.43 刻印
翌朝、アラームの音で目を覚ますと、ふかふかのベッドの中にいた。もう少し遅くアラームをセットしたのであろう太一くんが、隣ですやすや眠っていた。 そして、私も太一君も、布団から出た腕が、裸だった。布団に潜りこんでみたが、太一君も私も全裸だった。
何があったんだ、思い出すんだ、自分。だが、何も思い出せない。太一君をトイレから救出してからその後、何も思い出せないのだ。 私がじたばたしていると、太一君がむにゃむにゃと何かを言いながら細く目を開け瞬きを数回。そして大きく目を開けて「ワァァァッ」と叫んだ。
「おはよう。何か大変な事が起きていると思うんだけど、覚えてる?」 「ミキちゃん、裸?」 「そうみたい」布団で胸を隠し、肩まで見せた。 太一君は横になったまま頭上や床を見渡し「あ」と呟いた。 「何、どうした?」 「使用済みの――ゴム発見」 「マジでか」 「マジで」
普通に会話しているのが恥ずかしくなって、背中を向けた。太一君はごそごそとこちらへ間合いを詰め、そして後ろから私を抱きしめた。 「しちゃったみたいだね。ごめんね」 「ごめんね、ってこんな風に抱きしめながら言う言葉か?」 「そうだね。俺はミキちゃんと出来て嬉しいけど、せめて記憶しておきたかったなぁ」 「アハハ、確かに。2人とも記憶ぶっ飛んでもサカってたんだなぁ」
その後は何事も無かったかのようにさっさと出掛ける支度をして、フェス会場に向かった。 車の中で、太一君が前を見ながら尋ねた。 「旦那さんはフェスに行く事、反対しなかったの?」 昨晩の事を考えると何となく顔を見るのが恥ずかしく、私も前を向いたままで答える。 「もう、旦那じゃなくなるから」 「は?何?」 「離婚するから」 赤信号で停車すると、ゆっくり私の方を向いた。 「マジでか」 「マジでだ」
ふーん、と言いなぜか嬉しそうに「そうかそうか」とか独り言を呟きながら太一君は車を走らせた。人の不幸は蜜の味、か? 「ミキちゃんは毎回、何かしら驚きの事実を暴露するよね」 「そうかな」
小規模なフェスではあるが、会場はかなり込み合っていて、いつも通り私は「後ろの方で見るから」と言ったが「俺も」と太一君が言うので、一緒に後ろで見た。 それでも混みあった場所を通る時には、そっと腰を抱いて私の身を庇ってくれた。優しいな、と思った。 ヘッドライナーまで見て帰ると車の出庫ラッシュにぶつかるから、と、ひとつ前のアーティストまで見る事にした。 最後に見たのは、まだ若いけれど、疾走感とメロディアスな旋律でカリスマ的な人気を誇っているバンドだった。別段好きなバンドではなかったが、聴いていて心地が良かった。 2人で並んで斜面になった芝生に座り、ステージを見ていた。さっきまではライブを観ながらあれやこれやと話をしていたのに、急に2人、静かになった。 膝を抱えて小さく座った私の肩を、太一君が抱き寄せた。芝生ががさっと音を立てた。その腕の温かさが優しかった。最後に聴いた曲が、暫く頭から離れなかった。
出庫ラッシュに見舞われずスムーズに太一君の家まで戻ってきた。 明日は午後から仕事なので、午前中の便で帰る事を伝え、「じゃぁお酒は控えめにしないとね」なんて言われた。太一君も空港まで私を送るために、半休を取ってくれているらしい。 「今日はお互いお酒に飲まれないように」 そんな交通安全の標語の様な事を言いながら、昨日と同じペースでお酒は進んだ。しかし記憶は飛ばないギリギリの線で、昂揚感だけを感じていた。 シャワーを借りて、Tシャツと短パンという色気のない格好に着替えた。 シャワーを浴びてもなお酔いは抜けず、何を話してもケタケタと笑っている自分がいた。太一君も私ほどではないにしろ、ゲラゲラ笑っていた。ベッドで腹を抱えて転がりまわっていた。 昼でも夜でも外でも部屋でも、ひまわりはひまわりだった。暗い照明の中で明るく咲き誇るひまわり。
「あぁぁ、酔っぱらってるぅー」 そう言いながらベッドに大の字になった。太一君も隣に横になり、私の方を向いたので、私もそれに倣って太一君の方を向いた。 「今日はゲロ吐かないね」 「昨日程、飲んでないからね。記憶にきちんと残しておきたいから」 「私の酔い姿をかっ、そうなのかっ」 「違うよ」 アハハと笑いながらも視線を外さない。私の手を握ると、私の方へ寄ってきた。顔が、すぐそこにある。
「俺は、ミキちゃんに電話を借りたあの日から、ミキちゃん、いいなぁって思ってたんだよ」 急にまじめな話になり、頭の回転がついて行かない。「うん」としか答えられない。 「でも、彼氏いるっぽかったし。でもずっと気になってて、俺も彼女いるけど、ミキちゃんが彼女だったらってずっと思ってて――」 あらら、この人何を言ってるんだ。糖分の取り過ぎですか?
