.45 体感温度
その後、ハルさんは独身寮に入り、仕事が始まった。 仕事帰りに私の家に寄る事もあったが、宣言通り、まだ私には手を出していない。 10月の末、役所から書面で、離婚が成立した事を知らされた。直後、将太から携帯にメールが届いた。
『離婚が無事成立したという紙が届きました。引っ越しの日、手紙をありがとう。俺はミキの、自由奔放な所が凄く好きだった。だけど愛し方が難しかった。 1度でも俺を選んでくれてありがとう。笑顔あふれる毎日を送ってください。』
道の側溝には茶色や黄色の落葉が溢れ、ストールやブーツ姿での人が増えた。徐々に冬は近づいている。 吹く風は冷たく、寝ぼけ眼を一瞬で開く力を湛えている。寝ぼけ眼で玄関を出て、ハルさんの車に手を振った。よし、目が開いた。
車は伊豆に向けて出発した。ハルさんは終始ご機嫌と言った様子で、マシンガンの様にしゃべり続けた。 離婚が成立して間もない私を、少しでも元気づけようとしているのか、旅行で舞い上がっているのか――。ま、後者だろう。
観光名所はハルさんが調べ上げていた。そこを順番に周っていく。こういうプランを組み立てるのが好きだって、以前言っていたような。 ハルさんには申し訳ないが、私は時々、サトルさんの事を考えていた。どうやって清算しよう。 ハルさんはもう、私と付き合うという方向で考えている、というかもう、付き合っているんだと私も思っている。捨てるものを捨てずに苦しむのは嫌だ。 ハルさんとサトルさん、どちらかを選ばないといけないと思う。だけど人間は欲深く、どちらも欲しいと思ってしまう。
上の空で観光地を巡り、宿に着いた。 男女別の露天風呂に浸かり、上気した顔で夕食をとった。部屋食だったのでゆっくり、明日のプランを練りながらの食事だった。
その後は持ち込んだお酒を飲みながら、敷かれた2組の布団の上で、お喋りをした。 どちらかが「寝よう」と言い出すまで寝れないんじゃないかというぐらい、話が弾んだ。 遂には日付を跨いでしまった。
「そろそろ寝ないと、まずくない?」 「そうだね、明日は秘宝館に行かないとだしね」 やたらと秘宝館に行きたがっているハルさんの中2加減に笑った。 電気を消し、2人別々の布団に入った。
もぞもぞと音がして、ハルさんは私の手を握った。 「もう、不倫にならないよね」 「そうだね」 「俺、一緒に歩いてるだけでムラムラしてた」 「なにそれ、怖い」 そしてまたもぞもぞと音がして、私の布団にハルさんが入ってきた。そして背中に腕を回し、抱かれた。温かかった。私もハルさんの腰に手を回し、抱き返した。
「俺はミキちゃんのウンコなら食べれると思う」 「おい。ムード丸つぶれ」 「ミキちゃんは俺のウンコ食べれる?」 「超緊急時におしっこなら飲めるかも」 「じゃぁ俺の勝ちだ」 「日本語でどうぞ」
額と額がぶつかる距離でする会話とは思えない。それでも私は顔が真っ赤だった。ハルさんの顔が見れない。 ハルさんは顔をずらし、短くキスをした。そして私の顔を見ると、次は長く長く、濃密なキスをした。抱く腕が痛いぐらい強い。
着ていた浴衣の帯を解かれ、下着姿になった。ハルさんも自分の帯を解き、「ほら、こんなに」と自分の股間に私の手を触れさせた。 そしてセックスをした。今までの誰の物とも違う、初々しくて探り探りで、くすぐったくて初恋の匂いがするセックス。 溺れていたいとか、そういう言葉とは相容れない、誠実な、一生懸命なセックス。気温の低さなんて物ともせず、汗ばみながら2回、交わった。 我ながら「サカってんなぁ」と思った。
「俺の彼女になって。俺の物になって。俺しか見ないで」 「うん」 酷く優しい声で、私を独占する言葉を吐いたハルさんに、「言葉なんて曖昧なんだから」なんて、酷過ぎて言えなかった。 短い期間に3回も、風邪をひいてしまった。職場で流行っている風邪を全て引き当てている感じだ。この引きの強さを宝くじか何かに活かせればいいのにと思った。 休むたびに、ハルさんが夕飯を買って看病しに来てくれた。 風邪が染るから来なくていい、と本気で断っているのに、それでも玄関のインターフォンが鳴り、その度に頭を抱えた。 もう、いっそキスでもして染してしまおうか。12月に入り、白い息を吐きながらコンビニの袋を差し出すハルさんを見て、思った。 風邪が治ると、時々泊まっていくようになった。私の家から直接、仕事に行く日が、週に2回程。土日は私がスタジオリハの日以外は、一緒にいる事が増えた。 不思議と「自分の時間が欲しい」とは思わなかった。 新年は、私の家でお酒を飲みながら迎えた。途中、フェスで再会した福島君からハル(さん付はもうやめた)に電話が来て、「付き合ってるんだよ」と伝えたら、酷く驚いていたそうだ。
