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作品名:あれこれ 作者:天川祐司

第1回   あれこれの内にて
「専門分野」
様々な分野がある。けれども、私(わたくし)の専門はひとつである。文学をおいて他にない。世界の国々程の数はあっても、私の住む場所は日本ひとつである。“言葉を勉強すれば?”“そりゃそうだ”私の専門分野はたったひとつである。で、なければ、疲れてしまうのだ。

“会話することはロスじゃないでしょう”―――Loss

人は思う、何かをしたい。

人間が何を書いても、人間なのである。その範囲を越えることはできない。聖書にもある、“人間は虚しい…”と。そこだけを抜粋したのも、この私である。限界がある。それを極める、と言いながら、限界があるのが人間ならば、それまでのこと。神の力は越せないであろう。ただ、人間は言う、“書かれた文章で、人間が救えるのなら…”と。

被害者意識が強いのはわかっている。

私は勝手に思う。“人間(ひと)は俺をおかしい、と思っている”と。内心どこかでそう思われたいのだ。しかし、そうなってからでは、見知らぬ孤独を患うのである。そのように思わせたのは、今までの過去と、そこから生まれた臆病である。


今、開花しかけた少年を巡って、階下で塾を探しているような談話が聞こえる。

「ねぇ、良い塾ないかしらこの辺りで?あんたの教え方では(あの子は)無理だから。」


ボランティアで以前、神戸の被災地に行った人が言った。“もう少し、僕らのことにも気遣ってくれ。”苦しい時の相手の立場がそう言わせる。
キリストはこの時、どうするだろうか。人間の限界を超えたような憧れへの思惑が、又、飛躍した物事について問答し始める。


「幸福と不快」
あの酒の席でのお道化ぶり、久し振りの仲間が集まっていた。難しい気配りと掛け合いの中で、彼は、沈黙を守っていた。浮かれる奴を尻目に、彼は席を立つ。浮かれる奴は、一瞬、嫌な顔をする。その一瞬を見届けた後、トイレへ。気遣う奴がもどした。気忙しくなる雰囲気、“私はなれているから、”などと余裕をつくり、彼らを安心させようとする。こういうことが続いてきて、又続くのだ。今度の十五日が又、楽しみである。

『榊原隼人の言葉』
“やさしさ?やさしさだと、下らない。思いやりなど人間がやることだ。汚い悪事とそう変わらない言動の流れの上での上塗りさ。この「流れ」はストリームとしたっていい。今日も明日も美人のネーちゃんとニーちゃんが、この街中を動く。金持ちはそれらを動かす。僕はそん中で生きなきゃいけない。何故黙って居られるんだ?正直、善人を殺したいのさ。そうして悪人になった後、その中で頂点を目指す。悪魔さ、悪魔公認で、この下らない人間を殺して行く。いいことじゃないか。かくゆう宗教団体が実際にしたことだ。あれは必然、これからも起り得るだろう。だって、僕の心の中にも在るのだから。今、この世の中を生きて得するのは?”


「おののき」(認識追構論)
おもしろおかしく生きようとすれば、もしかすれば、その事にも成功を見る事が出来るかも知れない。しかし、私を現実が、この様にさせたのだ。もっと大胆に筆を振るって、若葦のように猛り狂う雲を貫いて、自ず信念の道を創作することも又、私の仕業なのかも知れない。現実は、もう32年の年齢を取らせ、共に過去を古いものとし、我にこの真実足る「花」を見出させた。“諸刃の念”。
何の意味も、各文壇の若者達は見出せぬかもしれない。我のみがそこに生きるゆえに、私のみが熟知せらる場所。この空気。
このタバコの煙にさえ、何らかの情緒を抱き、書けたあの頃の自分がもう居らず、そう錯覚するくらいこの現実の勢いは猛きもので、同様の繰り返しを以て、我の概念のうちで一つの物語に幕を下ろそうとさせる。これは罪ではないのか。誰も、もう考えようとはしまいこの道の在り方を、我は一人熟考し続ける。

