三月の終わりの土曜日。今日男は絶対に来るだろうと思っていた。 刺身と炊き込みご飯、サラダと味噌汁を用意し、男が来るのを待った。 しかし、いくら待っても男は来なかった。
時計の針は二十三時を指していた。 私は灰色の携帯電話を手に取り、男の名前を呼び出した。 震える指で、通話ボタンを押す。 いつもなら、風呂に入っている時間だろうか。だとしたら、不在着信でかけなおしてくれるだろう。 呼び出し音が長く続いた。出ないのだと思い、携帯電話を耳から離し、通話終了ボタンを押そうとした瞬間に、小さな穴から「もしもし」と掠れた声がした。 すぐに耳にあて、男の声を待った。 『あの、夫に何か用ですか?」
私はすぐに通話終了ボタンを押した。
夫――。
出向から帰ったら、結婚の準備をすると言っていた男には、妻がいる。 いや、正確にいうと、妻が出来ていた、のだ。いつからか。 手に持っていた携帯電話がごろりと転げ落ちた。
私は鳥籠を手に持ち、ベランダに出た。 街灯に照らされた夜桜は見事で、花弁が私の顔にひとつ、ついた。そのままにした。 「明日の朝には、青空が見えるからね」 鳥籠の出入り口を開けて固定した。餌も水も、十分入っている。 「出たい時に出て、帰りたくなったら帰っておいで」 格子に指をやると、スカイは私の指先を啄んだ。
桜の花弁が部屋に入り込んでもいいと思い、掃出し窓は開けたままにした。 夜風が冷たい。でもそんな事はもう、関係ない。 苦みのある睡眠導入剤を、五粒ほど飲み込んだ。意識がもうろうとするまでの時間が少しは短くなるだろう。 キッチンでいつも使う包丁を手にし、浴室へと向かった。 折り畳み式のドアを開けるとギィと軋む音がする。 お湯の張られていない淡い桃色の浴槽に身を沈め、頸動脈の位置を指で確認する。 いざとなったら、深めに切ればいいんだから。簡単な事。
泡と水が一体となって押し出される様な音がする。 浴室の壁に飛び散った赤い物が、重力によって垂れて行く。 さっき顔についた桜の花弁は、もう紅色に着色しただろうか。梅の花弁のように。 部屋から、携帯電話の機械的な着信音が響く。男に設定した着信音だった。 もう遅い。かなり前からもう、手遅れだった筈だ。 薄れゆく意識の中で、人間の心臓が血液を送り出す力強さを感じた。死ぬ間際になって、生きていると実感する。 朦朧とする視界に、スカイが飛び込んできた。 「スカイ、外に羽ばたきなさい」 声になったかどうかも定かではない。スカイは首を左右に傾げて、浴室から出て行った。 水色の小さな羽が一枚、ひらりと落ちるのが分かった。
近いうちに男は、私の重さを思い知るだろう。 私がどれ程男を思っていたかを。 それでも、男が傍にいなくても、私には静かな眠りがやってきた事を。
|
|