塁が私の事を本気で好きだ、なんて言われても......。困る。それを智樹君に言われるなんて、もっと困る。 「塁の事、好きでしょ?」 当然の事の様に言う智樹君が不思議だった。何でそう思ったんだろう。私の行動ってそんな風に見えたんだろうか。 「好き、だけどさぁ」 智樹君は下を向いて少し笑い少し掠れた低い声で「相思相愛じゃないですか」と呟いた。 静まり返った部屋の中では呟き声だってはっきり聞こえる。その後ろで、スースーと塁の規則的な寝息。静かなジャズバーで語り合っている様な静けさ。 「でもね、あの、こんな事言ったら可笑しいかもしれないけど、もう一人いるの、好きな人が」 もう、全部言っちゃってもいいんじゃないかと思えてきた。塁の気持ちも分かったし、私が塁に惚れている事もバレた。 あとは智樹君の事が好きだ、で終わりでいいじゃないか。そして智樹君には好きな人がいる。それでいい。それで終わりでいい。 「誰?俺の知ってる人?」 私は人差し指を天井に向けて、それを徐々におろし、智樹君の胸に向けた。終わった。これでいいんだ。 「智樹君に好きな人がいるのは知ってるけど、それでも智樹君の事が好きだったんだ。という訳で、この話は終わりにしようか」 私は呑みかけのチューハイに手を伸ばし、ひと口飲むと「......じゃないよ」と低い声で智樹君が何か言うのが聞こえた。 「何って言った?」 「終わりじゃないって言ったの」 智樹君は下を向いているけれど、私には分かった。これで三回目だ。あの顔を見るのは。彼は顔を上げないままで「俺の好きな人は、君枝ちゃんだ」とはっきり、ゆっくりと言った。 私は息を吸い過ぎて過呼吸になるかと思った。現実だとは思えなかった。 「どうしよう」 私はそんな間抜けな言葉しか思い付かなかった。どうしよう。相思相愛が二つになってしまった。 「どうして私なの?」 あんなに綺麗な彼女がいたのに、その彼女を振ってまで、何で私なんかを好きになったのか、不思議で仕方が無かった。 「知りたいと思ったんだよ」 智樹君は焼き鳥を一つ、手づかみでぽいっと口に入れ、続けた。 「男の人が苦手だって言ってた。その理由を知りたいと思ったし、助けてあげたいと思ったし、色んな事が知りたいと思ってたら、いつの間にか好きになってた」 私は声が出せず、代わりに下まぶたに涙がたまるのが分かった。 「ちょ、泣かないでよ、俺変な事言ってないからね?泣かないでよ?」 涙目はすぐにバレてしまって、私は頷きながらそばにあったティッシュで目を押さえた。 「この前、ここに泊まった時、手を握って寝てたでしょ?」 智樹君はちょっと顔を引き攣らせて「あぁ」と軽く頷いた。 「あれ、私が握ったの。手を握って眠りたくてあぁやったの。私のせい」 彼は目を丸くして「そうなの?」と素っ頓狂な声をあげた。 「男の人の大きな手が、凄く苦手だったんだ。だけど、智樹君の大きな手は、大丈夫で、暖かくて、握って寝ちゃったの」 言いながらどんどん恥ずかしくなって、私は最終的には真下を向いていた。視界に入るのは自分が履いている小花柄のスカートだけだ。 智樹君はテーブルの向こう側から、私の隣に席を移動してきた。二人の背後に、塁の寝息が聞こえてくる。 「あのさ、話したくなかったらいいんだ。でも、もっと色んな事を知りたいんだ。どうして男の人が苦手になったのかって。訊いてもいい?」 私は迷った。夏の砂浜で、塁にも訊かれた。その時はまだ、話す気は無くて断った。あの時はまだ、リハビリの最中だった。でももう今は、彼らと身体が触れ合う事に何の躊躇も無くなっている。 そろそろ、吐き出してもいい頃だと、思った。 「中学の時、義理の父親に三回、犯されたの。近親相姦ってやつ」 智樹君は、ある程度察していたのか、さほど驚かず「うん」と優しい声音で頷く。 「その人が、凄くカッコイイ人で、背も高くて、手も大きくて。初めは自慢の父だったんだけど、そんな事があって以来、男の人に触られる事が苦手になったの。特に」 隣に居る智樹君の手を取った。手のひらを大きく広げた。 「手が大きい人とか、カッコイイ人、背が高い人。凄く苦手だったんだ」 その手のひらをパン、と叩いて、彼の膝に戻した。 