.5 イニングス
サトルさんから「家に遊びに来ないかい?」とお誘いを貰った。
1人暮らしが長く、それなりに料理が好きなサトルさんが、「得意の肉じゃがをごちそうするから」と言ってくれた。 サトルさんの家までは電車で1時間もあれば着く。私の兄が住んでいる街だ。と言っても広い街。兄に遭遇する可能性はゼロに等しい。
最寄駅までサトルさんが迎えに来てくれた。今日もまた、全身センスフルな姿だ。一緒に歩くのも躊躇ってしまう。 近くにあるスーパーで食材を買って、歩いて一五分程のサトルさんのアパートへ向かった。一緒に歩いているところを他の人に「恋人同士」なんて思われたらどうしようー等とアホな事を考えていたら、段差で躓いて転びそうになった。 こんな素敵な人が私の彼氏だったら、それこそ「思い出づくり」だけでも昇天する程に幸せな事だ。終わった時の傷は想像を絶するけれど。
サトルさんの部屋はワンルームのアパートで、適度に散らかっていた。 「これが自慢の炬燵トップPCです」 壁際に追いやられた炬燵の天板にマッキントッシュのデスクトップPCが置かれていた。 そのキーボードをどかして、「どうぞどうぞ」と席を勧めら、「どうもどうも」と座った。
「何もしなくていいから、ゆっくりしていてよ」と言われた。この状況は、男女が逆転しているではないか。私は肉じゃが、作れないけど。 炬燵トップPCの周りには、仕事関係の資料なのか、沢山の紙類が積まれていた。その中にサッカーの雑誌があった。そういえば、サッカーが好きって言ってたな。 私はサッカーよりも野球を好むので、この点では話が盛り上がらないと思い、メールではスルーした話題だったのだ。部屋を見渡すと、イギリスプレミアリーグの、私でも知っている有名チームのレプリカユニフォームが飾ってあった。 普段は料理と言っても簡単に済ますことが多いと言っていた。台所にはあらゆる缶詰が積まれていた。なるほど。缶詰で簡単料理か。メモメモ。 手持無沙汰でキョロキョロと部屋を見回していたが、それも失礼かと思い、サッカーの雑誌をペラペラめくって時間をつぶした。 「これじゃ狭いねぇ」 サトルさんは、積んであった紙類をドサっと炬燵の横に置いた。白くて細く、でも男らしい筋張った腕でお盆を持ち、テーブルにご飯と肉じゃが、お味噌汁を並べてくれた。一人分だった。 「あれ、サトルさんは食べないの?」 台所に戻り、壁に寄り掛かったサトルさんは手を左右に振った。 「俺はいつももう少し遅い時間に食べるから、今はコレで」 ポケットから煙草を出した。 「ごめんね、ご飯中に煙たいかも知れないけど、嫌だったら言ってね」 一応換気扇は回したてるんだけど、と台所で立ったまま煙草を吸い始めた。
私は両手を合わせて「いただきます」をして、目の前に出された「おふくろメニュー」を食べ始めた。 とても優しい味で、これを男の人が作ったと思うと、何というか――負けた気分。 「すんごいおいしいー。男の手料理、おいしいー。幸せー」 これは大げさではなく、本音が口に出た。周りには一人暮らしをしている男性がいないので、こんな事はとにかく新鮮なのだ。そして、招いて貰えたことがとても幸せだった。憧れの、あの憧れのサトルさんに。 私の笑顔を見て、サトルさんもまんざらではない様子だった。
出された食事を全て平らげ、旦那の実家を訪ねた嫁のように「洗い物ぐらいは」と申し出たが、サトルさんに拒否されてしまい、結局こたつに戻った。もう初夏の陽気なのに、炬燵布団をしまわないサトルさん、部屋も適度に散らかっているサトルさん。少し親近感が湧く。 「ミキ嬢(何故かメールやりとりの中盤から私を「嬢」呼ばわりするようになった)は彼氏といつ別れたんだっけ?」 「半年ぐらい前かな。サトルさんは?彼女は?」 知りたいような、知りたくないような、そんな感じでメールでは訊ねた事が無かった。 2本目の煙草を吸っているサトルさんを見上げながら訊いてみた。 「1年ぐらい、いないかなー。出会いも無いしね。職場、男ばっかりだし」 確かに、彼女がいたらこんな風に女を家に招いたりしないよね。相当な女好き以外は。