「こらこら、彼女がいるならそれで――」 「ミキちゃんがいいんだ。昨日と今日一緒にいて、そう思ったの。ミキちゃんが俺の彼女だったら嬉しいんだ」 握りしめる手を強くする。いつもの笑顔は消えていた。私はゆっくりと口を開いた。
「私はね、太一君がひまわりみたいにキラキラ笑う顔が大好きで、それに色んな趣味も合うしね。太一君が彼氏だったらそりゃぁ、嬉しいと思うよ」 今日だって、こんなに優しい彼氏がいたら、。そう思った。「だけどね」と続ける。 「私は何でも拾いたがりで捨てられないんだ」 「どういう事?」 酔っている頭をフル回転させてもなかなか言葉が出てこない。
「んーと、好きって言われたら好きになっちゃうの。そして離れるのが怖くなるの。そうすると周りに沢山の人が集まっちゃって、収拾つかなくなる。だから、決めたの。清算するって。まずは旦那を捨てたの」 「俺も、捨てられる運命?」 「ううん、そうじゃない。友達として付き合っていきたい。 私、遠距離恋愛出来る程、器用じゃない。逢えない時間が愛を育てるなんてのは、私の中ではありえない。 そこにいて欲しいんだ。好きな人には。そんで、これから多分一緒にいてくれるであろう人が、横浜で待ってるの」 太一君を拒絶したい訳ではないのに、良い言葉が見つからなくて、もどかしくて、涙が溢れてきた。あぁ、何でこういう時に泣いちゃうんだろう。涙が女の武器だなんて思われたら困る。
太一君は私の頭の後ろに手を回し、抱き寄せた。太一君の首筋からは、シャンプーの匂いがした。 「言いたい事は良く分かった。ミキちゃんの優しさも分かった。 俺だって北海道に彼女がいるのに、ミキちゃんに惚れてる。うまく行かないなぁって思ってるよ。皆そんなに器用じゃないんだよ」 「うん」 太一君の肩に埋もれている私の声は、くぐもっていた。 「じゃぁさ、今日、今夜だけ、俺の彼女でいてくれない?ミキちゃんとの事を、きちんと記憶に残したい」
何という破壊力のある言葉だ。今夜だけ彼女で。言葉なんて曖昧な物だけど、彼から発せられたこの言葉は、私の臓腑の奥底にズンと響いた。 「私で良かったら」 恐る恐る太一君の顔を見上げると、そこにはひまわりの様な笑顔が咲いていた。 「その顔が好きなん――」 言い終わる前に、唇で唇を塞がれた。舌を絡ませあい。唇の角度を変えてはまた吸い付き合う。そのまま太一君を私の上に跨り、甘い甘いセックスをした。
「ちゃんと記憶に残った?」 タオルで汗を拭く太一君の背中に問うた。 「残ったよ。つーかまだ俺の彼女だからね」 そう言って布団に舞い戻り、私を抱いた。 「くっつかないで、暑いよぉー」 「我慢するの。これぐらい。今日しかないんだから」 タオルで拭いた筈の汗が、2人の身体を接着するように湧いてくる。
「ミキちゃんは予想通りのツンデレなんだね」 そう言って私の顔を覗き込む。そこにはいじわるな笑顔が見えた。 「ツンデレ?何それ美味しいの?」 「全力で日本語だけど」 ツンデレの自覚はあったけれど、あえてそれを、一戦交えた直後に言われると、やっぱり恥ずかしいものだ。
「太一君の事、好きだよ、私」 「俺だってミキちゃんの事、大好きだよ」 短いキスを2回、唇に落とした。 「あー、明日が来なければいいのにー」 太一君は私を抱く力を強めてそう言った。 「あー、明日1日有休にしとくんだったー」 仕事めんどくさい、とぼそっと言うと、太一君は笑いながら私の背中をパチンと叩いた。 「そうやって糖分低めの会話に持って行くのが、ミキちゃんのパターンかっ」 笑いをこらえながら太一君の顔を見る。ブッっと吹き出してしまった。 「ケーキは好きだけど、甘い雰囲気が苦手なの」 「その口塞いでやるーっ。」
それから長い長いキスをした。私にとっては十分甘い甘い夜だった。この夜、太一君の彼女でいられて幸せだった。
浅田さん、ごめんなさい。200円が400円に跳ね上がりそうです。200円分は記憶にないので、申告しないという手もあるけれど。
翌朝、空港まで車で送ってもらった。「また東京に行く時、遊んでよ」と言われ「うん」と答えた。 搭乗ゲートをくぐりながら大きく手を振った先には、大きなひまわりの花の様な笑顔があった。 見えなくなってから、それまで瞼の下で待機していた涙が、待ってましたとばかりに零れた。これでまた1つ、清算。
