復活の半生
僅かな小さい出来事が、私を苦しめる。あなたのなさった事はとても大きいのにも関わらず、私は日々の労費をむなしくさせています。他人からの評価を得ようと全身を注ぎ、又、他人からの尊敬を得ようと全能を試みている。その日々の努力をあなたは無駄だと言われますか。私のところから出る物事は皆、自我のために燃えています。自分のためであり、この世間を生きていくために。人は、生きるために生きてゆかねばなりません。何事も金にかえられぬものなど、きっと、ここにはないのです。私は、この世間というものを知りました。私の耳には、私の口から出た言葉が一番正直のように聞こえます。どのような場所に居ても、私の言葉が生きて残るのです。私に、あなたの言われた御言葉かけません。しかし、私は不安の内から、確信の内から、あなたを信頼し、信じたいと試みます。これでも私は自滅に向けて歩いているのでしょうか。 先は、わけもわからず、幻につつまれています。唯、過去の栄華に携わって生きるのは、このところの人道にはそむいているようなのです。あの教会に居る牧師は、常に、あなたの御声を聞いているのでしょうか。それとも、聞く努力を努めて、私達と同じように、時に聞こえて、実際、聞こえていないのでしょうか。私には、あなたの姿がわからぬのと同じように、他個人(ヒト)がわかりません。それも信仰の内なのでしょうか。 私は今、生涯の生業を哲学をかく者と決めようかとして居ります。あなたは言われました。不毛の地をさ迷う哲学は、人の言い伝えに過ぎず、それだけに戸惑ってしまうものだと。私はもはや、罪の中に居ます。その哲学の中に、何か光のようなものを感じました。そのものはやがて私の目をもくらまし、恐ろしい闇の地へと私を誘おうとしたのです。私はあなたの前に、この信仰を吟味します。そして、どうしようもないものと、少し、決めかかっています。どうして、私がこういうことを思うのでしょう。私の中に何が宿っているのですか。私はあなたに祝福され、喜ばれる者になりたいのです。
「白髪描写」 二人の子供に長く居て、私は脆弱(ヨワ)くなりました。母親は父親を気遣い、その表裏で私のことをも気遣っています。父親は家族を気遣い、一滴の水もりくらいは大目に見て居り、未をみて今を生きています。従兄弟の結婚式の時に送られた、父親の写っている写真を見て、私はほんのり心が和むのです。そこに写っている父親は何も喋らず、きちんと座っている。言葉のない空間が、私の想像に植え付けたものはそれでありまして、私は唯、その思い出を大切にしようと決意したのです。唯、明日をも含む日々の労力がその想像を煩って嘲笑われるかのような気持ちに陥るのです。何ともないのに、何かを受けた振りをして、問題もなにもないのに論争を起すことを努めたりして、その自我からの吹き出物が消えないのです。又、私は一方で、他人(ヒト)の死に対して何等かの安堵を得ることに気付いたのです。それは、わざわざ出て行って自ら殺すものではなく、自然に、すなわち神が召される時というのに、その気持ちを憶えるのです。そしてそれは、基い、この写真のような静止した画図の雰囲気にそっくりであることに気が付きました。矛盾をも憶えます。
私が両親に安心を得るのは、恐らく、その両親の思い出をこの手中におさめた時ではないかと恐れながら憶えます。そしてその恐れは、その日々の葛藤が空転させて、確信へと変わるものではないかと、二つの内一つの心を悩ませています。その止まったように写っている父親の写真は余りに心に残り、目に良く、少々のかなしさを伴うのです。
もはや、私はその時、母親の事を考えることに疲れ果てていました。たった一つの言葉から、永遠の破綻を生むような、そんなたわいなく虚しい想像が私に襲いかかるのです。目に見えた死は怖く、目に見えない死はやさしく思うその私の心に、そんな私の希望さえも消えてしまうような絵図を見るのを不安に思ったのです。このことは、私が生涯かけて悩む事になるでしょう。
「身内」 怒涛のような気忙しさの流れた後、緩やかな身内の者達の笑顔を私は見た。
「箴言達筆」 真実なる虚言をつくってみたい。そのことに、人は何とも言わないと思ったから。
(又、) 作家、そういう職業を持つ人に、高い低いはなく、又、一流三流もない。真実が一つであれば、作家も又一つである。
「会話」 友人と話す言葉が、例え実のならない話であっても、私はし続けた。そういうことを話しあえる友人達ではないのであろうか。その疑問は地に落ちず、ひたすら雰囲気を気にした。影響されやすい私は、しばしば道がわからなくなり、路頭に迷うことがある。そんな時、その会話は少なくとも私を勇気づけた。その日が今までに一日でもあった以上、その過去を消すことは出来ず、その事実は又明日にも生きて行くことになる。
「司徒」 日本は平均的に見て、苦労している若者が少ない国。経済発展がまだ残っている国。外国の各地ではそのことを羨むくらい、貧困に困っている若者の数が多く、その国の人々を嫉妬する者も出て来ているようだ。土俵の違う者同士が、互いの生活について論争するのは、唯解決が見えず、むなしさが見えないところでその実を成らしているに過ぎなかった。互いの言う事は、いちいちわかるが、その真実は人の手で作ったこの現代にはもはや通じる事はないと、或る者がよそで語っている。その者の語る事は、そこでは正しいものになっていた。
「空論と遂行」 一長一短の国民同士が互いに言い争っていても、そこに救いはなかった。それは、神が、バベルの時、そのように為した故だと私は一方で思っている。
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