「文殊堂にて」
父さんと文殊堂へ行った。空には雲がのさばり、月は見えないでいた。太陽がその大部分を占めており、近くの海はその模様を見ていた。僕はといえば、人里離れて物思いに耽っていた。頭の中はそれほどの文句もなく、他の人の詩が浮かんではきえた。けれど、このままでは自分の思いが惚けると、過去の自分の醜さを覆った。後に影響が出るものはすべてけして、忘れられるような型にしていたのだ。それにしても、腕が陽に焼ける。


「あれこれの内にて」
今頃、彼は何をしているのか。又、彼女は何をしているのか。気になる一時である。彼は、ミュージシャンの○○、が好きだった。今頃、ベッドにでも寝そべって、○○、の音楽でも聞いているのか。否や。一方、彼女は、結構、活発な人であった、今頃は呑気に、週末を利用して車でどこかへ出掛けているのではないか。あ、でも、あの人、車は余り運転しないって言ってたっけ。家にいるのなかなあ。電話するわけにもいかないし、友達とは言っても距離がある。なかなか馴染んじゃいけない箇所だ。僕は僕で、夢に向けて、この一日を送っている。(とはいっても、まだまだではあるが。)あと、二三ヶ月先までこうして過ごしてゆくのだ。想像力は密室の中で。
今日、休みの日で、滅法早く起きて、『おそくおきた朝は・・』というTV番組を観ていた。楽しかった。番組内で飲んでいるお茶かコーヒーかが、とてもおいしそうに見えた。出演者は、アイドルの○○、○○、あと余り聞き憶えのない、○○、達の三人組だった。なんでも、送られてきた葉書をよむというパターン的な番組で、すっかり冬のイメージになぞらえたセットでテーブル(ちゃぶ台)を囲み、蜜柑でも似合いそうなちゃんちゃんこを○○が着て、葉書への返答か否かを、三人が井戸端するというものであった。観ているだけでそれなりのあたたかさはある。僕も、母親に似たのか、それで飲んでいるコーヒーカップに惹かれて、コーヒーを入れに階下へ降りた。番組は暫くして終わった。なんとなくいいものというのはそういうものである。そこに浸る前に終わってしまう。頷くしかない僕は、ひたすら頷きながらコーヒーを飲んでいた。一人での所作である。
生きるというのは、尽きぬ寂寥の中を耐え抜くことである。それが尽きる時は死の時であり、連続に耐え切れなくなった者は、つい、死に挑む。生きる寂寥と死後の苦しさではどちらが苦しいかを賭けるのである。得てして、人は、生きている故に、目前に連続する苦しさを重視する。結果主義の人間界である、それも当り前の事かも知れない。自殺する者が得てして零にならないというのは、その証拠付けにも成り得るのではないか。誰も、個人の中からは脱せないものであり、その個人という“部屋”の中であれこれと思惑を練ってゆくのである。事実に、人のプライベートは、崩せぬ“壁”を意味している。様々な先人(作家)達が、人の孤独について描いている。物語、随筆、評論、小説、皆、同じベースの上で転がっている。生きる事についてかけば皆同じような事をかくのだ。皆が体験している。まあ、その中で評価を得るとすれば、かき上手、下手くらいのものであり、それは作家個人としての名声には繋がる。「一人になりたい」などと言う言葉は、得てしてかなしいつよがりかも知れない。始めから一人なのに、それを忘れたように言う。人は一人では生きてゆけないという言葉をどこかで聞き、その運命めを背負わされている。得てして、窮屈なものだ。不条理というかも知れない。その中で、喜怒哀楽を満たすものの存在が人の救いであり、その思惑の源であるのかも知れない。感情。生きていて楽しいと思うことはいいことである。ただ、死後への光、即ち、神という存在を思う人の勇気(感情)は、その個人の思惑の節目節目に上手い具合にからみついているのである。

