情死
日本に於いて、あらゆる雰囲気を想像する事が出来る空間が狭く感じる。しかし、「狭い」為に、一つの事柄についてより深く考える事が出来る。人と人との心が近付き過ぎて、ある時には人の心が見えなくなる事があり、その現象とは自分で作り上げているのだろう。余裕を持たない、とでも言おうか、バブルの頃の人間の情景が現在に於いて、潜在能力を秘めたままで、人に降り掛かる。その口から発される言葉はぎこちなく、常に、鏡に映した自分を見続け、他人の言動について無い事を作り上げて解決してしまい、独自の心中に於いては、会話するエキスパートと成っている。真意を話せない日常が続いた。だから”shy”という形を以て無口を装い、その実、何かを話してみても他人にすぐに拒絶される事を空想の中で描いて居て、その言葉の最期までを言い切る自信がなくなっているのだ。その現象が確立された理由とは、「日本の質」がそうさせた、とでも言おうか、”経済発展”が成った事により作成された、人の手から程遠く離れた位置に在る「流行作成機」が自動的に作動し始め、その「作成機」が作成した、人に或る程度の効果を与える空気の一部一部が独自に自己を確立し、人の頭上に輝いている。その内で、激しい上下関係等というものが生れ、社会に浸透し、今日の日本に住む人々のぎこちなさは、そこから生れているのだろう、と考える輩も少なくはない。例えばの話である。 無口を装って、言葉を話さない時間が、日々重なって、長いから、言葉そのものの効果をも忘れてしまい、本当に他人の心がわからなくなってしまう。協調が出来なくなってしまうのだ。それは”臆病”というものではなく、なるべくして成った日々の習慣である。誰かから「その方が良い。」と教えられて、その事をそのまま信じ、日々、それに埋もれて行った結果である。その”誰か”とは、その時代を担う者である。今日で言う「流行」である。日本人はいつまでこの無口を装い続けるのか。暴力と心理不安とに、板挟みになったままであるのか。昔の「腹切り」の過ちを見て、改善したその行く末がこの様か。そう考えれば、生きている事も虚しい。無口になってしまえば、その者は、一人の部屋(セカイ)を持たねばならぬ。その一人の部屋での自分とは、自分自らでもその自立(存在への認識)への確信を確固たるものにしなくてはいけない。詰り、自立、一人ででも生きて行ける力である。その自身をつよくする事に、その者は長い間を費やすだろう。そしてそれは、この現実で通用しなければ意味がない。その部屋の範囲だけでは結局、「一人よがり」で終わってしまうのだ。そこが難しく、今日も人の課題である。その「ずれ」の陰で、”異常心理の犯罪”なる罪事が一日一日起っている。逆説するならば、その”自立者”はその「ずれ」を上手く捌き終えた時に始めて、世の中と共存しているのだ。しかしそれはきっと、その自己の部屋の中でどこかに妥協を覚えなければいけない。かたくな、.....否(この場合、)純粋な自立者は、その妥協を許す事がその至難になっている(であろう)。例えば、その自己の部屋の中で芽生えたものが、とても美しいものだったとしてもその外界(世間)のそれはそれ程美しくはなく、又、その自己の部屋の中で芽生えたものが、とても悪いものだったとしてもその外界(世間)のそれはそれ程悪くもなく、と。人一人の信念が、相応の過去を背負っていてもそれが世間の常識には沿わない事がある。この場合その人は、どんな場合に於いても罰せられ、牢の中に放り込まれる。そこでこの世の中に於いて打算高ければ、その牢の中に放り込まれずに済む場合もある。所謂、この世の仕組みである。人は一人で、この「この世の仕組み」というのに立ち向かわねばならぬ時がある。得てしてその時が、その者が真実の道の中を歩いている場合が多い。人はやがて終に、今日、その「..世の仕組み」なるものを見たのであろうか。否、一種の”病気”であろうか。はた又、どちらでもなく何にもないものであろうか。
誰もが悩みを抱えているその傍らで、すべての終りを期待している。それは今日(コンニチ)、神の耳に届く事が出来ようか。人の質の事である。
”髪をかき上げた時に偶然見かけたのだった。その髪の長さはゆうに鼻の頭まで届き、かき上げなければ目は見えなかった。”
