砂漠
一人、脆弱なる勇者が、気付かぬ暗闇の中に生きていた。そして、そこでは、暗闇の使者に見える魔の強者が、継続して、勇者の足と影を引っ張っていた。彼方から見える希望の光に、汗を流し、ひたすら、耐えている。何の腕力もない弱者が、遠くから眺めている。そこに降る白い雪こそ黒く、そこに燃える人の信頼こそ、灰色に尽きる。心は、やさしさは、あつあつと煮え滾った、ストーブの上のヤカンから漏れる湯気のように、掴みどころはなく、窓から漏れてゆく。ドアの向こうから、人の呼ぶ声がする。中身のない人間が立っている。話す言葉も失くし、遣う思いやりも、もう、憶えていない。どこへ行くのも、一人だった故に....。力がないのは、女もそうであったが、愛情のない処(ここ)では、その女さえ、外界の生き物に見える程、処(そこ)の力は弱まっていた。最早、誰も信じられまい。所詮、愛情は暴力に負けることを、知っていたのだ。一つ、陰から、目が見える。助けを求める、脆弱な顔。暴力に辟易する我が身を知っている男は、唯、一方的に、力強く言い聞かせ、その目から逃れようとした。人間(ヒト)の根気は、底が知れている。この世で、出来得る、人間の行為は、神に見透かされ、命を守れども、この世一枚の薄さを、どこかで感じている。何かに夢中になる時、人間は、ふと、この世の地獄を忘れる。否、忘れようとしているのかも知れない。この世の何処に、この世の地獄を見るか。体中に走っている、神経というものが、人間に暴力を教え、地獄を知らせる。敏感にして、臆病にも拍車がかかる。そこでは、腕力の強い、負け知らずの人間が、人を支配していた。善悪をも。一枚の紙幣で、善悪が変転するのか、と密かに、耐え忍ぶ人々は反抗していた。しかし、二度と、表舞台に立って言い放つことはなかった。あの勇者のあと。もう一度、あの勇者のように、皆の前で、大声で、真実を叫ぼうとする時は、神が見える再臨の時と決めていたのだ。冷めた現状だが、そう決意している人の横で、その真実さえ、都合に任せて、さては、と思う者もいる。 一人の勇者が、生きながらにして、監獄の中に居る。周りの警囚は、力ある監長の言い成りになっていて、小さな雰囲気さえ、漂わせている。そこで、勇者は、その度、70回目の拷問を受けており、その時、その苦痛を感じる前か後か、幻を見た。人間(ヒト)のものであったのか、それが神なのであったのか、いずれについても解らず、人の影(やみ)は、それから間もなくして、去って行った。何等かの光を感じ取ったのか、一人の警囚が、消えたその者に羨望を寄せ、中立を構えて立っていた。そこから、引いてゆく影を先導する、見たこともない黒色をした、悪魔の姿を、一人、見ていた。 そこに於いては、一人による憤慨は、誰にも、聞き入れられなかった。人は、その者の、自滅を誘った。
人には思考があり、人生がある。それ等が、相違う時、人は、争う。その内の、空しい独身の思惑の一つに、異性の奪い合いがある。
何故に、独身(ひとり)では、生きてゆけぬのか。華を持てぬのか。既に、その問答が展開される場所とは、とある「日常」が許容するグラウンドを越えている。
輝かしい顔をした、悪魔がいた。成り上った、腕力の強い者同士が、リングの中央で、栄光を手にしようと近付く。その為に自我を叱咤し、盲目に陥って行く。周りの観衆に紛れて、輝かしい顔をしたその悪魔は、次の、生活を犠牲にする者を、捜している。八方のどこを見ても、四本のロープを伸ばした、四柱のように、その悪魔の手先が、黒いタキシードを着て立っていた。最早、誰も、逃れる術もない程だ、と、悟っていた。
