.9 江戸っ子
「と、言う訳なんでさぁ」
レイちゃんの家で壁に寄り掛かり、事の顛末を報告した。まあ、セックスをしたとか、その辺りは曖昧に。 「結局、そうなったかぁ。ま、いいんじゃない。ミキちゃんも未練たらたらだったんだし」 パスタを茹でる手も止めず、言い放つレイちゃん。半ばあきれ顔だ。 「言ってくれるじゃないか。でもそうだね、未練たらたら引きずってたよね。内臓引きずって歩いてるみたいだったからね」 パスタを食べる前に言う比喩ではなかったと、後悔した。
「サトルさんからは連絡あったの?」 「うにゃ、無い」 窓から遠くを見つめた。あれからもうすぐ1カ月だ。もう連絡を期待するまでもない。私には、ユウがいる。トマト缶を開ける、金属がすり合わさる音がする。缶詰。サトルさんの台所。手放した物をやはり欲しがる、欲張りな自分に喝。
「いいなー、私も早く彼氏が欲しいなー。ラブい事したいよー」 茹であがったパスタを手早く湯切りボウルへ移すと、ミニキッチンに湯気が充満した。レイちゃんは温めてあったソースをパスタにかけた。それをテーブルに置く。すぐまたミニキッチンへ引き返し、グラスにお茶を注ぐ。 「レイちゃんは、いいお嫁さんになりそうだよね」 「え、何それ。相手もいないのに」 フンッと鼻で笑った。凝った料理ではないにしろ、私が訪ねると必ず手料理を振舞ってくれる。「あるものでいいかな」と、あるものでパパッと作るのだ。1人暮らし。私もそろそろ母ばかりに頼らず、自分で生活していく力を身につけなければ。レイちゃんの家に来る度に、痛感するのだった。
携帯が鳴った。名前ではなく、電話番号が表示される。固定電話だ。通話ボタンを押す。 「はい?」 「中野ミキさんの携帯でよろしいでしょうか」 「はいそうですが」 「株式会社水原の人事を担当しております加藤と申します」 ――あ、面接の結果だ。 学校推薦を受け、クラスメイトのタキと共に国内大手の食品会社の就職試験を受けたのは、5月頃だった。加藤さんは、第1回の面接官を務めた方だ。
「先日の面接の結果ですが、合格という事で、是非私達を一緒に働いていきましょう」 あぁ、受かっちゃった。自然に顔がほころんだ。 「ありがとうございます、がんばります」 お礼を言い、電話を切った。3月頃、必要書類を送付してくれるそうだ。 レイちゃんに報告した。
「水原、受かっちゃったよー。もう就職活動終わっちゃったよー」 「えー、凄い、大手じゃん」 「ね、大手だね。がつがつ稼げるね」 「いいな、恋愛も、就職も、絶好調じゃないのー」 表面の熱を奪われてしまったパスタを、一旦底から混ぜ返し、フォークでくるくると巻いて口に運ぶ。
「就職したら、一人暮らし、しようかなぁ」 「自宅から通えるのに?」 自宅から会社までは1時間程度だ。通えないわけではない。しかし、社会人としては万端にやっていけるとしても、1人の女性として、しっかりとやっていけるようになりたいのだ。ほら、嫁の貰い手が無くなるというか、ねぇ。 「レイちゃんみたいに、パパッとご飯作ったり、部屋もさ、小奇麗に保ったり。そういう力が欠落しているのだよ、私は。それをどうにかするには、強制的に一人になるしかないかも」 「うん、ご両親に相談してみたら?」 「年が明けたら、相談してみようかな」 小さな角切りのにんじんが、フォークからポロリと落ちた。もう一度刺すのにえらく時間が掛かった。
八月にしては、今日は風があって過ごしやすい。レイちゃんの家の窓からも、湿った風がすーっと入ってくる。 学生最後の夏休み、レイちゃんに合ったり、ユウと夜のドライブに行ったり、時には国家試験の勉強をしたり、充実の日々を過ごしていた。
.10 無宗教
携帯電話がメール着信を知らせたのは、ユウと逗子海岸で海を見て、帰ってきた23時頃だった。
サトルさんからだった。 あれから1ヶ月が経った。心臓がドクン、と1度大きく鳴った。メールを開くキーを押す親指が、小刻みに震えている。
『連絡が遅くなって申し訳ない。元気にしているかい?この1ヶ月で色々と思いが錯綜してメールが出せなかった。 結局あの日、ミキ嬢の事が好きだったから、あの様な行動を起こしたんだと思う。 好きなんて気持ちは、俺はなかなか持続しない。だけどあの日、ミキ嬢を愛おしいと思った事は本当の事だよ。 こんなに間が空いてしまって、俺の事なんて何とも思っていないと思うけれど、自分の気持ちを伝えておきたくて、今更ながらメールをしたんだ。良かったら、返信ください。』
どう捉えたらいいのか。ややこしいメールだった。ふわふわだ。 あの日、私を抱きしめたサトルさんは、私を愛おしと思っていた。キスした唇にも、嘘はなかった。 だけど、「好きなんて気持ちは持続しない」という一文が引っ掛かるのだ。今はどうなんだ、今は。
私はあの日から、ユウに連絡を貰う日まで、サトルさんの事を想っていた。好きで好きで、連絡を待ちわびていた。それでも連絡はなかった。私の気持ちは1週間持続し、そしてユウへと移った。 今はユウにある。愛情なのか、情なのか判別は難しいのだが。私は、欲深い人間だ。ユウと付き合っていながらも、サトルさんと恋仲になる事を望んでしまう自分に嫌悪を抱いてしまうが、受け入れるしかなかった。それが自分だ。手に入る物は多い方が良い。そんな欲張りなのだ。
自分の気持ちを正直に携帯に打ち込み、サトルさんへと送信した。
『メールありがとう。あの日から、私の「好き」は1週間持続し、サトルさんからの連絡を待っていました。 だけど、あまりにも近い所に、私を必要とする人がいて、私は流されてしまいました。元彼と、付き合っています。 私は、サトルさんの「女友達」になりたかった。だけどあの日以来、それ以上を期待していました。彼女になりたいと思っていました。今でもその気持ちはあります』
欲深い私は、ユウも、サトルさんも欲しい。だけど手の届かない存在だと思っていたサトルさんが急激に近づいた今、私は彼が欲しい。ユウには悪いが、これが正直な「私」という生き物だ。
喉を潤しにキッチンへ行った。リビングでは母がテレビを見ていた。私は水玉模様のグラスに麦茶を注ぎ、リビングのソファに腰を掛けた。 「人生ってのは、うまくいかないものだね、お母さん」 「え、何それ急に、気持ち悪い」 怪訝な顔をされた。 グラスが空になるまで、「飲んで痩せる」というゼリー飲料の通販番組を、空っぽの眼で見ていた。日付が変わった。
翌朝、目を覚ますと、サトルさんからの返信メールが来ていた。
『返信どうもありがとう。メールが来ないんじゃないかと心配していたよ。 どうやら俺たちは、タイミングの神様に見放されたらしいね。元彼君とはうまくいっているようだし、彼を、大切にして下さい。 それと、俺の女友達になるって、そんなに気負わずとも、もう俺の女友達だよ、ミキ嬢は。女友達として、また家に誘ってもいいかい?その頃にはもう少し、涼しくなっているといいね。また連絡します。』
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