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作品名:六月までの自立 作者:天川祐司

第6回   奇才
奇才

 私は女の体を知ったが、女というものを知る事は出来なかった。「俗に知る」という事は「知る」事に成るのか?その二つの「知る」という間の距離が解らず、答を知る事が出来る扉の在り処も解らない。
 
 牧師は、親身になって人の告白を聞く。何があっても不本意にはせず、自分が命を奪われる危険に瀕していても牧師は他人に立場を置く。町でパレードが行われていて、家の内に「死」のようなものがあっても、牧師は他人の心に沿う。現実に於いて、裏切る事はない。心は雨でも顔は穏やかである。綺麗事だと言う人はそれでもいいとは思うが、私は信じたい。彼の穏やかな心の方を。自然現象は心次第でどうとでも変わる。私は、あの人に会いたい。男の人が近付いて来る。私は身をよじる。私は酷く遠退いた気がする。私の質問は、愚問に終わるものだろうか。

愛とは何か?と聞けば、聞かれた輩は、大抵、「○○だ。」と答え、私が、それがキミの言う愛か?と聞き返せば、「いや、」、「まぁ、」等を冒頭に付ける形で、補足をどんどんと付け足す。分っていない証拠である。最初に私が「それがキミの言う愛か」との返答に、その輩は「そうだ。」と返答するべきだったのだ。実は分っていない為に、ああでもない、こうでもない、と自問自答しながら考え得る限りの内容を必死に伝える訳である。愛とは聖書に記されてある内容の他はない。個人に任せれば、万通りの愛が存在する。無論、それで良し、とする輩も居るが。

「何故私は結局最も好んで自然と交わるかというに、自然は常に正しく、誤りは専ら私の方にあるからである。これに反し、人間と交渉すると、彼等が誤り、私が誤り、更に彼等が誤るというふうに続いて行って、決着するところがない。これにひきかえ、自然に順応することが出来れば、事はすべておのずからにしてなるのである。」(ゲーテ「地質学について、警句的」1822年、から)。

 人に対して。君の、今までに学んで得た知識を以て、それ等を総括した上での君の意見を聞きたい。

「時の正体が掴めない」(ある小言から)

 風は宇宙から来るものか?
 何故起こるか(起こっているか)が解らないのだ。宇宙の存在(IDENTITYの意味合いを含む)と自分との関係が解らなくて、日々、疑惑を感じて、時に、四苦八苦している。宇宙よ。お前は、私に話し掛けてはくれないのか。宇宙とは、物なのか。この現実に於ける、人が把握出来るものの出所とは、人の認識と、自然とが、考えられる。半々世紀と少し生きて来て想う事。人は、この現実(地球上)に於ける、恐らく、限られた範囲に在るものとしか、対話は出来ないものなのか。
 未知のものがあるとして、人は、そのものと関わる事が出来る。関わる事とは、人が把握出来る範囲を越えたものとの間に於いて、何等かの懸け橋(Bridge)になる事は出来ないものか。

「時」

 「時」の正体とは何であるのか。「時」の形容について、「流れる」という表現で適しているのか。見えない存在からの確実な答というものは、人は取得出来ないものか。「時」を、私は今、感じているのだろう。年齢というものが存在して、例えば、高齢者が持つ、以前の写真を見ると、「時」が人というものを変化させている事実がわかる。若い頃から高齢に成るにつれて容姿が変化して、人に備わる身体的能力も衰えてゆくという。人だけではなく、紙も「風化」「酸化」等により、茶ばんでいる事がわかり、白色とは違うその変色から、その変化を思う。自然とは、「時」により、変化させられているものか。或いは、自然、人、等の存在が、「時」を変化させているのか。人は死ぬ、この現実から居なくなる。現実に於いて、死人と未だに会話をした事がない。このような経験がある以上、死人は、この現実とは違うどこか別の世界に居る、としか私には表現出来ない訳である。現実に於ける科学者も、文学者も、誰も、「時」というものがどのようなものか、について、きちんと説明出来ないで居るのか。何故、人には「一生」というものが存在するのか。その一生の内に於いて、人は年を取る。不思議であり、自分の事についてさえも、私は説明出来ないで居る。この不思議が私に纏い付きながら、未だに私は不思議な現象を見ている。「一切は過ぎてゆきます」という太宰治の言葉について、肯定は出来ても、反論が出来ない。とりあえず、人が、時の経過により、「寿命で死ぬ」という現象がこの現実に在る限りは。私は、今、人が自然に持つ常識という認識の内でこれ等の事柄を述べている。「時の経過」「寿命」「死ぬ」という事柄が、時の経過によるものでなければ、この、私が持つ「一般的な常識」は覆る。実は、覆るのかも知れない。このように、私にはきっと、何も解らない。信じて、生きるしかない様子である。先人である死者達は皆、とりあえず、私により目に見えず、感じられない、状態と成って、何処へ行ったのか。時の仕業なのか、そうでないのか、今の私には解らない。目に見えなくても確実な「壁」が在るようだ。この解らない部分が今の私にとっては最重要な事柄である。

