.39 奇跡はあるって
5回目は、ハルさんのバイクでツーリングをした。
田口は「抱き付かなければどこでもいい」と言ったけど、ハルさんは「腰に手を回しておかないと危ないから」と言って両手を自分の腰に回してくれた。
ハルさんの住まいに近い、大きな川でバイクを停め、護岸に座って缶コーヒーを飲んだ。 すると、スーツを着た中年男性が近づいてきた。満面の笑みを湛えた顔で私たちに話しかけた。 「君たちは、前世を信じていますか?」 あ、宗教勧誘、すぐに気づいた。 ハルさんはこちらを見てニヤリと笑って「はい」と答えた。適当に「興味ありません」って流せばいいのに。 「おや、では前世は何だと思いますか?」 「猫です」 「――猫、ですか」 明らかに中年、困っていた。ハルさんと私は顔を合わせてクスリと笑った。 「君たちは恋人同士ですか?」 今度は何て答えるんだろうとハルさんの横顔を見た。 「はい、そうです」 おいぃぃぃぃぃっ、そこ嘘ついてどうするんだっ。 「そうですか。君たちの前に明るい未来が待っていますように。それでは」 そう言って中年男性は去って行った。勧誘は諦めたようだ。初っ端の「猫」発言で。
缶コーヒーを飲み干すと、「ちょっと涼しい所を走ろうか」と言って、再びバイクに跨った。 渓谷沿いにある道は、夏場でもとても涼しく、空気もおいしい。そこをバイクの排気で汚していくのも気が引けるが、まぁツーリングだから仕方がない。ところどころでバーベキューやキャンプをやっている団体が目に入る。
途中でバイクを降りて崖を降り、川に近づいた。川の水は痺れる程冷たく、そこに横たわる岩は、太陽に熱せられてジリジリと熱い。少し日陰にある岩を見つけてそこに座った。
「キャンプした事ある?」 小石を見つけては川に投げ込みながらハルさんが訊く。小さいトポンという水音は、すぐに川の流れる音によってかき消される。 「小学生の頃、自治会でやったなぁ。ハルさんは?」 「俺はないねー。子供が出来たりしたらやってみたいけど」 「そうだね、家族でキャンプは楽しそうだよね。うちは父親不在的な家だったからねー」 「ミキちゃんと話してると幸せな話が出てこないのな」 顔を見合わせて苦笑した。
暫く、川の流れる音と、ハルさんが投げる小石が川面を打つ音を聞いていた。 私に背を向けて、ハルさんは1つ、大きなため息を吐き、そして言った。
「俺、ミキちゃんの事、好きになった」
鼓動が早くなった。眩暈がした。思わず口をついて「嘘だろ――」と呟いてしまった。 初めて「両想い」が叶った小学生のような、初々しい気分だった。暫く返事が出来なかった。 それは自分の今の立場ではどうしようもないからだ。私は既婚なのだ。 「私も、ここんとこ急速に惹かれてるんだ。でも、どうしたらいいのか、分からない。どう応えてあげたらいいのか、分からない」 そう言うと、何故だか涙が溢れてきた。涙は睫毛の手前で辛うじて堪えている。 こんなに好きになっちゃったのに。私には旦那がいる。何で、何で結婚なんてしちゃったんだろう。 ポロリと睫毛を揺らした一粒を皮切りに、涙が落ちてきた。 私が泣いているのを見て、ハルさんは私の手を取った。「戻ろう」そう言って私の手を引きながらバイクのある方へ歩いた。 先程よりも強い力で、ハルさんの腰を抱いてしがみついた。ハルさんは時折、私の手を握ってくれた。
さぁミキ、そろそろ腹を括る頃だよ。
自宅の横までバイクで送ってもらった。ヘルメットを返し、短いキスをした。また涙がこぼれた。 「結構泣き虫なんだな」 「うるさい。ほっとけ」
翌日、タキの家を訪れた。 昨日起きた事を順を追って話した。