思想。この世の知識とは別意のもの。
本を読まぬとは、その人が孤独でないという証拠である。
アンデルセンの「あひるの子」。表面(暗闇)。沈黙。大器晩成。傑作。
死の直前に、如是我聞がある。
知識ではまともなものがかけない。又、才能とは。その人の知り得るところではない。字だって、それを読む人の目に、会得しやすくなければ、良い評価など貰えはせぬのだ。きっと、他人の作品を読んでいては、その他人の人真似をしているに過ぎないと、思えてしまう。今、こうしてものをかいている時でさえ、他人の目を気にしている。結局、誰かに認めて貰わないと、この世では、価値のないものになってしまうと、自分でわかっているのだ。誰にでもわかることをかいていても…..。君は、その白紙に羅列してある文章を、一字一句(少しくらいなら間違えても良いが)ノートに写してゆけ。結局、そういうことをしているのだから。学生諸君。他人の悪口をかきはしない。誰の所為にもしたりしない。自分のすべきことはきちんとする。何かにすがりついて、しがみついて、おんおん嗚咽するその姿を、一体、誰が慰めてくれるのか。自分か。恩を感じた他人か。同情とは、間の抜けた言い方である。同情ほど、この世で始末の悪い体裁はない。同情をする者、被る者、どちらにとっても、風邪の治る正確な時期を、言い当てるようなものだ。難解の精進。他人に媚びてはいけない。他人を頼っても、頼り過ぎてはいけない。自分が選んだ努力の労苦を、何かの所為にしてはならぬ。生きている以上、自身を確立してゆくのだ。その体裁は、きっと、友達も解ってくれる。逃げてはいけない。走ってはいけない。無駄に止まってもいけない。この世で生まれる、知識人の知恵は、空しいということを、主は知っておられる。人も、そのことを知らなければならない。他人事ではないのだ。自分のこと。どれだけかいても、独学でいなければならない。独学ほど、その人に、自信を与え、闊歩する術を与え、孤独を与えてくれるものはないからである。独学とは、不意にしてしまった整形手術の態に似ている。自分では、それなりの懸念を抱え、おもしろいとは想っていても、他人(まわり)はそうとは限らない。果して、それが、認めて貰え得るものであるかどうかは、当人には、一つもわからぬのである。仕事先。学校のような街中。人は他人を気遣わねばならぬ時がある。余計な気遣いは不要、と言ってはみても、やはり、自分の内部から湧き出てくる熱い焦燥にかられてしまっては、爆弾を植え付けられたように動きが止まってしまう。敏感。鈍感などではない。敏感なのである。何をするにせよ、他人を気遣ってしまうのだから。気遣う、と思いやりとは、別のもの。それがわかってはいても、僕には扱えない代物である。例えば、流行り。その空気が、その思いやりを消し去ってしまうのだ。情緒的雰囲気。
何をかけばいい?君が喜ぶものをかいてあげるよ。こんな僕の無聊で、誰か他人に見られでもしたら、直様、溶けてなくなってしまうような、脆弱な文章で良ければ、君の気の済むことをかいてあげるよ。漫画でもないし、風刺画でもないし、素描でもないし、ましてや、小説でも成り得ない。唯、積極的な、無聊な、態を浮かばせる虚言さ。それで良ければ。何をかけばいい?(君に訊く。)かいて良い題材を教えてよ。ただし、出来るだけ、僕の専門分野でのことにして欲しいんだ。それ以外は、少し、責任ももてないし、大胆にもなれないしね。
こんな、妙な縁なのだから。それだけに凝視して、僕とのことだけを考えて欲しい。なにも、誰にも、恥ずかしがることはないんだよ。素直が一番なんだから。出来るだけ、君が読みやすい文章にして差し上げるから(弱虫に限って、虚構を練り上げる)。僕はこんなことをかきながら、何を想っているのか。

しんと静まりかえった図書館で、背後にある人の気配を感じながら、ずっと、文章をかき続けている。これといって懊悩もしてないし、創作意欲もない。「無意識の殴打」、一言、呟いた。「悪」の意味らしい。意識的の殴打は悪ではない、という。何の事かもわからない。わからない、というより、知り得ない。知っていれば、も少し、興味も踊る。あれだけ激しく燃えた興味も、今日には、けろりと表情を変えるものである。思いついたことを何でも言えばいい。「どうせ、死ぬのだ。」この言葉は、どうせ皆死ぬのだ、という意図にも聞こえ、興味(好奇心)を煽られる。しかし、それだけである。「早死に」など、したくはない。君、「なにもわかってない。」と嘲笑したらいい。事実、そのことには違いないのだから。君の言っていることがわからない。何か、難しい言葉を並べているね。一つの物事を貫き通すというのは、こんなにも難しいことだとはね。僕だって、いくらでも語る。


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