「そろそろアイスコーヒーの時期だよねー」 玄関を入るなり、これだ。 「そう思ってコーヒー冷やしておきましたぁ」 さすが、といいながらスリッパをつっかけ、リビングへ歩いて行く。 今年のゴールデンウィークはお天気に恵まれる予報で、各地の高速道路は渋滞が酷いらしい。 私はこうして、実家にも帰らずに、自宅に客を招いている。 「沢城さんは連休中どこも行かないの?」 グラスに入った牛乳とガムシロップにアイスコーヒーを注ぐ。 「行かないよ。神谷君は?」 「奇遇だな、俺も行かないのだよ」 アイスコーヒーとコースターをテーブルに置いた。カラン、と氷が動いた。 いつも通り、私は自分の分を後から持ってくる。 「いいなぁ、川の新緑が目に染みるよね。ね?」 私の同意を求めて来るので仕方なく「うん」と頷く。
三月の終わりに、課長との関係は解消した。 落ち込みこそしたが、仕事を休んだり、寝込んだり、そこまでではなかった。 それはこいつ、神谷久志のお陰だったんだと思う。 励ましてくれるでもなく、放置するわけでもなく、凄く良い位置を保っていてくれた。 「予約票」の事なんて一言も触れなかった。
私はオーディオラックにそっと置いてある黄緑色のピックと、リッケンバッカーを手に、ソファに座った。立ち上がって外を眺めていた神谷君はそれを見て「お」と言い、ソファの端に腰掛けた。 ストロベリーフィールズフォーエバーを弾いた。神谷君は下手糞なりにもそこに歌をつけた。私はギターを弾きながら笑いを堪えるのに必死だった。
「何で笑ってんだよぉ」 少年の様に口を尖らせて顔をそむけた。 「はい、予約票」 予約の「予」の字が少し、削れてしまったそのピックを、彼に手渡した。 「どーゆー事?」 神谷君が呆けたような顔で訊く。 「こっちこそ、これをどうしたら行使できるのって訊きたい」 神谷君は難しい顔をしてピックを眺めていた。そして、はっと私の方を向いた。 「ほんとに?」 「ほんとに」 「何で?」 「私には神谷君が必要だと思ったから」 今までに見た事が無いぐらい動揺する神谷久志は、リビングの中をぐるぐる回り始めた。 ついに、ついに頭がおかしくなってしまったか。残念だ。 「ねぇ、拭くだけでメイクが落ちるあの紙、貸して」 何に使うのか、私は怪訝な顔で寝室に入り、拭くだけシートを一枚持ってリビングに戻った。 彼はそれを使ってピックを擦った。神谷君が描いた黒い字がみるみる消えていく。 「はい、じゃぁこのピックを使ってギターを弾くのは神谷君の前だけね。他の人の前ではこのピックを使っちゃぁいけませんよ」 私に黄緑色のピックを寄越した。 私はピックとギターを元の場所に戻し、コーヒーを飲むためにソファに座った。 神谷君は三人掛けソファの端っこから、真ん中に席を移していた。 「神谷君の粘り勝ちですかね?」 「そうだね」 私は苦笑した。彼は相変らず眠たげな、光の灯らない目をしながらこちらを見た。 「俺は終わりなんて考えないから。そういう悲しい思いはさせないから」 こういう時ぐらい、真剣な目をしてくれたらいいのに、そんな風にぼやきたいのに、何故か私の目からは透明な液体が流れ落ちて来るので、身体と心は連動しないんだな、なんて思った。 「女の涙はここぞという時に残しておきなさい」 「うん」 彼の温かい手が、私の頬を拭ってくれた。 そのまま短くキスをした。あの時の、サンライズで課長とした短いキスを思い起こさせるキスで、辛かった。拭った筈の頬に再び流れ出す涙。 「まだ――まだ完全に忘れられた訳じゃないんだ。こうやって時々思い出しちゃうんだ」 嗚咽交じりに話す私の声に、隣に座る神谷君は耳を傾けている。 「それでも神谷君の優しさが私に必要だって思ったの。それでもいい?」 神谷君は私を身体ごと抱き寄せた。強く、苦しいぐらいに、抱いた。 「こうやって、課長の事なんて、雑巾の水みたいに絞り出しちゃえばいいんだ。思い出しちゃったら俺に言うんだよ。絞ってあげるから」 「うん」 私の嗚咽がとまるまで、私の中の課長が出て行くまで、神谷君は私を強く強く抱きしめていてくれた。
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