冷笑。長い夜を経て、人は、教会に居た。そこへ、出入りする人の隙間から吹く風は、変らず、冷たかった。中では、一瞥、経のように、人々の小声が、ざわめいていた。響いていた。その内の、祈っている者の一人を見て、自分も真似をした。否、真似ではなく、自分のことを、祈った。途端に、祈りは終わった様で、次の催しものが用意されていた。幕が、さぁっ、と開き、そこには、様々な衣装を飾って並んだ、人々が居た。十数名。やはり、人のすることには、変りはないのである、その人はそう思った。傍らに居た他人と話しながら、実は、迷っている。言葉の程度が、よくわからなかったのだ。何事にも、限度がある、と思った。いつかに見た、その教会のパンフレット(週報;ちらし)も、その時その人には、役に立たなかったようである。心残りはあったが、言葉を呑んだ。正直、その人は、その教会の牧師とは馬が合わないと、思い込んでいたのだ。その牧師が、その人のことをどう思っていたかについてはいざ知らず、一方的に、そう思っていた。周りの雰囲気は、一見して、良いもののように見えた。それ以上は、深く詮索しなかった。争うかも知れぬ、と勘付いた故に。そして、思う。生きて行くには、やはり、冷たい風を感じねばならぬ。例え、それが、教会の中でも、人の居るところには、その人の内から冷たい風が吹き出ているものだ、と....。やがて、集った皆は、時間が来たので、それぞれの自宅へ帰って行った。
念が個人の心中に湧く。牢獄の中で、独り、格子戸の向こうに見える、奇麗な夜空を見て、ひたすら願った。この耐える辛さの中に在っても、絶えず、真実をかいて行きたいと。空にも泥は在る、と個人は思った。
煩悶。ここでは何事も、白黒が、明らかに露呈される。暴力という恐怖が在る為である。それに比べ、外界の、言葉弄びに明け暮れる、小さなママゴトは、未だ、幸せに見える。否、きっとそこへ行けば、又、個人は、「朝令暮改」と馬鹿にし、憎むのだろうが。やがて、その中間の地がないことを、欲望の陰に憶えた矢先、人は、非道く、悔んだ。
一瞥の念。人の改悛が、その生と死(昏睡)の間際でしか現れないのなら、人は現実に於いて、幸福を手に入れる術とはないものではなかろうか。(その他の多言に対してもそのように述べる。)ノアの箱舟神話も、又、その内容について表しているものとする。
とある中学校に於いて、バレーボールのクラブ活動中に、生徒が散々なスパイクを顧問である教師から受けている途中、その生徒が頭痛を訴えたという。しかし続けて同様の行為が行われて、ついに、その生徒は倒れた。学校から最寄りの病院へ運び込まれたその生徒は、蜘蛛膜下出血(脳裏から蜘蛛膜下の隙間へと、血管が破れた事により血液が流れ込み、激しい頭痛と意識喪失を伴い、致命的である、とされている)と診断された。未だにその生徒は、意識を取り戻していないとの事である。その学校に対する裁決に於いては、部活動中の出来事、として、重い刑罰の対象とはならなかった。訓告のみ。被害者にすれば、学校は無傷で在るように見えるかも知れない。この現実を糧として、私は生きて行った。
走り書き。何もする事がなく、時に憂鬱になっていると、ついつい、筆を握ってしまう自分が居た。ものかきが、趣味とは言えど、これからの仕業にする、と言えど、実はそのどちらでもなく、この時の憂鬱は、何か、私の影の足を引っ張る。例えば、女が傍らに居れば、どうだろう。この時の退屈凌ぎに、何かしら楽しむ事も出来るのではなかろうか。それ程、細かな事には気を捕らわれず、眠れないこんな夜には、最適なあてかも知れない。幾度、溜息を吐く。特に、何も起らず。それぞれ、ものかきを称している者等は、その時、々、の自分の調子により、文章を書き、それを、読者に信じ込ませようと、巧みな言葉を用いて、白紙に表すもの。かき写してしまえば、後は、どうでも良い。又、自分は、こそこそと、鷹揚溢れる体裁を持ち、元の在るべき処へ戻って行く。