「ミキ嬢は、男女の友情ってあると思う?」 煙草の煙を吐きながら言う。あまりにもタイムリーな話で驚いた。田口を思い出す。 「私はあると思ってるんだけど」 「そういう友達、いるの?」 「うん、まぁ、いますね、一人」 PCのリンゴマークを見つめながら、田口の話をした。 「それはさぁ、友情じゃないんじゃないかな。多分その彼はミキ嬢を好いていると思うよ。ミキ嬢もまんざらでもないでしょ」 田口に恋愛感情――。 向こうの思いは分からない。私は――私は、嫌いではない。いや、きっと好きなんだ。恋愛に発展したって別にいいと思う。だけど恋愛に発展してしまったら、壊れてしまうのが怖くて仕方がない。田口の優しさが消えてしまうのが怖い。ユウと別れてから、幸せな時間が無限ではない事を知って、『恋愛』というものがとても恐怖であり泡沫な事に思えてならないのだ。
「私は、彼の事を嫌いではないんだ。好きじゃなかったら自宅に呼ばないし。だけど、お互いが好き好きオーラを出してしまった後に、片方が飽きて好きオーラを失ったとするでしょ。そうすると凄く大怪我をすると思うんだ、心に。それぐらい、凄く大切な人なんだよね。失いたくない人」 サトルさんは優しく微笑んで「凄く大切な人、いいね。言われてみたいな」と言った。 ――私は何を話しに来たんだ、ここに。 こんな筈ではなかった。結局、サトルさんは男女の友情があるかどうかについては話さなかった。
「駅まで送るよ」という申し出を有難く頂戴して、サトルさんと並んで暗くなった道を歩いた。サトルさんの内面を見る事は出来なかったけど、私は自分の内面を少し知ってもらって満足だった。少し、2人の距離が近くなったような錯覚を起こした。錯覚でもいい。憧れの人とこうして肩を並べて歩いている、その現実だけでも相当お腹がいっぱいなのだ。 帰りは、このあたりに兄が住んでいる事や、このあたりの家賃相場等、割とどうでもいい話に終始した。
「またメールします。ごちそうさまでした」 今回は私がこう言って、さよならをした。
電車に揺られていると、携帯にメールが来た。サトルさんからだ。 『今日は来てくれてありがとう。誰かが家に来て、帰ってしまった後に残る寂しさが嫌いなんだ。帰ってほしくないと思うね。それじゃ』 携帯ごと抱きしめてやろうかと思った。私から見ると、とても大人な男性で、精神的にも強そうで、何でも知っていそうな完全無欠な人に見えるんだが、こういう事、ぽろっとメールに出しちゃうんだな。 可愛い人なんだなぁと思った。 車窓に映る自分のにやけた顔の真ん中、鼻がテカテカしていて「こんな顔で接していたのか――」と悔やんだ。そろそろ「お化粧をする」という知恵をつけたいところだ。
サトルさんは、私にとって「男友達」になるだろうか。今のところは「メル友」の「お兄さん」だ。 恋愛関係に発展することはまずないだろう。私にとってサトルさんは高嶺の花だ。この言葉を女である私が使う事はおかしいかも知れないが、この表現が的確だ。
見た目も、性格も、全てが私の「ストライクゾーン」のど真ん中。私自身が強烈な「ワイルドピッチ」な訳で、どうあがいても彼を自分の物には出来ない。サトルさんの彼女になる事なんてまず無理。ありえない。 彼女になれないなら、女友達ならどうだろう。 こうしてサトルさんの手料理を食べに行く私を、サトルさんはどう捉えているのだろうか?