『中野さん、人妻じゃん、だって』 「ほぇ?いつの話だよ。原始?」 ベンチの隣に座る私の肩を抱いた。
「ミキの彼氏だ、って、俺は色んな人に自慢したい」
.46 受容体
仕事始め恒例、達磨奉納を終えて、職場近くの居酒屋で新年会が行われた。 私は先輩女性数人に離婚について突っ込まれ、女ってこういう話題が好きなんだな、とげんなりした。 デニムのポケットに入れていた携帯が短く振動し、メールの着信を告げた。ハルからだろうかと確認すると、意外な人物からだった。
『ミキ嬢、久しぶり。寒いけど風邪などひいてないですか? 久しぶりに会いたいと思っています。今度横浜に行く用事があるんだけど、どうかな?ゆっくり近況報告でも出来たらと思います。』
動きが止まる。ゆっくり近況報告――。
「俺の彼女になって。俺の物になって。俺しか見ないで」
ハルの言葉が頭を去来する。私は捨てなければいけない。どちらかを捨てなければ、前に進めない。心から笑えない。顔から影を拭えない。 そのままトイレに行き、返信をした。
『こんばんは。実は離婚をして、引っ越しました。横浜からなら電車ですぐなので、良かったら家に来ませんか?何もお構いできませんが。』
トイレから戻り、元の場所ではなく、さいちゃんの隣に座った。 「高円寺の人からメールが来た」 「うわ、久々じゃん」 「どうしよう」 「何、どうした?」
飲み会が終わり、殆どの人間が2次会へ向かったが、私とさいちゃんは2人でカフェに入った。いつもそうだ。会社の旅行の帰りでも、研修の帰りでも、さいちゃんとは2人きりでどこへでも行けてしまう。2人、似た者同士で気が合うのだ。田口とはまた違った、男女の友情を感じる。
「何てメールが来たの?」 カフェモカが入ったカップから、白い湯気がゆらゆらと立ち上り、甘い香りが鼻をつく。 「今度会いたいって」 「んで?ヤりたいって?」 「そんなムラムラを前面に出すような人じゃありませんっ。さいちゃんと一緒にしないで」 むっとして唇を突き出すとさいちゃんは笑った。 「庇うねぇー。余程好きなんだな、その人」 ふんっ、と鼻を鳴らした。あぁ、可愛げがない。
「うちに来るように言っちゃったんだ」 「別にいいじゃん、そのままヤったら?」 カップを持ち、カフェモカに口を付けた。まだ熱い。 「もう、やめようと思ってるんだ、そういうの」 「どうして?」 さいちゃんも熱かったのか、ブラックコーヒーが入ったカップをすぐにテーブルに戻した。
「さいちゃんは妹が沢山いて、面倒にならないの?1人に絞ろうとか思わない?」 暫く考えて、口を開く。 「俺は、まぁ、面倒ではあるけどな。でも絞れないな。どれもいい」 「私もそうなんだよ。どれも良い。だけどもう、それじゃいけない気がするんだよ。俺だけを見てくれ、って言われて、嘘は付けない」 さいちゃんが私の顔をじっと見つめる。 「そう、誰かに言われたの?」 「うん」
さいちゃんの手がテーブル越しに伸び、私の髪をその指先で撫でた。 「それに従おうと思ったなら、その通りにしたらいい。他の人の事を断ち切ってでも、その人について行ったらいい。 俺の妹達は、そんな事言わないからな。俺以外にも男がいるんだろうし」 「さいちゃん、結婚遅そう」 「大きなお世話じゃ」 お互い、コーヒーをひと口飲んだ。
「さいちゃんに聞いて貰って良かったよ」 「俺でも役に立った?」 「うん。基本、似た者同士だし」 「俺はいつでもノッチの味方だ」
タキと同じような事を言うなぁと思って、小さく笑った。
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