「ミキはもう、心に決めたんでしょ」 「うん、別れるしかないと思う。相手がハルさんでもそうじゃなくても、今のままじゃ人生勿体ない」 既にもう勿体ない事をしているのだ。 「私もその方が良いと思うよ。ご両親には?」 「まだ話してない。あぁ、言いにくいなぁ」
結婚とは、自分と相手だけではない、家族と家族のつながりも出来るのだ。親にはなかなか言いにくい。何しろまずは将太に言いにくい。 「娘の決断なら、親は何も言わないでしょ。それより、旦那には何て言うの?」 「出ていくって言う。慰謝料はいらないから、引っ越し代と、共同で買った家電とかのお金を半分返して貰う。そしてこれまでの数々の悪行を清算して行く事をここに誓います」 唇をきゅっと締める。きっと今、私の唇はリンゴ飴の様に赤い。決めた。決めたのだ。
「今日ね、そこの川で花火大会があるんだ。見て帰る?」 「うん、見る」 それ以上、離婚の話には突っ込んでこなかったのはタキの優しさなんだと思う。 その夜、母に電話を掛けた。掛ける前から泣きそうだった。親不孝な娘を、許してください。 「お母さん?」 『ミキ、どうしたの?』 「お母さんあのね、私、離婚しようと思うんだ」
『――そう。お前がそう決めたなら、そうしなさい。理由は聞かないけど、時々見るお前の顔は、あんまり幸せそうじゃなかったもん。今お父さんに代わるから』 母は何も訊いてこなかったが、訊かれても答えられるような状況ではなかった。涙が溢れて止まらないのだ。嗚咽が止まらない。
『お父さんだけど、お母さんから今聞いたよ。好きにしなさい。お父さんはあの男、初めから好きじゃなかったから』 そういって父はカラリと笑ってくれた。私も泣きながら笑い返した。うまく笑えたかなた。あぁ、父の様に、母の様に、子供の考えを最優先にしてくれる親になりたい。そんな旦那さんが欲しい。
「ありがと。あの、お母さんにも――」 『ありがとでしょ、言っておくよ。大丈夫。あんまり泣くと目が腫れるからな。冷やせよ。じゃあね』 受話器を置く。仲が良い父と母ではないけれど、子供を想う気持ちは母も父も一緒なんだ。
目が腫れる、という父からの警告を無視して、一頻り泣いた。
.40 リリース
その日、将太は珍しく私が起きている時間に帰ってきた。チャンスが訪れた、と思った。
「将太、話、していい?」 部屋着に着替える手を止めずに「何?」と答えた。 「家をね、出て行こうと思う」 「――はァ?」 鳩が鉄砲玉を食らったような顔とは、これを言うのか。Tシャツに片腕だけ突っ込んで、動きが止まっている。 「もう決めたの。離婚したい」 「ちょ、え、待ってよ、何それ勝手に」 Tシャツを頭からかぶりながらソファに座って「どういうこと?」と尋ねる。
「あのさぁ、お互いが別の方向を向いてるし、セックスレスでしょ。まずはそれ。」 確かに、と言うように将太は頷く。 「で、前にメールのフォルダを作りたいって言った時、みゆきさん?という人からのメールを見てしまいました。それだけなら許せるけど、送信メールには私に対する不満が書き連ねてありました。そしてお金。お義母さんに借金するほど使い込んでる。これじゃ今後子供ができたって、生活していけないでしょ」 将太はソファに座って俯いている。床に頭が付きそうな勢いだ。頭に上った血液が元に戻れず顔を赤くしている。
「みゆきとメールしてた事は、ミキにも責任がある。ロンドンに行く事、勝手に決めたでしょ。いくら好き勝手やって良いって言ったって、そんな大きな事を相談なしで決めてくるなんておかしいじゃん。それで何だか寂しくなって、みゆきと会ったりしたんだよ」 下を向いたままでそう言う将太に言い返した。
