたい。女ではなく、母親なのだ、と。母親である前に女である、という理屈が、その女の子供にはわかりたくない事柄のように、私は、その女は、その子供にとって、母親であって欲しいのだ。私が持つ、母親へのイメージと、女へのイメージは、別のものであると言える。母親は、女であるべきではない。母親は母親であるべきだ。果して、女とは何者なのか。一つの会話をしていても、多方面に、私なりのそれ等の行為から受ける感覚としてはパッパッと、注意の矛先を、わざとなのか、変えて、全然、落ち着きがないようにみえる。私は、そのような女とは、会話が、まともに出来ないのだ。日常の事象に於いてよくあることである。私はよく思う。このようなものと、一緒に生きたいとは思わない。私の周りに居てくれては迷惑だ。そう、私にとって、女が持つ特典は、観賞としての良点と、欲しいと願う性的快楽を与えてくれ得るという良点、くらいのものだ。私は、今まで生きて来て、未だ、子孫繁栄というものに対しての興味と、愛着が湧かない。結婚というものが、人生に於いて、在る。一つ屋根の下で、どこの、どんな生物かも知れない生き物と、唯、上記の特典を手にする為だけとはいえ、一緒に生活など出来るものか、と思っている。現に、特に、結婚をしている輩の気持ちが知れない。否正直、知りたくない。女と、相性を合わせることが出来ない、悔しさがある。自然に従って生きているという思いの下で、結婚することが正しいと肯定したい気持ち、それについては、私も人間である故に流石にわかるが、一方で、自然に、考えれば、やはり、不気味な話である。浮気、不倫、離婚、慰謝料、養育費、嫉妬、背徳遊戯、殺人、とたちまち5指では足りない勢いで、そのような、男女の関係から生れる問題が、世間に露呈されているではないか。過去よりも現代の方が、そのような問題は多発しているのであろう、と、今を生きている故にか、思う。しかし、それ等の可能性を秘めた事柄が、男女一緒になって、初めて生れる、という点で、そのような問題の件数の差は問題ではない。子供などが出来れば、尚更、問題解決の定義は厄介になるであろう。親の勝手、気まぐれ、で、子供の権利が剥奪されている状態を、現代に於いて生んでいる、と言ってよかろう。自信がない親は、子供を作らぬことだ。世間のそれ等の問題に纏わる、浅ましいと思える、流行に、圧(お)された人が、人としての道徳を守った上で、生きて行かなければならない、という義務感に対しての人の思いが、世間で行われている、上記で述べた、そのような問題に纏わる行為を、繰り返していることを知ると、何か、薄れてゆくように感じる。罪を犯したことに対する悔い改めの重要を重視することさえも、殆どの人が、していないように思える。言葉についても、様々な用途で乱用され、本来、人が、遣う表現からは掛け離れて、別の表現が生れて来ているように感じられて、それ等の表現の在り方の幾つかが、私は、気に入らない為に、他人との会話を避けたい、という思いに駆られる。現代ならではの作物が、生れたように思える。それ等を、現代人は育て、人に纏わる物事の殆どに、その、現代人の内の個人が持つ「思い」から生れた「流行」を組み入れ、一つの形にしようとする。「その流行に染まらなければ現代人じゃあないぞ」と、私は、言われているように感じ、とりわけ、染まったからといって、私は、その将来には、何も価値を見出すことが出来るものが生れないことを予測する癖がある故に、染まることを拒んでいる。現実は、例えば、私に対して、誘惑と罰の、両面を持った虚勢のようなものを、押し付けてくる。私には、身勝手から成る行為であるが、この現実を、馬鹿げた世界のように思える。このような世界が今後、永劫に続くならば、この世界になど、何の未練もない、と言い切りたい思いである。そして、きっと、このような世界を作らせたその契機を作ったのは、女であると、私は密かに、確信している。私が感じる、この世間の変わり身の早さは、「女の変わり身の早さ」に、非常に、よく似ているのである。その「早さ」は、私なりに形容として、「軽い」と感じられる。パッパッ、と、切り替わる視点と、使い捨ての商品を操るメディアが支持しているように思える視点、が似ている。プリクラは、女の、或る行為により感じさせられる、気だるさが引き合いに出され、私なりの感想として言えば、気だるくなるような煌びやかさに包まれており、それ等の「気だるさ」の質は、同質のように思える。コンピューターによるインターネットについて言えば、情報獲得等に至るまでの手早さを出元の会社が支持している事実を私は知って居て、その過程よりも結果を重視する、ように感じられて、先ず、横に、膨大に拡がる商品陳列の在り方などは、女の趣味の拡がり方にも似ており、気まぐれとして、縦にも深く、マニアックなジャンルも確立されている、その有様は、質よりも、数を、重視しているように感じられる。指先、手作業で、すべてが片付けられ、力が要らない女の世界の確立、を助長しているようだ。大工などの力仕事は、女の気晴らしの間にでも、みて楽しむ、所謂、余興としての存在、となる。例えば、現代に於いて、モデルと、大工を、比べれば、様々な意味で、モデルの方が華やかに思える。「まぁこんなものがあってもいい」くらいに、女により、観賞されるテリトリーに、男が植え付けられている典型的な例のように思える。「地球は女で回っている」などというフレーズを、映画の紹介見出しでみたことがあるが、私は、男の存在が侮辱されたような、被虐感により生れた立腹感を覚えたのと同時に、ゾッとしたものだ。その事象は、私が上記に掲げたこれ等の事柄を、包括的に表現したものであるように感じる。偶然にしても、無視は出来ないように感じた。男は、私は、これからどうすれば良いのか、疑問の宛もなく、思う。いっそ、男対女で、全面戦争でも始まってくれたら、悩みも吹き飛んで、一応の解決をみるかも知れない等、自棄的に考える結果にもなる。実は、既に、潜伏的に、そのような「戦争」は起きているのかも知れないが。しかし、母親が巻き込まれるのはごめんだ。それについてのルール等は、今後、追々と、考えるかも知れない。カラフルな世界は、女の富貴を漂わせる。昔はものがなく、文明も昔のもので、炭鉱など、足腰を使わなければ出来ない仕事が多かったように思う。現代は物が溢れ、文明も進み、ボタン一つで、あらゆる仕事が出来るようになった。とても便利なことで良いことだ。しかし、男にとって、体力、又、腕力、の必要性を否定されたような、そのデメリットが、「女の世界」を確立させ易い、この世界を到来させたというように考えられる。「希薄化」などの事柄については、ここでは触れない。これまでの上記で述べた論は、例え、偏った見解だ、などと他人に言われても、述べるべき極論には届いているように思える。表現の為に、どのように言葉を脚色したとしても、様々な問題を陳列したところで、ここで言う、人の問題は、人から出るものであり、問題改善の露呈だけで言えば、機械の故障を修理しようと、細かな部品一つ一つ、微小な端子一つ一つに至るまで、故障の原因を追究しようとする事と同じように、現代の問題改善にかける努力すべてに対するその考察と結論は、複雑に関係しており、そして、人が思う事は、推測の域を抜けないでいる。私は、女について、理解出来ない。
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