私は、少なくとも「メル友」から「女友達」になりたい、そう思った。
.6 本塁打
アスファルトを踏むスニーカーの底が溶けてしまうのではないかと思うぐらい、暑い日が続く。本当に暑い。 教室の窓から見える木々は、申し訳程度に揺れ、風が殆ど吹かない。 短大の校内は冷房は勿論、扇風機すら無いので、窓を全開にしていてもシャーペンを握る手に汗をかいてしまい、ノートが湿り気を帯びる。
終了のチャイムと共に「あっぢー」と叫びたくなるのを我慢して、机に蹴りを入れると、逆に机に蹴り返されたように椅子ごとひっくり返った。まるで小学生だ。 「金曜日、ミキちゃんはどうする?スカルディのライブの後」 レイちゃんが本日2本目のコーラを手に、教室に戻ってきた。私は打ち付けた背中をさすりながら椅子を起こした。スカート履いてなくて良かった。 ライブには、私の知らないレイちゃんの友達、シノちゃんが来る。私は人見知りが激しく、人と1日で打ち解け合えるような人間ではないので、おそらくその友達とも二言三言会話を交わして終わりだろう。
「私はライブが終わった後、ご飯食べがてら飲み屋行って、シノちゃんのアパートに泊まろうと思ってるんだけど」 脇の下が千切れんばかりに盛大に伸びをしながら丁重にお断りした。 「うーん、私はいいや。電車があるうちに帰るよ。ご飯だけ一緒に食べようかな」 「了解。じゃぁシノちゃんにも言っておくね」 家まで終電があるかどうか――微妙な所だな。 渋谷から自宅までの間に友達の家でもあれば泊まって帰るんだけど。
自宅に帰り、渋谷から自宅に帰るには、何時の電車に乗ればいいのかを計算した。ライブが終わってからどさくさに紛れてなかなか会場から出られないというのが常なので、そこも計算に入れて、それからご飯を食べる時間も――うはぁ、時間ない。 どうしたもんかぁと考えながら、サトルさんからのメールを読み、返事を書いた。 サトルさんのメールは本当に面白い。長いのに人を飽きさせない。ライトな下ネタを挟んでくる所も、私のツボに入るのだった。
『近いうちにまた遊びに来ないかい』
そんな事が書いてあった。ふと、ライブの事を思い返す。 渋谷からサトルさんの家までなら、確実に電車で帰れる。「遊びに」ではなく「泊りに」だけど――。 こんな事書いたら、下心丸出しみたいで、嫌われるかな。ビッチ認定されたらどうしよう。 それでも勇気を振り絞って、書いてみた。ライブの日、泊めてもらえませんか、と。 『襲ったりしませんよ』の一文を添えて。これじゃどっちが男か女か分からないな。
「じゃぁ、ごめんね。荷物、頼むね。」 モッシュピットに行くシノちゃんとレイちゃんの荷物を持って、私は最後列のドアに寄り掛かりながらライブが始まるのを待った。 私は以前行った野外ライブフェスで、モッシュピットに入った際に、延髄蹴りを食らったのがトラウマになり、以降モッシュピットには近づかない事に決めている。何より、後方の方が落ち着いて観る事が出来る。ライブ好きではなく「音楽好き」には後方での鑑賞が向いている。短大の軽音楽部でベースをやっている私は、バンドを見るとベースに目が行く。
ステージにライトが射し、ライブが始まった。歓声とともに、ステージにはバンドメンバーが続々と現れ、演奏を開始する。モッシュピットはラッシュアワーの山手線と言ったところか。私は演奏を聴きながら、サトルさんの事を考えていた。 『是非、寄っていきなよ。ライブの話も、それから例の男友達の続報も、聴かせてください。おすすめの映画があるから、一緒に観よう』 そんな返信を貰っていた。今日はライブが終わって食事をしたら、すぐに電車に乗ってサトルさんの家に向かう事になっている。お酒とか、買っていくべきかなぁ。映画観ながらお酒飲んで、私はこたつで寝かせてもらおうか。寝ないで朝を迎えてもいいや。そしてお礼を言って帰ろう。うん、それがいい。