人の生死は境のないものである。人は一つの目にてその人生を見る。その一つの目では、見果てる先は、聞えるものの人の噂のみで人は一人にて、悩み迷う事を続ける。若き日の頃を省みてその栄枯を見、人というものを虚しいものの中に見る。その命の在り方を人は、その盲目の内に忘れてしまい、その命を自分の手の内におさめようと試みる。他の者に良い言葉を掛けてその者から良いものを得た時そこにさえ、その手中の闇は覆ってくる。人は一人で生きているものと勘違いをし、その一人の内に果てようとする。しかし、その事の寂しさはその者の命が尽き果てようとする時、その者を襲う。襲われたその者は、唯若き日の頃ばかりを目で追い、後悔のみがそこに残る。その一つの事を長い間かけて見る事が出来るのは、その後悔の後だけである。それ故に、人は生きる事を迷う。果たして、どれが幸せな生き方であろうか。その幸せは日々の生活の内に「楽」というものにすり替わり、人は楽な生き方さえをと唯求めるようになる。そこで混沌が生れた。人は本能のままに生き、それを正しいとさえする。かつて、ソドムとゴモラがそうであった。その町の行く末を知っている。しかし、その行く末を示している書物は、しばしば物語であると、受け流されている。語れども誰も耳を貸さず、と。その人の多さから、人はそれが物語であると信じ始め、その行く末は見ずともそこにある快楽に対しては見る事を努め始めたのだ。理性さえもが、それに拍車をかける程に。それを出来なかった者は所謂、時の流行に乗り切れなかった者達であり、それでも神の存在を信じた者達である。逆説をすれば、そういう生き方(ソドムでの所業)をした者はそこでは、神の側から離れた者であるといえる。その者達は姦淫を行っているのだ。罪である。しかし、それはこの現実に今日、根強く存在したものであり、今現在、この地を担っているものである。どうしてもその地に生きる人間は、そこを避けて通る事は出来ずそれ等の事を一瞥しなければならない。それがこの世のおさめた人への条件である。汚れないという事の方が至難であろう。詰り、無理なのである。腕力のある者、権威のある者、知恵のある者、或いは美しい者が、勝るようになって在るこの現実である。その者達を遠ざける事は難しい。いかにして打ち勝つか、又共存するか。人にはその事が今日、至難である。
私自身も汚れてしまうからだ。しかしこの両目が見開いている以上、それ等の事はついでに入ってくる。避けられない。一人で煙草を吸う量が増え、己の欲望と向き合うのである。私はこれまでを経験した。とてつもなく寂しいものであった。一緒に居る、愛する者を、鉈でなぎ殺す程に冷たく、無残なものだった。この世に存在したその存在を、己が偏見で否定しなければならないのは、至難である。よく仙人だとか、何かを極めた人だとか言われるあの類の者が思う事であろうか。その事は確信から生れる故、そこまでに至らせ得るのである。それはその存在の否定程に倒すのは難しい。明日、又私は違う女を目にすることであろう。どう言おうが、その事実を覆す事が出来るものなど、この世に居ない。詰り、どうやってその事(困難)を乗り越えるかということである。しかし、それは続いてゆく。女という存在を愛せないようになれば、この疑問は解けるのかも知れず、そう試みる自分が私に囁く。大抵の恰好の良い者は、上手くやっている。互いにくっつき合ってその事を為している。しかし私は終に、最後の最後までその事を出来なかった。唯、一人に対してである。これは結局のところ、女を愛せない体と見て良いのだろうか。否、しかしそれでは余りに虚し過ぎ、又日々の苦悩からも抜け出せないであろう。神のまちがいではなかろうか。始めから男と女という組み合わせでなければ、このような事は起きなかった。私はなき知恵を使い果して、この事に思い果てる。他人などここには居らぬ。誰も今の私を見て、笑う者が居よう筈がない。一生を費やしても良い。否、費やさなければこの問題は解けぬ。費やしてもまちがって居ればそれは、その事はその事に尽きる。私は結局のところ、唯の傀儡であるのか。私に男と女とを支配する事は出来ず、私はその男と女というものに支配され続けている。友人とは下賤な話までし、女が近付いて来れば相応の場所で身構える。既に、愛する者が私と一緒に生れて居れば、こんな事にはならなかったのに。私に生命を吹き込んで下さった事には、別で感謝をする。その事には一点の曇りをも認めず、この「私」という存在への喜びを喜び得た事に、私は感謝せ去るを得ない。その事には身を乗り出そうとはせぬ。しかし、この現実の浮かれた様子には一歩でも三歩でも引いて、終に、消えてしまいたいという衝動に駆られるのだ。それでは元も子もない。何故に、この世の中で私はこういう事を思わなくてはならないのか。そこには長い年月さえ事実としてある。 無学の女。無意志の女。冷酷の女。他人の女。人である私。この「悩み」は、解決し得ない。