「じゃぁ前もってロンドン行を相談していたら?相談されたことで満足?それならメル友に会わなかったって事?勘弁してよ。責任転嫁も程々にしてくれ」 部屋の柱に寄り掛かって、立ったまま腕組みをして私は、将太を見下ろしていた。 「私も好き勝手やってきて迷惑かけてるから、慰謝料はいらない。新生活に必要なお金を少し負担してくれたらそれでいいから。今から気持を変える事はないから。それと、今日から私、一人で寝るから。何か言いたい事は?」 「少し考えさせてくれ」 俯いたまま顔を上げない将太は多分、泣いていた。それでもここで、伝える事は伝えないと。
「部屋探しして、決まり次第出て行くから。お義母さんには将太から言ってね。お金の事はお義母さんと相談して」 踵を返して、自分のPCを置いている和室に入り、襖を閉めた。押入れに入っていた客用布団を一組取り出し、床に敷いた。 そして横になって天井を見つめた。将太がいるリビングは静まり返っていた。 日付が変わってもなかなか寝付けなかった。ようやっと腰を上げたらしい将太は、シャワーを浴びに浴室へと向かう足音がした。 私はタキにメールした。
『おす。さっき将太に離婚を切り出した。考えさせてくれとは言われたけど、考えを変えるつもりはないと伝えた。頑張ったぞ』
時間帯を考えて、返信は来ないと思ったが、夜勤だったタキからの返信は早かった。
『良くやった。今度スタジオ帰りにケーキ奢ってやる』
いつでも味方だと言ってくれたタキの、真っ直ぐな顔を思い出す。また少し涙が滲んだ。 「じゃぁ、レモンとレアチーズのケーキと、ショコララテのセットで」 「お前奢りだからって高い飲み物頼んでんじゃねーよ、コーヒーにしろっ」 ケーキが美味しいこの店は女性客で込み合っていた。狭い席しか空いておらず、ギターとベースはレジで預かってくれた。 タキのいう事なんて聞かず「ショコララテで」と言い切って、席に着いた。
「とりあえず、良かったな」 タキはコーヒーカップをショコララテのグラスにチンと触れさせて音を立てた。 「そだね。まずは第1歩。これから色々と清算して行く」 「男のね」 「そーね」
ショコララテは思ったよりも甘さが控えめで、ガムシロップを追加した。ストローで混ぜつつ、続ける。 「全てを順調に清算すると、一体誰が残るのか、誰か残ってくれるのか分からないけど、他人に言っても恥ずかしくない恋愛に、最終的には、する」 「良く言った。まぁこれまでのごちゃごちゃした感じも、いい経験になったんじゃない?好きなようにしろって煽っておいてアレだけど、ミキは人生愉しんでるよ」
扇形に広がったチーズケーキをひと口大にフォークで切り、口に運ぶ。酸味が拡がる。 「私、恋愛依存症なのかなぁ。捨てられるのが酷く怖いんだよ。だから、身体の関係でも何でもいいから、繋がっていたいと思っちゃうんだよね」 「そりゃ誰だって捨てられるのは怖いよ。でもアンタは、捨てるのも怖いんでしょ。全部拾ってたらキリが無いんだよ。いらないものは捨てないと。清算するって事はそういう事だよ」 そっかぁ、と呆けたような返事をして、その後に言葉が続かなかった。もう一口、ケーキを放り込む。
タキは何も言えない私に代わって続けた。 「まずは旦那を捨てたでしょ。それで1歩だよ。役所に行ったり、苗字変えたり、色々大変でしょ?」 「苗字は、めんどいから小岩井のままで、自分の戸籍を作っちゃうことにした。何か将太の名残があって悔しいけど、早くいい相手見つけて、また別の苗字に変わるから」 離婚すると、旧姓を名乗るか、現姓のままで自分を戸籍筆頭者とするか選べるのだ。銀行、クレジットカード、会社、何もかも苗字を戻すことを考えると酷く労力がいるのだ。
「早く別の相手見つけるってアンタ――。1度失敗してるんだからね、お母さんそんなの許しませんからねっ」 げんこつにカァーっと息を吹きかけるタキがいた。
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