田口にとっての私の様に、サトルさんにとっての「女友達」になるんだ。
金管楽器がステージのライトを反射してきらめく。私は金管楽器の経験はない。相当な肺活量が必要だと聞く。 あんなに激しいスカパンク、音楽に合わせて楽器を振ったり、凄い体力だな。 ユウの車で聴いたスカルディのCDの事が頭をよぎった。すぐに振り落した。ユウの事は桜の花と共に散らせたんだ。もう思い出さない。
ライブが終わり、汗だくのレイちゃんとシノちゃんが戻ってきた。 「荷物、ありがとうねー。後ろからでも楽しめた?」 シノちゃんが首に巻いたタオルで汗を拭きながらたずねてきた。 「うん、私、背高いし、見やすかったよ。チケット、どうもありがとうね」 「前の方、凄かったよ。満員電車って感じ。あと、イケメンが沢山いた。なんでパンクのライブって、イケメンが多いんだろうねー」 レイちゃんは通り過ぎていく汗だくの男達を見ながら言った。確かに、中身は別として、外見は素敵な男性が多い。でも、バンドTシャツを着て、一つのバンドに熱狂的になっている彼らを、少し冷ややかな目線で見てしまう自分がいる。 音楽は「広く浅く」が丁度よい。
荷物をまとめて外に出る。腕時計は22時を指している。サトルさんの家には何時に着くだろうか。ライブハウスより幾分涼しい夏の空気を大きく吸い込み、そして吐き出した。 ライブハウスから歩いてすぐの所に小さなイタリアンのお店があったので、そこで夕食を食べた。 シノちゃんもレイちゃんも「眉毛書かなきゃ」と言って化粧ポーチを取り出し、鏡に向かって眉毛を書き始めた。女の子って大変ね。地眉で生活している私はそう思う。 シノちゃんはどこかのお国のクォーターらしく、お人形さんのように色白で、大きな瞳に高い鼻の美人さんだった。私ほどではないにしろ、背が高く、そして手足が長くて細い。 こういう人が、サトルさんの様な人と並んで歩くのに相応しい。
さ、早く夕飯を済ませて、サトルさんの家に行かないと。 「ミキちゃんは今日、家に帰るの?うちに泊まっていかない?」 眉墨を持つ手を止めてシノちゃんがたずねる。眉が半分でも全然可愛い。 「うーん、家には帰れなそうだけど、途中の駅の友達ん家に泊めてもらうんだ」 「そうなんだ、今度レイちゃんと泊りにおいでよ」 「うん、ありがとう」 シノちゃんは人見知りをしない性格の様だ。綺麗で人見知りも無し。そして優しい。うーん、敵わない。比べても仕方のない比較対象に完敗して、もう悔しくない。嫉妬も出来ない。
サトルさんの家までは渋谷から電車で一本。その終電に間に合うかどうかの瀬戸際だった。イタリアンレストランを出てタクシーを拾い、渋谷駅へ向かった。間に合わなければ、シノちゃんの家に泊まらせてもらえば良いだけの話なのに、どうしてもサトルさんの家に行きたかった。サトルさんに会いたくなった。
私がサトルさんにとって、「女友達」になれるかどうか、確認したかった。あわよくば、それ以上になれるのか。少し、欲張った考えが頭をよぎった。人間なんて、そんなモンだ。一つ叶えばもう一歩先へ、また一つ叶えばもう一歩先へ。欲深いのだ。そうして失敗をして後悔する。
終電間近の渋谷は、人もまばらだった。薄ら汗ばむ額から、すうっと汗が蒸発して、すれ違う空気が熱を奪っていく。軽く息を切らせながら東横線の改札をくぐると、まだ停車している電車が2本、あった。間に合った。 そこからサトルさんの家がある最寄駅までの車中で、携帯音楽プレイヤーから流れるパンクロックに耳を傾けていた。