一つ一つが大変であり、とてもまともに手が出せないでいる。仕組まれた自由というものが確かに生きている故か、その中を一歩一歩、歩く私にとっては所詮一人でする事くらいしか能がない。否、それさえもこの現実での事であるから自由などとは呼べまい。真実では、自由などこの世にはないのである。皆、何等かの形でその現実に縛りつけられて居り、それぞれの悩みを抱いている。そのところから逃れる事は人には出来ぬものであり、それは又人のするところではないのであろう。自由になれば、人はこの世の人ではなくなる。この世で生れたその「自由」という言葉の意味は、泥地に芽生えた、きれいな水でしか生きる事の出来ない魚の様であり、形而上のものというものである。
「無学の女」 私は人を気にし過ぎてしまう。そこの扉から入って来た来訪者に目と心が行き、少しも、そこで話をしている者の言葉を聞けなくなってしまった。愛情に足りない故か。その意味でのその愛情は、私を駄目にしてしまうものであり又その泥地にて私を生かせるものである。私はそういう者にはなりたくはない。この欲望がいけないのだ。数多くの輩がその事についてイエスに尋ねた。私も少なくともその輩である。明日がある。今日があって、昨日がある。きっとそれぞれ私の目には同じように映っていよう。しかしあの方は、それぞれの日が来るべき一日であり、それぞれ違う一日であると言われているようである。私は今日、聖書さえ余り読まない。しかし、母親は読んでいるが父親も読んでいないではないか。そういう具合に又、私の目は他へ映(移)ってしまう。今日、隣に座ったあの美しい女の事で半日悩んだと同じように、明日も又違う美しい女の事で半日を悩んでしまうのであろうか。私は罪人である。しかし、この世の事実は続く。どんなに忘れようとしても、体で忘れられなくされてしまうのだ。常に、現実は非情である。欲に呆けた輩達は、その一生涯異性の事で煩い続けるであろう。もはや自由など始めからない。男と女が居るそのところから、両者とも煩悶に悶え苦しむのだ。私は他の行為を見たりしたくはない。それによってこの夢の中では、あんなに親しい間柄だったのに、目が覚めてみるとその人にはその人の過去があった。その人は、この私の顔すら知らない。
唯、死の痛みが恐ろしく思え、生きる事と死ぬる事との違いが見付けられなかった。ふと気が付くと病院のベッドの上で佇んで居て、その生を軽んじる。そのくり返しはやがて暗いものとなり、私を襲ってくる。そのきっかけには、日々の平安から生じる無臭の安堵が在った。私は独りよがりの駄目な事だとはわかっていながら、ついそこに手が伸びる。それは中毒というのとは少し異なり、強いて言えば、絶望というのにまだ近い。しかしその絶望は唯の絶望ではなく、その中には、私の内から出た私を吟味する「救い」のようなものが含まれて居り、そのものには私自らの手により、他の全ての人々をも巻き込んでしまう程の所謂打算とでもいうべきか、独りよがりが在り、一言葉では語り尽せない程の僅かな混沌が在るのを知っている。詰り、生きる事への絶望に伴った、一指揮者の居る集団心理を装ったのである。それというのは、これは独りよがりではなく、他の全ての人も、私に近い者は、この心理(おもわく)をどこかに覚えているに違いない、というようなものである。その中には先ず先だって、臆病者という輩が居た。この希薄な時代に答を得やすい臆病は、たやすく人のその淀んだ心につけ込んで来るのである。犯罪、欲望、野心、宗教、(又は偶像礼拝)、そして男女の存在への意識。様々なその中に、その種子は含まれて居り、その種子達はその人の淀んだ心に一度光を見せる。その光とは一見、天の光か地の光かも見分けがつかず、人は得てしてその逆境に苛まれているので、都合の良いように取りやすい。しかし、ああ、私にはわからないーーー。この今、私に在る思惑(コト)は罪なのか。それとも誰もが思うものなのか。しかし、いずれにせよ罪というのならば、私にはもはや、ここの地では救いようがない。独りよがりである。人を罪に引きずり込んでゆくのは誰か。しかし、私のこの命は誰からのものか。この現実にそれ程長く浸っていると、私はその地の淵に落ちてしまう。例え良い事を他人(ヒト)に呟いたとしても、その地で食べたものが毒のある物だとすれば、その呟いた言葉も又毒のものになってしまう。否、すべてはそれでも私の独りよがりか。誰がここの地で、この私の疑問に答を見付けてくれよう。私は延々と、主が降りて来られる日まで悩み続けなければならないのか。いけない。ここでそれ以上悩めば、私は終に人をも殺し兼ねない。罪を犯したくはないのだ。
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