読み終えて感動を得た読者に対しては、満ち満ちた笑顔を見せてはいるが、反対に、愚弄する者、何の感動も得なかった者、に対しては、怒りさえ在るものの、何の返答も考えはしない。自分の人生(みち)は自分の人生と、速やかに、颯爽と、歩いて行くのである。誰が、「ものかき」等の仕業を創始したのか。皆、誰でも、遅かれ、早かれ、自我のものをかく。それなのに、その上手、下手、で、少し感動を憶えたからといって、それに位をつけてしまうのだ。無礼である。苦悩に満ちれば満ちる程、....、なんてものが、位の最高値に就こうものなら、その最高値に就いた者は、その踏み台の苦悩が尾を引き、その勢いで、自殺まで図ってしまうのだ。そんなものは、偉くはない。唯、その個人の、プライベートについて知り得ぬ故、どうとも言えぬ事が、今日の、文学作家の価値ある存在を、確立している。川で溺れた太宰。その(太宰の)前に、自殺した芥川。老年にも関わらず、密室で、ガス中毒で死んだとされる川端。人に決起を与え、淡々と自分は独房に潜んで、侍のように、割腹自殺を為した三島。軽井沢まで行き、キリスト教(神教)を疑ったまま、縊死した有島...。栄光ある、苦悩の念(冠)は、この者達の頭上にも降り注いだようだ。平然と、そのような苦心等知らずに過ごしている友人が、周りに居るというのに。それなのに、その周りの者達の心の中には、その苦心を遂げた亡き者の言葉が、輝いている時がある。生きる苦しみを味わった後、その周りへの信念がどうしても逸れて行った時、自身に自信が喪失した時....、その者達の言葉が、誰の言葉より、力強く、心の奥まで響き渡る事実(コト)が、確かに在るのだ。この文を記している私とて、そう思った時がある。大きな視野を備えようとして見開いても、決して消えぬ悲しみの存在、人は、遅くとも早くとも、同じ規律(思惑の巡回)に止まるものだ。どう捉えども、経験済みのこと、疑う必要(コト)はあるまい。小さな監獄の中ででも、生れ出た命が、死を招くものではない。生れ出た命は、その命を開花させて行き、やがては、喜ぶべきものの息吹きを感じ取るまでに、成るものであろう。誰とて、死は、本能により恐れる。脆弱(よわ)い強がり程、駄作を生むものはない。今、人間(ヒト)の命は、冷めやらぬ暴力と、悪を呼ぶ欲望の内に、佇んでいる。どちらを向いても(仰いでも)、信頼を取るか、疑念を取るか、一々、選ばねばならぬ。けれど、これは、神が、人間に与えたもう、試練なのだ。一々選ぶのなら、迷わず、信頼を選べば良い。その後の生活は自ずと神が約束して下さるのだから。焦燥に駆られるその理由は、自身の、その選択の手前で選んだ、欲深さにあるということを、忘れてはならない。人の自我を幇助する思惑等は、決って、自我の汚点を見落としたがる。盲目に成ってしまえば、自ずと、その汚点すら見えなく成ってしまうのだ。窮地に陥った時、困る前に、冷静に成らなくてはならない。自ずと、人の命が、汚い、淀んだ淵の内からでも、浮かんでくることを悟るであろう。 (少しだけかく筈が、ここまでになってしまった。もう、いい加減、終らせたい。やはり、幼き日の、文士・作家の真似をするという躍起が、私を血気盛んにさせたのであろうか。どちらにせよ、もう終る。つい、諦める心に、火がついた。) この話(文章)の舞台は、映画、現実、小説、等を考えたが、結局、どこでも良かった。唯、時の流れの緩やかな機を見て、ふらふら、かき始めただけのことである。収拾がつこうがつかまいが、どうでも良い。唯の、ものかきである。この先、....、否、以上。(としておく)。 (明け方前にて)
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