駅まで、サトルさんが迎えに来てくれた。今日は着古したTシャツにマドラスチェックのショートパンツを履いていた。 「やあ。ようこそ」 「ども、遅くなりました」 ペコっとお辞儀をして、サトルさんが足を向ける方向へ、私も踏み出した。 「ライブはどうだった?」 「うーん、楽しかったよ。一緒だった2人は私より楽しんでた様子だったけどね」 「ん、それはなぜ?」 「私はさ、前の方行かないから。後ろでじーっと地蔵のように聴いてた」 「マグロだね」 「そうね、猥褻な表現をすると、私、マグロなんですぅ」 そんな会話をしながら、見覚えのあるゴミ集積場を曲がり、アパートへ向かった。もう、一人で来れるかな。
部屋に入ると、炬燵の横にグレーの布団が一組、敷いてあった。ワンルームなので、横幅一杯だった。敷布団の上に、薄手のタオルケットが、足元にくしゃっと置いてある。私が連絡を入れるまで、サトルさんは布団でごろごろしていたのだろう。枕もとにはビールが一缶、サッカーの雑誌が置いてあった。 「すんませんね、散らかってますけど」 「いえいえ、こちらこそ何か、押しかけてしまってすんません。こんな時間に」
炬燵からは炬燵布団が無くなっていた。サトルさんが以前、書類をドカンと置いたあたりに、背負っていたショルダーバッグを置いた。お尻のポケットに入っていた携帯の着信を確認した。母には「レイちゃんの家に泊まる」と言ってあった。「れいちゃんによろしく」という短いメールが、母から入っていた。
「布団の上、乗っかっちゃっていいから。ビールでいいかね?」 2段の小さな冷蔵庫から、缶ビールを出してみせてくれたので、「ハイ」と頷いて返した。そこで初めて、お酒を買ってくるのをすっかり忘れていた事に気づく。 サトルさんの手からビールを受け取ると、炬燵の横に座った。プシュっとプルタブを引き、立ち上る儚く白い二酸化炭素が目に入る。
「乾杯」 サトルさんは飲みかけのビールで、私は早くも結露をしている冷えた缶ビールで乾杯した。少し汗をかいた後だったので、苦手な炭酸も苦にならずに喉を鳴らして3口飲み込んだ。コーラを飲むレイちゃんを思い出した。 レイちゃんに「サトルさんの家に泊まる」と告げた。レイちゃんはニヤッと私を見遣って言った。 「何かあるよ、一晩男と女が一緒にいて何もない筈がない」 それでも田口との間には何もなかった事を例に出したが、引かなかった。 「田口くんは奥手なんだよ。それか、ミキちゃんに惚れすぎていて手が出せなかったんだよ」 「んな訳ないよー。私と田口は男女の友情で結ばれているのだよ、アハハ」 「出た、天空の城」 そんな風にからかわれた。サトルさんと一晩一緒にいて、何かあるだろうか。お酒は飲み過ぎないようにしよう。酒は飲んでも飲まれるな。
「そうだ、映画、観ようよ」 そう言ってサトルさんは掃出し窓の方へ行き、テレビを操作した。 「遅くまで起きてて大丈夫ですか?」 「あぁ、明日は午後から仕事だから、大丈夫。映画観たら寝るよ」
映画の内容は、主人公の日常生活をテレビで生放送される事になってしまうという内容だった。エンディングがどういう風だったのか、実は座ったままうとうとしてしまって覚えていない。情けない。ビデオを停めに立ち上がったサトルさんの動きでハッと目が覚めた。
「眠そうだったねぇ、退屈だったかな」 映画の内容が退屈なわけではなかった。ただ、疲れていた。渋谷くんだりまで出てくる事も疲れるし、初めて会ったシノちゃんと話すのも疲れた。何よりサトルさんの家に行く、という事についてあれやこれや頭を酷使する事で、とても疲れたのだった。
「退屈じゃなかったよ。最後の方、ちょっとうとうとしてしちゃった。ごめんなさい」 「正直だねぇ。首がコクンとなって、なかなか可愛いものだったよ」 ちょっと顔が赤くなった事に自分で気づいた。咄嗟に俯いた。 「あら、それはどうも。起こしてくれたら良かったのに」 「うん、でもミキ嬢をの寝顔を見てるのもなかなか面白かったよ」 私の顔を覗き込みながら微笑む。 「そんな事してないで映画観てください」