人を殺すと、その者の命の支配者と成る。しかし、人は、自分について説明が出来ない、等の事実を自ずと知る故か、相応の身分ではない事を想像して、自分が頼りない存在である事実を知り、その者の命を先導(管理)する自信がなくなり、恐怖が生れるのか。

「『真実』というものの存在について」
 この世に於ける、不確実なものとして、私は、「神」と「悪」の存在、「人の生前の世界」と「人の死後の世界」等を挙げる。人がする所作の内に、「懐疑」というものがあり、「人生論ノート」を記述した三木清氏は、その著書の内で「懐疑について」と題し、彼の思惑を述べている。「精神の習慣性を破るものが懐疑である」、「(又その文に於ける思惑として)不確実なものが根源と成り、確実なものは目的と成る」と、述べている。例えば、世界共通語である英語が、人が作ったルールの内で作られたものならば、その「英語」というものは、ここでいう「確実なもの」になる。宇宙の行き止まりが、未だ、人知により、解明されていないものであるならば、その「宇宙の行き止まり」というものは、「不確実なもの」になる。詰り、「確実なもの」と「不確実なもの」というものについての定義は、人が、把握出来る範囲内に在る事柄と、把握出来ない事柄とに、分けられるように思う。人がする所作の内で、「信仰」というものがある。その「信仰」に於ける、関連する事柄として、「神」と「悪」の存在がある。人は、よく、この現代に於いても、神と悪、又、善悪というものについて、口にして、記述している。これ等の事柄、所謂、事物は、見た、という証明を、未だに見たことがない私は、「不確実なもの」である、と主張する。「神」、「悪」の存在を疑うことは、世の常であるように思える。これ等の事象の源が、人の空想の内であることに辿り着けば、人間の世界に於ける、宗教の確立性は、どのように左右されるのであろうか。断っておくが、「信じることが、信仰である」等の文句により、一掃されるような程度の内容を記述しているのではない。人間の世界に於ける「神」と「悪」の正体を、暴くことを目的としている。ここで、何故、人間の世界に、宗教というものが存在したのか、という疑問に行き着くように思う。私は、その理由の内、5つしか、知らない。1つ目は、苦しい時の神頼み、孤独という不安感から救われたい、という人の習性により、存在した方が都合が良い故である、2つ目は、神と悪が、人の存在よりも以前に存在して在り、自然に、人は、「神と悪の存在」を覚えさせられた、3つ目は、人は、現在、生きている時間に於ける認識の内で得た事柄しか把握出来ず、自分の歴史に於いて、見、知った、人の善行、悪行、というものから生れ出た、とする事象により、神と悪の存在を想像させられて、神が、悪が、為させた事、として、その認識出来る範囲の事柄を心に収めて消化して、その元と成る、又、確実に存在している、とする、人の良心、悪心、というものを神、悪、と認識した為、4つ目は、神の存在を、実際に見た者が居て、その者が提唱した為、5つ目は、人が知り得る範囲の世界に於ける事柄を追究した上で、どうしても、神という、人の能力を超えた存在が居なくては、この世界、事柄について、説明し切れない、と言う者が居た為、というものである。その理由のどれにせよ、今の私にとっては、その真実への追究は、人の推測の域を抜け出せずに、空想の内にある。真実の空間の内には、ないのだ。人は、その「真実の空間」というものを、はっきりとは知らないで居る。今までに見た記憶が、恐らく、ない故に。人が「私は、生かされている」と言う理由は、自分の命が、自分ではどうする事も出来ない状況に於いて、何者かにより、左右されていることを感じる故ではないか、と推測する。聖書の内に、「生きている内に、私に気付く者は幸いである」、「目に見えないものを、信じられる者は幸いである」、と記されている。人が本来、神という存在を知り得る者である、とするならば、それ等の内容は、現実に於いて真実味を帯びる事に成り、その真実とは、私の今後に、どのような影響を与えるのか、という事について、考えるのである。私は、死というものについて、今思う限りの思惑と、不安と、を、抱き、又、その想像により、抱かされている。 


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