.44 プロテスタント
「もしかして、また負けた?」 水曜の休憩室では週末の賭けの勝敗がついて、小銭のやりとりをしている。 「でもでも、土曜日は記憶にないんです。残っていたのはゴムしかないんです」 「でも使用済みだろ」 「はい」 「じゃ、負け。俺と斉藤に400円ずつねー」 小野さんが慈悲も何もない声でお金を徴収する。
「何で私ばっかり賭けの対象になるんですか?さいちゃんも妹達とサカってるのに」 「俺は必ずヤるから、賭けになんねーの。生理日まで調べてあんの」 うわ、こいつ開き直ってやがる。小野さんは既婚者だから、行っても風俗。浅田さんは彼女がいないので、こちらも風俗。そしてさいちゃんは「必ずヤる」宣言。真面目な顔で「今晩だけ彼女になって」と言った太一君を思い出すと、賭けなんかにしてしまって申し訳ない気持ちになった。
「それにしても、ゴムしか残ってなかったって、意識ぶっ飛んでたんだな。何か想像したらムラムラしてきた。半勃ちだわ」 そう言って小野さんは自分の股間に手を当てる。 「小野さんは生涯中2の人生を歩んでください」 小銭が消えた財布のファスナーを閉じた。
タキと居酒屋で呑んで帰ると、既に自宅には明りが灯っていた。
「お帰り」 「あ、ただいま。帰ってたんだ」 なるべく視線を合わせないように会話をする。鞄を置き、携帯を充電器に差し込む。
「あのさ、離婚の件なんだけど」 私は顔をあげ、無言で将太を見た。将太は私から視線を外した。 「離婚するよ。親にも相談して、引っ越し代とかまぁ、新居の敷金とか、その辺も負担するから。時間がある時に、離婚届取ってきてもらえる?」 「うん、分かった。何て言えばいいのか分からないけど、あの――ありがとう」 「お礼言われるのも何か変な感じだなぁ」 将太はへへっと短く笑った。私の顔にも、安堵の笑みが零れた。 この家に住んで、こうして心からの笑みを浮かべたのは、いつ以来だろう。PCの電源を入れながら考えた。
それから数日で新居の物件探しをした。母は「少しでも実家に近い所に住め」と言い、結局父が探し出した、2DKのマンションに決めた。 駅から徒歩十五分、山を越え谷を越える物件だが、広さも収納も十分あり、1人暮らしには勿体ない物件だ。
引っ越し当日までに離婚届を書き上げ判を押し、もう私が腰掛ける事はないであろうソファに置いた。将太と一緒に選んだ赤いソファを、指で触った。テーブルにあったメモ帳に走り書きした。
『将太へ 今までありがとう。離婚届、書いたら提出してください。時間が無ければ私に送ってください。 将太の1番の理解者でありたかった。分かってあげられなくてごめんね。わがままばかりだった私を、それでも愛してくれて、ありがとう。 ミキより』
引っ越し先のマンションの前で、ハルさんが待っていた。引っ越しの手伝いをしてくれる約束だった。
「就職決まったんだ、知らせたくて」 会うなりそう言った。余程嬉しかったんだろう。 「おめでとうぅっ。タイミング良いなぁ。じゃぁ今日は引っ越し祝いと就職祝いで呑みますか?」 「ですね」
引っ越し屋さんのトラックから荷下しをする作業を、ハルさんも手伝ってくれた。引っ越し屋さんが帰ると、今度は荷解きまで手伝ってくれる。 「とりあえずお酒が呑める程度の荷解きで、いいよね」 大型家具はテーブルとベンチぐらいで、あとは後日ベッドやダイニングテーブルが届く。ソファはふかふかの物ではなく、合皮のベンチにした。軽くて、掃除もしやすそうだから。すわり心地は――良くないけれど。
新しいベンチに座って乾杯をした。缶と缶が当たる音がする。 まだ段ボールがあちこちに転がっているけれど、明日1日で片づけよう。 「仕事はどの辺で?」 「ミキちゃんの職場に結構近い方だよ。で、独身寮に入るんだけど、ミキちゃんの最寄駅から地下鉄で3駅だね」 「引っ越しはいつ?」 「来週末」 「じゃぁ今日のお礼に手伝うよ」 柿の種をぼりぼり食べながら、ビールを飲む。おっさん二人の光景。