何だか恥ずかしくなって炬燵の上に置いた携帯電話に目をやった。 「だって俺、一回観てるし。結末知ってるし」 「じゃぁ結末を是非、教えてくださいな」 恥ずかしさを紛らわすために、無い事が分かっている着信とメールを確認しながらそう言った。サトルさんは煙草に火をつけ、布団にゴロンと横になった。 「あ、寝煙草、危険」 「大丈夫、寝る前に消すから」
私はこの布団で寝ていいんだろうか。見渡す限りでは他にスペースは無い。答えが分かっているけれど、一応質問をぶつける。 「私、廊下で寝ましょうか?」 ブハっと煙を口から吐きながらサトルさんは笑った。 「いえいえ、何も手出ししないから、布団で寝てくださいよ。俺インポだから大丈夫」 「インポ?え、何それ?後で詳しく聞かせてもらおうか」 手にした携帯を炬燵の上に戻し、「では失礼」と言いながら、布団の左端に横になった。右を向くとサトルさんの顔が近いし、背を向けるのも何だか失礼かと思い、真上を向いた。
煙草を吸いながら、サトルさんは映画の結末を話してくれた。 「で、インポの話をしてよ」 上を向いたままで話を振った。我ながらストレートな話の振り方だ。煙草を吸い終わったサトルさんは、同じよううに天井を見つめながら話を始めた。
「何かこう、猥褻なビデオとか雑誌とか見ても、興奮しないんだよね。勃たないんだよね。」 「猥褻なビデオとか雑誌が、この部屋にあるという事だね」 「聞くまでもなく」
健全な男子たるもの、そんなものだろう。彼女がいないと言っていたし、発散する場と言ったら自分でするか、お金を払うか。アイドルがウンコしないと思ったら大間違いだ。 「実際の女性の身体を前にしたら、勃つんじゃないの?」 「それはどうかなぁ。ビデオにしたって雑誌にしたって、今まで勃ってたのが急に勃たなくなっちゃったんだもん。期待薄ですよ」
天井からぶら下がっている蛍光灯の紐が、わずかに揺れていた。まっすぐに、私のおへその辺りに円を描くように。 「精力増強剤飲んでみるとか?」 「それいいね、今度買ってみよう」 インポに関する話は終わった。丁度話が途切れた。
「そろそろ、寝ますか。明日はゆっくり起きましょう」 時計を見ると、既に3時を回っていた。明日、というか今日、起きる事になる。 サトルさんは立ち上がって、「最後の1本」と台所で煙草を吸い、布団に戻る時に電気を消した。タオルケットを掛けてくれた。 「おやすみ」 「おやすみなさい」 私はタオルケットを引っ張らないように気を付けつつ、サトルさんに背を向けた。暫く静寂が続いた後、サトルさんの規則的な寝息が聞こえてきた。
眠ったんだ。良かった。何もなかった。 良かった、のか。本当は、何かあった方が嬉しかったんじゃないか。 得たものを失った時の悲しみはもう御免だから、友達という関係を望んだんじゃないか。 私の中にたくさんの人が住んでいるように、様々な思いが錯綜し、なかなか眠りにつけなかった。
ごみ収集車の陽気で単調な音楽が聞こえた。この辺りは土曜日でもごみ収集があるのか。 目を開けた。目の前に、サトルさんの顔があった。近い。こんな間近で見たことが無かった。ラフに整えられた眉。筋の通った綺麗な鼻。密度の濃い、短い睫毛。薄い唇。耳にはピアスの穴が開いていた。暫く見惚れていた。
目を閉じたままのサトルさんの腕がいきなり私の背中に回り、ギュッと抱き寄せられた。 驚いて、声も出なかった。 「ちょっと、こうしてて」 耳元で、サトルさんが囁く。私は返事が出来ない。心臓の鼓動がサトルさんに伝わってしまいそうなぐらい、密着していた。動けなかった。空気を吸う事さえ、躊躇われた。