途端に、両目からぽたりと雫が落ちた。この件では一度も泣いた事が無かったのに。ため込んでいた何かが、我慢していた何かが、決壊したみたいに涙がぼたぼたと落ちてきた。 智樹君は私の背中を大きな手で擦ってくれた。ティッシュを手渡してくれて、落ち着くまで待っていてくれた。 「その、苦手な男の網に引っ掛かったのは俺で、塁はそこには引っ掛からなかったって事?」 私の瞳の中を覗き込むようにしてこちらを見る智樹君の目は、とても優しかった。 「塁も初めは苦手だったよ。ぐいぐい積極的に引っ張っていく感じとか、凄く苦手だった。けど塁と話していくうちに......塁の素直な所が好きになった」 夏の夜、男の塁が、男の智樹君に思いを寄せている事を自分に告白してくれた。素直で、真っ直ぐで、何も考えて無さそうに見えて実は色んな事を考えている優しい性格の持ち主である事が分かったから、塁に惹かれた。 「俺の、事は......?」 智樹君は遠慮がちに呟いたので、私は一つ息を吸って、吐いて、それから口を開いた。 「智樹君はとにかく優しいから。私にも優しいけど、特に、塁に優しいから」 よく分からないような顔をして顔を傾げている。それもそうだ。塁に優しいから好きだなんて、変な理由だ。 「これから言う事は内緒にしておいて。塁は、同性愛者じゃないけど、智樹君の事が好きなの」 「は?」と息を吸ってるんだか吐いてるんだか分からない声を上げ、私を見るその目は、何とも形容のし難い揺らぎを見せていた。 「だから、そういう事をカミングアウト出来る塁も好きだし、そんな塁に優しくしてる智樹君を見てたら、何か自分が優しくされてるみたいな錯覚を起こして、好きになっちゃった、みたいな?」 結局よく分からないのだ。好きになるのに理由なんていらない。何か、好きかも。そんな所から始まる恋があって、いいんだ。触れてしまったから好きになったとか、喋ったら好きになったとか、そういう明確な理由なんていらない。何となく好きになった。それで十分じゃないか。 「じゃぁ矢部君は俺の事も好きだという事で、ファイナルアンサー?」 いきなり後ろから塁の声が響いたのでギョっとして二人とも後ろを振り返ると、不敵な笑みを浮かべる塁が横たわっていた。 「俺の事も智樹の事も本気とあっちゃ、こっちも本気で行かないとねぇ、智樹」 智樹君は首の後ろをぽりぽりと掻いている。言葉が見付からないといった感じだ。 「いつから聞いてた」 後ろを振り返らず塁に冷たい言葉を掛ける智樹君は、少しばつが悪そうだ。 「矢部君が俺の事を好きだって所から大体聞いてました。矢部君、余計な事喋ったから明日のお昼ご飯は君が一人で作りなさい」 余計な事。ぴんときた。塁が智樹君の事を好いているという話か。あれは聴かれたくなかった。 塁は起き上がって伸びをした。 「おい、もう大丈夫か?」 智樹君が塁の首筋を触ると「おぉ、もう下がったみたいだなぁ」と言い、塁は「もっと触って」とふざけた。塁の、こういう正直な部分が好きだなぁと思い、私はニヤニヤしながらその遣り取りを見ていた。
塁はテーブルの方へやってきて、残っていた缶チューハイとポテトを食べ始めた。 「何かさ、俺ら何やってんだろうね」 愚痴っぽく言うので私は「何が?」と寝起きの塁を見遣った。茶色いストレートの髪の一部がぐしゃっとなっている。 「好き好きの連鎖でさ、何も生まれないの。バカみたい」 私も智樹君もプっと吹き出すと「笑い事じゃありませんよ」と塁は咎めた。 確かに、私は二人の事が同じぐらい好きだから、どちらかを選べと言われても選べないし、智樹君と塁は結ばれる事のない性に生まれて来てしまっている。何も生まれない。 「でもさ、自分の事を好きでいてくれる人がいるって、幸せじゃない?」 「そうだよ、俺だって塁に好きだなんて思ってもらって、幸せだよ」 ポーカーフェイスの塁の顔が珍しく赤く染まる瞬間だった。カメラで撮って脅しに使ってやりたいとさえ思った。 「でも俺は智樹にケツの穴差し出す予定はないからな」 智樹君は盛大に笑い「お前が下って決まってんのかよ」と言ってまた大笑いした。
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