「そうだ、何祝いか分からんけど、ウォッカ持ってきた。あと、ミキちゃんの好きなトマトジュースも」 「うわ、ブラッディメアリー作れるじゃんかっ」 テンションが上がった。私は自分でウォッカなんて買わないから、ビールとトマトジュースでレッドアイ程度しか作れないのだが、ウォッカがあれば大好きなブラッディメアリーが作れる。
「新潟はどうだった?」 「うん、知らない街だった」 何だその感想は、と突っ込まれた。 「フェスは小規模だったけど、まぁ良かったよ。静かに観れたしね」 「で、一緒に行った彼とは、あれ、そんな感じになっちゃったの?」
正直に話すべきか迷った。ハルさんは、私と太一君の間に何も無かった事を願っている。ここで私が正直に話したら――でもハルさんを選んだ、なんて調子の良いことを言ったら――。ここは言葉の曖昧さに甘えよう。ここだけは嘘を吐かせてほしい、そう思った。 「そんな感じ?なってないよ。そんな感じってなんだそりゃ」 これ以上突っ込まないでくれ、頼む。心の中の私が一生の半分ぐらいのお願いを使い果たした。さぁ、話をずらしにかかるか。
「離婚成立は、今月末ぐらいになりそうだなぁ」 「じゃぁ来月になったら、伊豆に旅行にでも行かない?」 来月はもう11月だ。少し肌寒い季節だな。 「俺、色々調べておくよ。秘宝館とか、行ってみたいんだよねぇ」 ニヤニヤと笑う横顔は、お酒のせいで少し赤らんでいた。よし、と言って私は立ち上がった。 「新しいキッチンで、ブラッディメアリー作るぞぉぉ」
段ボールから出した透明のグラスに、コンビニで買ってきた氷を入れ、ウォッカ、トマトジュースを入れ、これまた段ボールから取り出したマドラーでかき混ぜる。たちまち血の様な赤い飲み物が出来上がる。 「トマトジュースが嫌いなんて人は、この世から消え去ればいい」 「俺は嫌いだけど」 ごくり、とひと口飲んで「ごめん」と呟いた。2人視線を合わせ、顔を緩めた。少しだけ、心から笑った。
「順調に離婚が成立して、時々見せるミキちゃんの寂しそうな顔が消えるように、俺は頑張る」 嬉しくて、目が潤む。 「何を頑張るの?」 意地悪く訊き返す。 「何をって、んーと、そうだな、笑わせる。ずっと、ひっきりなしに笑ってられる様にする」 「アンタは芸人かっ」
それでもハルさんの言葉は私にとって十分な説得力を持ち、彼になら出来るんじゃないかと思わせてくれた。
その後、ブラッディメアリーを飲み続けた私は、またもや記憶を飛ばし、しかしハルさんと一戦交えた形跡はなかった。
その代り、翌朝、新居のシンクには真っ赤な吐瀉物がへばり付き、自分の髪からもその欠片が臭った。 「何だ、何があったんだ――」 「昨日ミキちゃん、飲み過ぎて吐いて、しかも寝ゲロまでしちゃって、俺タオル探したりするの大変だったんだよ」
うわー、自分に惚れている男に寝ゲロの処理させちゃったよオイ。二日酔いで、未だに胃液が重力に逆らって遡上しようとする。 「あぁホントごめん。ホントごめん。とりあえずシャワー浴びたい」 とんだわがまま娘だ。私がシャワーを浴びている間、シンクにあった吐瀉物を、ハルさんが綺麗に流してくれていた。 私は髪にこびりついた吐瀉物が排水溝に吸い込まれている様を見ながら、「酒は飲んでも飲まれるな」の教訓を思い出していた。
シャワーを浴びて、新しい部屋着に着替えてベンチに座った。「気持ち悪っ」とか言いながら、ハルさんが入れてくれた水道水を少しずつ飲んだ。 「私、こんな人だよ、いいの?」 「いいじゃん、人間らしくて。もうゲロも見ちゃったし。あとはウンコ見たら結婚だな」 アハハーと笑うハルさんを見て、私もぷっと吹き出した。
「まぁ酒は程々にって事で、これからは俺もそこそこの所で止めに入るからさ。俺以外の男の前で、そんな風にならないでね」 太一君の顔が頭を掠めた。もう、思い出。終わりがあるから思い出になる。 「はい、気を付けます」 時すでに遅し、ってやつ?こいつ記憶飛ばした挙句にムラムラしてヤっちゃってますよー。 という心の声は黙殺した。
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