「ハグ、してくんないかな」 そう言われた。ハグって言われても――。外国人が「ハロー」と言いながら抱き合って頬を寄せ合うあれ?頭の中で思い描いた。ギャグにしかならない絵面だ。 自分の左腕を、サトルさんの背中にぐっと回し、抱き付き返した。今まで気づかなかった、煙草の匂いがした。ユウと同じ煙草。でも、ユウとは少し違う。これはサトルさんの匂い。それが心地よいと感じている。
サトルさんは、私の肩の辺りにあった顔を目の前にずらし、額と額を付けた。一呼吸置き、そして唇を重ねた。優しいキスだった。 私を抱いたまま、サトルさんは私の上に膝立ちで重なり、再び抱きしめてキスをした。唇から暖かい舌が入り込み、踊る。心地よさに思わず吐息が漏れる。長い長いキス。煙草の匂い。
「歯、磨いてな――っん――」 私の、やけに冷静な呟きをキスで静止した。 そして耳へ、額へ、首筋へ、サトルさんの唇は移動し、再び私の唇に重なった。舌と舌が絡み合い、吸われ、吸いついた。下腹部に、サトルさんのモノが当たる感覚がある。 「俺、インポ治ったかも」 「世の中では『朝勃ち』って、言うんじゃなかったっけ」 「いや、これは列記とした勃起だよ」 「あら、嬉しい」
昨晩と同じ天井から電気のコードが垂れている。だけど昨日より少し大きめの円を描きながら、そのコードは揺れていた。 サトルさんは近くにあったリモコンで冷房を入れた。
暫く抱き合っていたけれど、サトルさんはそれ以上踏み込んでこなかった。私も、それ以上踏み込まれなくて良かった。人に見せられる下着を履いていなかった事が大きな理由だ。あぁこんな時、女らしく小奇麗なレイちゃんやシノちゃんだったら、綺麗な下着をさっさと脱いで、最後までしちゃうんだろうな。
思っていた以上に起床時刻が遅かったらしく、サトルさんは午後からの仕事の支度を始めた。 私はこれと言って支度する事も無く、いそいそと動き回るサトルさんを部屋の隅から正座をして眺めていた。
私は、サトルさんの何なんだろうか。何になったんだろうか。そんな事を聞いてもいいんだろうか。私はサトルさんの何になったら満足なんだろうか。 これまでの私的恋愛常識(って何だ)に照らし合わせれば、この状況はもう「お付き合いに入りました」という事になる。が、価値観なんて人それぞれ。
支度を終えたサトルさんは私が座っている目の前に、同じように正座をしたそしてまた、私を抱き寄せた。頭を撫でられた。左耳からサトルさんの囁く声が侵入する。 「本当は最後まで、したかったんだよ」 「うん」 「また、来てくれるかい?」 「呼ばれれば飛んで参ります」 そして再び、少し長い口づけをして、立ちあがった。 「んじゃ、行きますか」 敷きっぱなしの布団をそのままに、駅へ向かった。
駅までの道程で会話した内容は殆ど覚えていない。上の空もいいところだった。 「じゃ、またメールするよ」 いつもの別れ方をして電車に乗った。
まだ、夢の中にいるような気分だった。ついさっきまで、サトルさんの唇が重ねられていた部分に、指を這わせる。あのキスに、どういう意図があったんだろう。 意図なんてあったんだろうか。単純に「男はオオカミ」理論なんだろうか。私の様な女に、サトルさんが惹かれる訳がない。とすると、なんぞや、セックスフレンドにでもなるつもりか。そんな悪い人なんだろうか。セックスフレンドは悪い関係なんだろうか。サトルさんのセックスフレンド、上等じゃないか。
考える事は山ほどあるのに、答えが1つも出てこない。気付いたら、「ただいま」も言わずに部屋に戻っていた。「ただいまぐらい言いなさい」と母に怒鳴られた。
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